魔法先生ネギま!(裏)   作:Ahiru

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6時間目 小さな黒い吸血鬼

 2026年 4月7日 20:48

 

 今年も去年と同じように、けれど去年とは違う桜が咲いた。

 

 新学期を明日に控えた、その夜。

 

 寮の大浴場で随分とはしゃいだ。友人の1人が『パイパイくんX』という怪しげなアイテムを取り出したことがきっかけだった。

 

 某ECサイトで美容保湿ローションを購入したつもりが、見た目の似ている別の商品を間違ってカートに突っ込んでしまったと友人は言っていた。よく社内稟議が通ったなと突っ込みたくなるような商品名ではあるが、その字面が示す通り、当該部位に塗りたくることで劇的な豊胸作用が期待できるらしい。本当かよとは思ったけれど、胸囲に対して懸案のある自分としては、眉唾だとは理解しつつもその効用に一縷(いちる)の望みを見出してしまった。

 

 今すぐに試してみたい。私もグラマラスな曲線美を描いてみたい。

 

 そんな折、体型に関する劣等感は特に抱いてはいないらしいその友人(推定Cカップ)が、周囲にいた不特定多数のクラスメイトに向かって「私は要らないからよかったら誰か使ってみる?」とか言い出した。

 

 そうして1つしかない『パイパイくんX』を手に入れるべく、同じくボディラインが発展途上にある一部のクラスメイトたちとの争奪合戦が始まったというわけである。

 

 結局、プールみたいな広さの湯船の中でかれこれ30分は駆け回っていただろうか。

 

 さすがに長湯が過ぎたようで、少し逆上(のぼ)せてしまった。友人たちには先に部屋に戻るように告げてから、(ほて)った体を夜風で冷やすために外に出た。

 

 やってきたのは桜通りだ。

 

 桜通りとは女子寮の南側にある遊歩道のことで、真っ直ぐに伸びた道を挟むように桜の木が林立している通りの俗称だった。並木道みたいに木々が一列に並んでいるわけではなく、ちょっとした林のように何十本もの桜が道の両側に植栽されている。だから、本来であれば向かって右側に寮の別館や集会用の講堂があって、反対側の緩やかな傾斜を下った先には4車線の車道が走っているのだが、隙間なく咲き競った桜の花が外の景色を覆い隠していた。

 

 ぺたりぺたりと、煉瓦タイルの上をおばさんサンダルで歩く。

 

 白い光が桜を淡く照らしていた。空を見上げればまん丸なお月さまが浮かんでいる。

 

 その時、周囲でがさがさと枝が揺れた。びっくりして肩を跳ね上げ、息を飲む。音は止まってくれない。むしろ大きくなっている。何度も周囲を見渡した。桜の木々の奥はまるで煤を流したかのように真っ暗で、なにも見えなかった。

 

 無性に怖くなって走り出した。音がどんどん追ってくる。

 

「きゃあっ!」

 

 木々の隙間から黒い影が飛び出してきた。思わず悲鳴を上げ、尻餅をついた。

 

 影がゆっくりと近寄ってくる。小さい。真っ黒な襤褸(ぼろ)を纏っているように見える。薄闇の中、その双眸だけが爛々と光っていた。

 

「あ……いや……」

 

 黒い影の口がにんまりと弧月を描いた。

 

「いやあああああぁぁぁぁーん!」

 

 少女の悲鳴が桜通りに響き渡った。

 

 ◆

 

 2026年 4月7日 21:02

 

 からころという音がした。

 

「待て」

 

 ヒミナに声をかけられ、少女に覆い被さる黒い影が首だけでゆらりと振り返った。

 

 夜の桜通りは(まば)らに街灯があれど光量は心許なく、頭上の月が街路全体を薄ぼんやりと照らし出すに留まっていた。人通りはまるでなく、直線の見通しはいいが左右に死角も多い。女子寮の敷地に面している場所とはいえ、悪漢がこそこそと活動するにはうってつけの場所だった。

 

 その黒い影の背丈は小さかった。

 

 小学生くらいの身長だ。顔は見えない。黒檀(こくたん)のように真っ暗な外套と、先端がくの字に曲がったとんがり帽子。長い金髪が夜風に揺蕩(たゆた)っている。

 

「まさか、日本に(おもむ)いたその日に相対(あいたい)が叶うとは考えてもいなかったな」

 

 ヒミナが黒い影に近付いていく。からころという足音が響いた。草履(ぞうり)が奏でる硬い音は、夜の澄んだ空気をよく通った。

 

「お前が(くだん)の吸血鬼か」

 

 ヒミナが言った。

 

「……ふっ、生娘(きむすめ)の悲鳴に合わせて参上か」

 

 小さな黒い吸血鬼の声は幼かった。少女の声だ。

 

 その足元には哀れな被害者が横たわっていた。体操服を着た桃色の髪の少女だ。目立った外傷は見当たらない。ただし、吸血鬼による咬傷はすぐに塞がってしまうことで有名だ。恐慌に陥ったせいで気を失ったのか、あるいはすでに血を吸われた後なのか、被害者の見た目だけで判断することは難しい。

 

 吸血鬼の少女は続ける。

 

「随分と都合よく現れたものだな。木の影で息を潜め、時機を窺っていたのか。……貴様はどこの出歯亀だ? 私になんの用があってこの場に立っている」

 

「ただの偶然だ」

 

 嘲りを含んだ吸血鬼の言葉に、ヒミナは素っ気なく返した。

 

「私が吸血鬼を捜していたことは事実だがな。今夜は散歩をしていただけだ」

 

「……散歩だと?」

 

「姿を見せるかどうかもわからない生物を一見するために、わざわざ私が葉陰(はかげ)で背を丸めて待ち(ほう)けているわけがないだろう。吸血鬼ごときが、どこぞの僻地に生息する珍獣の類にでもなったつもりか。思い上がりが過ぎるぞ」

 

「ぶち殺すぞ貴様」

 

 とんがり帽子に隠れて見えないが、たぶん吸血鬼の少女の額には青筋が浮かんでいた。

 

「……貴様は〝イザナミの()〟だな」

 

 浅い溜息と共に吐き出された吸血鬼の言葉に、ヒミナが足を止めた。

 

「……思い出せないのだが、お前も私と昵懇(じっこん)の仲だと(かた)るつもりか?」

 

「まさか、貴様のようなやつと顔見知りであって堪るか。初対面だよ。まったく、なぜ貴様がこんな場所に──……そうか、今朝の侵入者の正体は貴様か。ああくそ、タカミチめ。いい加減な仕事をしよって。なぜこのクソガキを追い返さなかった」

 

 ぶちぶちと文句を垂れ流しつつ、吸血鬼は踵を返してその場から立ち去ろうとした。

 

「待て。確認しておきたいことが──」

 

 ヒミナは背後から吸血鬼の小さな肩を掴もうと手を伸ばした。

 

「触るな」

 

 だが、掌は空を切った。

 

 半身に(かわ)した吸血鬼はヒミナの手首を掴み、(ひね)り、ぐっと下方向に押した。肘の関節を折られまいと反射的に身を(ねじ)ってしまったがために、その結果、ほとんど自らの意思でヒミナは肩から地面に落ちかけた。まるで魔法みたいな現象だった。

 

 煉瓦タイルの路面に叩きつけられる寸前、ヒミナは残った片足で地を蹴り、地上10センチの高さで体を回転させることによって吸血鬼の手から脱出に成功した。

 

 膝を曲げ、着地し、ヒミナは顔を上げる。

 

 吸血鬼が放り投げた小さなフラスコが目の前にあった。

 

「〝魔法の射手(サギタ・マギカ)氷の一矢〟(ウノ・グラキアーリス)

 

 吸血鬼の少女が呟く。

 

 同時に、フラスコに詰められた禍々しい色の液体が反応し、硝子の容れ物を炸裂させ、中から鋭利な氷の刃が──(やじり)が飛び出した。

 

 ヒミナは左腕を顔前に(かざ)した。小さな吸血鬼がフラスコ──中身は魔法薬だ──を介して放った一本の〝魔法の射手(サギタ・マギカ)〟は、ヒミナの前腕に触れて軌道を逸らし、近くにあった桜の木の横っ腹に突き刺さった。

 

「……握手にしては手荒だな」

 

 ヒミナが眉を(ひそ)める。吸血鬼は不快そうな声を放った。

 

「なぜ貴様がここにいる。異端審問院(いたんしんもんいん)からの派遣か?」

 

「院はもう辞めた。()()の討滅が目的でこの国に入ったわけではない。……お前も私の質問に答えろ。改めて問うが、お前は吸血鬼だな?」

 

「さぁな」

 

「人間ではなく、()()の吸血鬼と受け取っていいんだな?」

 

「……なにが言いたい」

 

 訝しげに吸血鬼が言った。

 

 ヒミナは右腕を持ち上げると、手首から先を引っ込めた。ごそごそと袂の中を漁るような動きを挟み、次に右手が袖口から顔を出した時、その手にはりんごのロゴが刻まれた黒色のスマートフォンが握られていた。

 

 ヒミナはじっとスマートフォンを見つめた。数秒の間の後、人差し指を使って、黒い板の側面にある複数の突起を順番にカチカチと押していった。それでもスマートフォンは反応しない。やがてヒミナは端末の背面を指で引っ掻き始めた。テレビリモコンの裏に刻まれた電池カバーの溝を探しているかのような動きだった。

 

「……おい、なにをしている」

 

「どうやら電池切れのようだ」

 

「貴様は初めてスマホを手に取ったおじいちゃんか。ディスプレイが点灯しないということは電源そのものが入っていないんじゃないか? まず右側にあるボタンを長押し──」

 

「侮るなよ。私だって機械が電気で稼働していることくらい理解している」

 

 ヒミナが呟くと、その手元から一筋の紫電が走った。

 

 途端、スマートフォンの背面に仕込まれたリチウムイオン電池が火を吹き、アルミニウム合金と強化ガラスで形成された外郭が内から弾け飛んだ。

 

 発火は一瞬だったが、電解液が燃焼したせいでフッ化水素を始めとする有害ガスが噴出しているし、破裂したバッテリーは素手で触れれば皮膚が爛れるほどの熱を帯びていた。しかしヒミナは頓着することなく、何事もなかったかのようにスマートフォンを振袖の袂の中に戻した。そしていかにも迷惑だと言わんばかりの表情で(かぶり)を振った。

 

「……不良品を掴まされたか」

 

「私はもう帰るぞ」

 

 呆れた声を漏らし、今度こそ吸血鬼の少女は踵を返す。

 

「そうだな、私の用も済んだ。好きにしろ。()()()()()()()()()()()()()()()()()。……噂を聞いて日本まで渡航してみたが、どうやら杞憂だったようだ。私も帰る。お前がどこを(そぞ)ろ歩き、誰を取って喰らおうとも私の知ったことではない」

 

「待て、どういう意味だ? 私の他に──」

 

 吸血鬼が足を止め、振り返った。

 

「──と、言いたいところなのだが」

 

 ヒミナが言った。

 

 気配がどろりと変質する。

 

 周囲の空気は深潭(しんたん)の底のように(よど)み、それでいて湿った夜の熱気のように粘性が増した。錯覚ではなかった。物理的に大気の密度が変わり、光が不規則に屈折して揺らぎが生じている。ヒミナから滲み出た無機質な魔力によって。

 

 烏羽(からすば)色の出立ちの輪郭が溶け、背景の闇に同化している。幽鬼のようにその姿が歪む。

 

「──私に矢を向けておいて、楽に家路に着けるとは思うなよ」

 

 ヒミナが小さな白い手を持ち上げた。氷の(やじり)が直撃したはずのその左腕には傷一つない。

 

 吸血鬼の少女は不機嫌そうに舌打ちをした。

 

 ◆

 

 2026年 4月7日 21:16

 

 何度目かの蹴撃が空を切り、氷が砕け、電が散る。

 

 ヒミナと吸血鬼が交戦を始めて約10分。幸か不幸か──恐らくは誰にとっても運がよかったのだろう──派手な音を聞きつけた十把一絡(じっぱひとから)げの一般人がのこのこと姿を見せることもなく、宵に落ちた桜通りでは超常の行使が繰り返されていた。

 

 不意に吸血鬼の少女が足を止めた。

 

「潮時だな」

 

「……なんだと?」

 

 ヒミナの眉がぴくりと跳ね上がる。

 

 その白い頬は土で汚れていた。地面に何度か叩きつけられたせいだ。

 

 この数分間、吸血鬼の少女は颶風(ぐふう)のように暴れ回るヒミナを一方的に翻弄していた。決して(はや)いわけでもなく、決して力強いわけでもない。吸血鬼が切ったカードは、魔法学校を卒業した者であれば誰でも会得しているであろう凡庸な初級魔法と、柔()く剛を制す合気道の体術、そして魔力の(かよ)っていないただの絹糸だった。

 

 たったそれだけの手札で、全身に紫電の蛇を纏い、大型重機みたいな膂力で大暴れするヒミナを相手取り、そして優勢を保ち続けた。

 

「無粋に騒ぎすぎだ。これ以上はさすがに人が集まる」

 

 吸血鬼は周囲を見回し、呆れたように息を吐いた。

 

「まったく……。聞いてはいたが、とことん加減を知らん奴だな。どうするつもりだ、これ」

 

 桜通りの街路は、まるで巨人が何度も(くわ)を振り下ろしたかのような惨状になっていた。それも機嫌の悪い巨人だ。種を植えるため均等に耕すことが目的ではなく、しっちゃかめっちゃかに(くわ)の先端を畑に叩きつけたみたいに、掘り返された煉瓦と土があちこちに飛散していた。中には粉々に砕けた自販機やベンチの残骸も混ざっている。

 

 ヒミナはむっつり顔のまま答えた。

 

「それは責任の転嫁だろう。たしかに私にも非はある。しかし、この戦禍は私とお前の争闘によるものだ。つまり落ち度はお互いに平等に──」

 

「私は攻撃を()なし続けていただけだ! すべて貴様が一人で破壊したんだろうが!」

 

 吸血鬼の少女は怒鳴ってヒミナの言葉を遮った。

 

「……しかし、私だって加減はしたぞ。もう夜半前だからな。なるべく静かに壊した」

 

「そうか、お前はまず隠れ家風のアンティークなカフェにでも行って『静か』の定義を学び直して来い。言っておくが、貴様がはしゃぎ回った音は数キロ先まで届いているぞ。デジベルだと打揚(うちあげ)花火の炸裂音だ。建設工事だとしても公害訴訟を起こされるレベルだな。音源の特定ができていないだけで、寮内の生徒どもは間違いなく異変に気付いている」

 

「わかった、では一発だけ殴らせろ。最初の〝魔法の射手(サギタ・マギカ)〟の分だ。それで手打ちとする」

 

「ふざけるな! 拳銃ほどの運動エネルギーしか持たない〝魔法の射手(サギタ・マギカ)〟と爆薬みたいに地面を粉砕できる貴様の拳を同等に扱うな! 私の体が消し飛ぶわ! そもそも私の〝魔法の射手(サギタ・マギカ)〟を受けて貴様は血の一滴も流していないだろうが!」

 

 懐から試験管を取り出しつつ、吸血鬼は苛立ちを隠しもせずに吐き捨てた。

 

「これだから品のないクソガキは嫌いなんだ」

 

 具体的な意図は読めずとも、なんとなく吸血鬼の少女が姿を(くら)ませようとしていることを察したのだろう。ヒミナは手を伸ばし、吸血鬼を捕らえようとした。

 

「待て──」

 

「私に構ってもらいたければ、もう少し常識を学んでから出直すんだな」

 

 試験管が地に落ち、砕け、液体が四散する。

 

 その瞬間、白い煙幕──いや氷霧が吸血鬼とヒミナを呑み込み、そして一帯を覆うほどに膨れ上がった。遮断されたのは視界だけではない。音や匂い、そして魔力感知さえも一時的に阻害する初歩的な撹乱魔法だった。

 

 きっかり3秒後、凄まじい風切り音がした。

 

 ヒミナが水平に腕を振るった音だ。たったそれだけで発煙筒みたいな濃度の霧が裂け、風に攫われて消えていった。

 

 視界が晴れたその先に──やっぱり吸血鬼の姿はなかった。桜の葉がただ揺れて、そよそよと撫でるような音を立てている。遁走(とんそう)者の足音も聞こえない。ヒミナの体から顕現した雷だけが、姿の見えない敵に向かって無様に威嚇を続けていた。

 

「……ふむ」

 

 特に執着した様子も見せず、ヒミナは呟いた。雷が収まっていく。

 

「帰るか」

 

 からころと音を立てて歩き始めた。

 

 ヒミナは吸血鬼と出会(でくわ)した場所から100メートルほど離れた位置にいた。女子中等部の寮の敷地は南半分が遊歩道に囲まれており、その一部が桜通りとして通称されているのだが、つまり道の直線距離はそこらの大学キャンパスの一辺に値しており、桜通りだけでも300メートル弱の長さがあった(遊歩道そのものは女子寮の敷地外まで伸びており、歪な円を描いたキロ単位の歩行者用道路と連結していた)。

 

 要するにヒミナは、桜通りの真ん中あたりで小さな吸血鬼と遭遇し、その片端まで場所を移しながら吸血鬼と戦っていたことになる。

 

 当然、道を辿れば吸血鬼の少女が人を襲った現場まで戻ってくる。

 

「……」

 

 体操服を着た桃色の髪の少女は、木の幹に(もた)れ、呑気によだれを垂らして眠っていた。その隣には風呂桶やシャンプーらしきボトルが転がっている。当初、この少女は()()()()姿()()()()()()()()()()()()()()()なのだが──。

 

「……起きろ。風邪をひくぞ」

 

 反応はない。すやすやと寝息が聞こえる。

 

 ヒミナはその場でしゃがみ、少女の両頬を割と強めに引っ(ぱた)いた。それでも少女は目を覚さない。瞼を閉じたまま頬を真っ赤に腫らし、苦しそうに寝言を漏らしている。

 

「う、うーん……」

 

 ヒミナは溜め息を吐いた。

 

 なにを思ったのか、ヒミナは少女の背中──ちょうど肩甲骨の間あたりを掴んでひょいと持ち上げた。もちろん布を掴んだわけで、少女の体操服と下着がぶちぶちと音を立てながら上方向に伸び切って捲れ上がり、ささやかに膨らんだ乳房がたゆんと露わになった。

 

「きみ、そこでなにしてる!」

 

 すると、スーツを着た細目の優男が駆け寄ってきた。ヒミナは知る由もないが、麻帆良(まほら)学園女子中等部の教員だった。

 

「さっきここで大きな音が……って、その子をどうするつもりだ!」

 

 教員は細い目をこれでもかと見開いて驚いていた。

 

 ヒミナは平然とした様子で応じた。

 

「ちょうどいい。これは先刻、どこぞの不遜な吸血鬼に襲われていた女だ。私はこの件から手を引くが──学園が吸血鬼の討滅を考えているのであれば、残留する魔力を解析する価値はあるんじゃないか? だからお前が運べ」

 

「酔っ払いのお父さんが持って帰ってくる寿司折みたいに女の子を持つんじゃない! 後で絶対に訴えられるよその構図は!」

 

「すでに血を吸われた可能性はあるが……まぁ、息はしている。大事には至らんだろう」

 

「こっちに押し付けないでくれ! 立場上、見ちゃいけないものがさっきチラチラと──……あれ? ちょっと待って。……吸血鬼だって? き、きみは一体……?」

 

「そうだ。この学園の関係者であれば口伝(くでん)を頼みたい。事前に手渡されていた連絡用の機械が使い物にならなかったからな。相手は──……なんだったか。烟草(えんそう)の臭いが不快で、上背(うわぜい)のある……名前がわからんな。いや、頭が(うり)のように伸びた眉雪(びせつ)老爺(ろうや)でもいい。わかるか? かなり特徴的な容姿だと思うのだが」

 

「頭が(うり)のように伸びた……? よ、妖怪かな?」

 

「……私の知ったことではないが、あの瓢箪(ひょうたん)頭はこの学園の上役ではないのか。失礼だぞ」

 

「はっ……ま、まさかきみも妖怪の類なんじゃ……。雰囲気がすごく不気味だし。待てよ、ということはきみがなにかを伝えたい相手は妖怪の総大将──ぬらりひょんか! なんてことだ、すぐに学園長に報告をしなくては……!」

 

「いいからその総大将と連絡を繋げ。そして怒られろ」

 

 ◆

 

 2026年 4月8日 4:12

 

 ドイツ。ミュンヘン。

 

 暦は早春だが、西欧の朝はまだ冷える。

 

 吐いた煙草(たばこ)の紫煙がいつもより白く濃く拡がっていく。深い海のような未明の空を見上げ、タカミチはスマートフォンを耳に添えた。

 

「吸血鬼の件ですが……」

 

 電話の先は学園長だ。日本は今、ちょうど昼前といった時間帯だろう。

 

『報告書はもう読んだかの。瀬流彦(せるひこ)くんの話によると、昨晩、ヒミナちゃんが噂の吸血鬼と遭遇したそうじゃ。顔は見ていないそうじゃが──被害に遭った生徒の体に残留していた魔力は、ワシにとって馴染みのある者のそれじゃったよ』

 

「……ほぼ黒でしょうね」

 

『まったくエヴァンジェリンめ。今になってなにを企んでおるのやら……』

 

 タカミチには学園長が頭を抱える様子が容易に想像できた。

 

 エヴァンジェリンとは、ネギが受け持っているクラスの生徒の名だ。

 

 去年の11月頃だったか──桜通りの吸血鬼に関する巷談(こうだん)を耳に挟んだ際、エヴァンジェリンが関与している可能性をタカミチは捨て置いた。

 

 思い返してみれば間抜けな話だ。

 

 疑念を抱かなかったわけではない。しかし、少なくともこの数年間、彼女は大人しく学園生活を送っていたはずだ。たしかに魔法の力によって学園都市に縛られている現状は本人の意に反しており、過去には人倫に背くような悪事を企んでいた時期があることも事実だが、それでも今はきちんと心を入れ替えて──……はいないだろうけれど、観念か諦念か、すっかりと丸くなっていた。だからこそ、まさかと思ってしまったのだ。

 

 あと、ウチの生徒たちがこの手の虚誕妄説(きょたんもうせつ)できゃーきゃーと楽しそうに騒いでいる姿が日常茶飯事だから、またいつものノリかと真剣に取り合わなかったことも原因の1つだった。

 

 なんせ、吸血鬼の怪談話だけでなく、謎の無人駅に辿り着いたという体験談からボンタンアメの尿意抑制説、果ては破れないストッキングに関する陰謀論まで、あの子たちは目の前にスルメをぶら下げられたザリガニみたいな反射速度で話のタネに食らいついては盛り上がる。

 

(信憑性を精査しようにも、ウイルスの変異株のように次々と新しい噂話が発生するから追いつかない……っていうのは言い訳だな)

 

 タカミチは嘆息を吐いた。

 

 ともあれ、噂の吸血鬼の正体がエヴァンジェリンだと考えて間違いないだろう。

 

 昨夜の件について、タカミチは事前にメールで報告書を受け取っていた。曰く、ヒミナの供述によると桜通りに現出した吸血鬼の性別は女で、ヒミナよりもさらに背が低く、そして足首まで届くほどの金髪の持ち主だったそうな。エヴァンジェリンの外面的特徴と見事に一致している。あと生意気で偉そうな性格だとも書かれていた。これもまぁその通りだ。

 

『タカミチが日本に戻ってくるのは3日後じゃったかの。その時でええから、エヴァンジェリンにワシのところに来るよう伝えてくれんか。それまでもう少し情報を集めて、外堀を埋めておくことにするわい』

 

「急がなくていいんですか? 生徒の犠牲が出ているようですが……」

 

『薄弱な証拠だけで口を割る相手じゃないからのう。今のところ重症者は出ておらんし、この件は任せなさい。なに、責任はわしが取る』

 

「……学園長」

 

『それにほら、もし濡れ衣だったらあいつめっちゃ怒るじゃろ。怖いじゃん』

 

「……学園長?」

 

 学園長が咳払いを挟んだ。

 

『ところで、始業式での式辞やヒミナちゃんの編入処理で朝からバタバタしとっての。瀬流彦くんの報告書はまだ概要しか目を通せてないんじゃが……この別添(べってん)にある『ガス爆発事故を装った隠蔽工作』ってタカミチなんのことか知っとる?』

 

 どう説明したものかと、タカミチは言葉に迷った。

 

「えぇと……それが昨日、ヒミナくんが随分と暴れたようで……。吸血鬼との交戦で、自動販売機をスクラップにしたり桜の木を何本もへし折ったりして、瀬流彦先生が到着した時には、桜通りの一部が空爆後のスターリングラードみたいになっていたとか……。寮にいた生徒の多くが激しい戦闘音を耳にしていますし、桜通りの真下にはガス導管が敷設されていたということにして、配管の老朽化による爆発事故という虚偽の説明(カバーストーリー)を住民たちに伝えているそうです」

 

『………………………………』

 

 学園長が押し黙る。ヒミナを編入生として受け入れたことを後悔しているのかもしれない。

 

 その時、タカミチのスーツの裾が男に掴まれた。

 

「てめぇ、なに呑気に通話してやがる……!」

 

 男の手は血でべっとりと染まっていた。これでも30万円くらいするオーダースーツではあるのだが、深緑色のゼニア生地が汚れる光景を目にしてもタカミチの表情は崩れなかった。

 

 この男は()()()()使()()だ。

 

 ローブを身に纏った悪い魔法使いは、瓦礫の上に這いつくばったまま、息も絶え絶えといった様子でタカミチを睨んでいた。

 

 なにやらとんでもない犯罪行為を画策していたらしく、ドイツの魔法協会から要請を受けて飛んできたタカミチに、つい先ほど疾風怒濤の勢いで鎮圧されたばかりだった。その周囲には、人気のない山懐にひっそりと造営されていたアジトの残骸と共に、ぴくりとも動かない仲間の悪い魔法使いたちが何人も転がっている。対照的にタカミチはまったくの無傷だ。

 

「ああ、すまない。まだ意識があるとは思わなかった」

 

 苦笑し──タカミチは拳を振り下ろした。

 

 きっと鋼鉄のハンマーで岩を叩き割れば、こんな音がするのだろう。

 

 頬に拳を叩き込まれた悪い魔法使いは、一度だけ手足を蠕動(ぜんどう)させ、今度こそ喋らなくなった。呆気がない。これくらいの拳では──いやこれ以上の拳でも昨日のヒミナは倒れなかった。最終的にはなんとか押し倒せたから引き下がってはくれたけれど、タカミチの渾身の一撃を受けて尚、継戦に支障のない程度のダメージしか与えることができなかった。

 

 その頑丈さに感心すると同時に──心配にもなる。多少の無茶では死なないという自負があるせいか、ヒミナは自身の損傷に無頓着な嫌いがある。

 

 あの子がなぜ吸血鬼を捜しに麻帆良学園へやってきたかは知らない。

 

 けれど、噂の吸血鬼の正体がエヴァンジェリンだと早期に看破できていれば、タカミチは桜通りの件についてヒミナの介入を許可しなかった。それくらい危険な相手だからだ。力の大半を封緘(ふうかん)されているとはいえ、()()()()()()()()()吸血鬼の名は伊達じゃない。

 

 実際、タカミチのスマートフォンに届いた報告書からも窺い知れる通り、ヒミナとエヴァンジェリンの顔合わせは友好的なムードではなかったようだし。

 

 電話の向こうでは学園長が情けない声を出していた。

 

『タカミチ、自動販売機って何円くらいするか知っとる?』

 

「100万円前後だそうですね」

 

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