赤缶カレー粉と少女の冒険   作:灯火011

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裏路地のカレー
第1話:路地の出会いと奇跡の粉


 石畳の冷たさが、骨の芯まで染み渡る。

 

 カレンは、じっとりと湿った背中の感触で目を覚ました。鼻をつくのは、腐った生ゴミと黴(かび)の混じり合った、路地裏特有の淀んだ悪臭。どんよりと低い雲に覆われた空は、まだ夜の色を濃く残しているのか、それともこれがこの世界の昼の顔なのか、判断がつかなかった。

 

(……どこだ、ここは……?)

 

 体を起こそうとして、すぐに違和感に気づく。あまりにも軽い。そして、小さい。視界の端に映る手は、土埃と煤で汚れてはいるが、信じられないほどに細く、白く、柔らかそうだ。まるで、見たこともない人形の手のようだった。

 

 恐る恐る自分の体を見下ろせば、そこにあるのは薄汚れた麻布をまとった、幼い少女の姿。せいぜい十二、三歳といったところだろうか。

 

「なんだよ、これ……」

 

 漏れ出た声は、記憶の中にある野太い響きとは似ても似つかぬ、鈴が鳴るような可憐なソプラノだった。その声を発した喉の感触さえもが、全くの別物だ。

 

 混乱する思考の中で、前世の記憶が、割れたガラスの破片のようにきらめいては消える。

 

 日本の、どこにでもいる中年男性だった自分。会社と家を往復するだけの、灰色の日々。唯一の楽しみは、週末にスパイスから調合して作るこだわりのカレー。そして、トラックのヘッドライトの眩い光。最後に見たのは、おそらくそれだった。

 

 つまり、死んだのか。そして、見知らぬ世界の、見知らぬ少女に生まれ変わった、と。

 

 あまりに突飛な結論に、乾いた笑いがこみ上げる。だが、この凍えるような寒さも、腹の底から突き上げてくる飢餓感も、あまりにも生々しい現実だった。希望も、温もりも、この路地裏のどこにも見当たらない。ただ、絶望だけが冷たい霧のようにあたりを漂っている。

 

 飢えと寒さ、そして何よりも理解不能な状況への戸惑いが、少女の――カレンの心を支配し、押し潰そうとしていた。このまま、この冷たい石の上で、誰にも知られずに朽ち果てていくのかもしれない。そんな諦念が胸をよぎった、その時だった。

 

 ふと、右の掌が、微かに熱を帯びた。

 

 まるで、そこに何かがあるべきだとでも言うように、意識が自然と集中する。何だ? と、祈るように、震える手を開いた。

 

 そこには、何もなかった。いや、違う。空間が陽炎のように揺らめき、淡い光の粒子が集まり始める。粒子は次第に形を成し、鮮やかな色彩を帯びていく。カレンは息を呑んだ。

 

 目の前の空間から、ゆっくりと、しかし確かに、一つの物体が姿を現したのだ。

 

 それは、見慣れすぎた、前世の魂の友とも言うべき存在だった。鮮やかな赤色を基調とした、レトロでいて完成されたデザイン。中央には、白地に黒で描かれた、あのS&Bのロゴマーク。業務用、と書かれた、赤い、金属の缶。

 

「赤缶……カレー粉、パウダールウ……」

 

 掠れた声で呟く。掌に収まったそれは、幻ではなかった。ひんやりとした金属の感触と、ずしりとした確かな重み。カレンは、まるで奇跡の聖遺物に触れるかのように、その缶をそっと両手で包み込んだ。

 

 なぜ、どうしてこれがここにあるのか。

 

 そんな疑問は、もはや意味をなさなかった。ただ、この絶望の底で、唯一見知ったものがここにある。その事実だけが、凍てついた心に小さな火を灯した。

 

 その時、路地の奥から、微かな物音と、何かを焦がしたような不快な匂いが漂ってきた。カレンがそちらに目を向けると、数人の男女が、欠けたレンガで組んだ粗末なかまどを囲み、焚き火にあたっているのが見えた。

 

 彼らもまた、カレンと同じように薄汚れ、痩せこけた、この街の最底辺に生きる人々――乞食仲間だった。

 

 火にかけられた錆びた鉄鍋の中では、得体の知れない灰色の液体が、気だるげに泡を立てている。拾い集めた野菜の皮か、あるいは動物の骨のかけらか。そこから立ち上る湯気は、腐った土と絶望を煮詰めたような悪臭を放ち、食欲を刺激するどころか、むしろ気分が悪くなるほどだった。

 

 しかし、彼らはそれを「食事」と呼び、無感動な表情で、ただ火が通るのを待っている。

 

 カレンは、無意識に立ち上がっていた。ふらつく足で、一歩、また一歩と鍋に近づく。カレンの接近に気づいた乞食たちが、訝しげな、そして警戒心を含んだ視線を向けてきた。新顔の少女が何をしようとしているのか、値踏みしているのだ。

 

 カレンは何も言わず、ただ掌の中の赤い缶を強く握りしめた。元中年男性としての冷静な思考が、囁きかける。これは賭けだ、と。だが、失うものは何もない。

 

 意を決し、赤缶の蓋を捻る。カチリ、と心地よい音がして、封が切られた。途端に、懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。それはまだ序章に過ぎなかった。

 

 カレンは鍋の上で缶を傾け、黄金色に輝く粉末を、一掴み、惜しげもなく投入した。

 

 次の瞬間、奇跡が起こった。

 

 黄金の粉が灰色のスープに触れた途端、まるで闇を払う光のように、芳醇な香りが爆発したのだ。焦げ付いた泥のような悪臭は一瞬でかき消され、代わりに、クミン、コリアンダー、ターメリック、クローブ、シナモン……幾重にも重なったスパイスの、食欲を猛烈に刺激する、複雑で魅惑的な香りが、路地裏の淀んだ空気を支配した。

 

「なっ……!?」

「こ、この匂いは……なんだ!?」

 

 乞食たちが、驚愕に目を見開く。彼らの視線は、香りの発生源である鉄鍋に釘付けになった。

 

 先ほどまで、見るもおぞましい灰色だった液体は、まるで魔法のように、艶やかな赤みがかった褐色へとその姿を変えていた。ぐつぐつと立てる気泡さえもが、今は生命力に満ちた小気味よい音に聞こえる。

 

 一人の年かさの男が、震える手で木匙を握り、おそるおそる鍋の中の液体をすくった。警戒と好奇が入り混じった表情で、その一口を、ゆっくりと口に運ぶ。

 

 時が、止まった。

 

 男の目が、信じられないものを見たかのように、カッと見開かれる。彼の喉が、ごくりと大きく鳴った。次の瞬間、その顔が驚愕から歓喜へと劇的に変化した。

 

「う……うまいッ!!」

 

 絞り出すような叫び声が、静寂を破った。

 

「なんだこれは! 舌が、痺れるようだ……! ただの塩水じゃない、味が、味がするぞッ!」

 

 その言葉が引き金だった。他の乞食たちが、我先にと鍋に殺到する。それぞれが持っていた器や、あるいは素手で、熱さも忘れて生まれ変わったスープを口へと運んだ。

 

「うおおっ! 本当だ! うまいぞ!」

「ただの根菜の皮が……なんでこんなに……!」

「あったかい……体の芯から、力が湧いてくるようだ……」

 

 一口食べるごとに、彼らの乾ききった目に、生きる光が宿っていく。それはもはや、単なる食事ではなかった。絶望の淵にいた彼らにとって、それは命を繋ぐ恵みであり、明日への希望そのものだった。

 

 彼らは貪るように食べ、飲み干し、そして鍋が空になると、その視線を一斉にカレンに向けた。

 

 その視線には、もはや警戒の色はなかった。そこにあるのは、畏敬と、驚嘆と、そして、どうしようもないほどの純粋な感謝。

 

「嬢ちゃん……あんた、一体これをどこで……」

「まるで魔法使いだ……」

 

 その感謝の視線を一身に浴びながら、カレンは呆然と立ち尽くしていた。前世では、誰かに心から感謝されることなど、一度だってなかった。孤独な中年男性だった自分に向けられるのは、無関心か、あるいは憐憫の視線だけだった。

 

 だが、今は違う。この幼い少女の姿をした自分は、この奇跡の粉によって、確かに彼らを救ったのだ。

 

 彼らの生き生きとした表情を見ていると、腹の底から、じんわりと温かいものがこみ上げてくる。それは、前世では決して味わうことのできなかった、確かな充足感だった。

 

 カレンは、空になった赤缶を握りしめた。それはいつの間にか、また光の粒子となって手の中から消えていたが、確信があった。この力は、一度きりではない。必要な時に、必要なだけ、この手に現れるのだと。

 

 元中年男性としての冷静な判断力が、この奇跡の本質を悟らせる。これは、この理不尽な世界で生き抜くための、自分だけに与えられた、唯一無二の武器なのだ。

 

 夜が明け、建物の隙間から差し込んだ朝陽が、カレンの銀色の髪をきらりと照らした。その光は、まるでこれからの彼女の道を祝福しているかのようだった。

 

 路地裏の冷たい地面で始まった新たな人生は、今、一缶のカレー粉によって、確かな熱を帯びて動き出した。

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