赤缶カレー粉と少女の冒険   作:灯火011

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第10話:王都への旅立ちと新たな伝説

 夜がまだ深い藍色に染まる頃、「赤缶亭」の裏口が、静かに開いた。

 

 旅支度を整えたカレンが姿を現すと、そこには、店の仲間たち全員が、眠い目をこすりながらも、勢揃いしていた。彼らは、カレンが誰にも気づかれずに、そっと旅立とうとしていたことを見抜いていたのだ。

 

「水臭いじゃねえか、カレンさん。見送りくらいさせろよな」

 

 リックが、悪態をつくように、しかし寂しげに笑う。ゴードンは、無言で、湯気の立つ包みをカレンに手渡した。中身は、カレー風味のスパイスが練り込まれた、手作りの温かいサンドイッチだった。

 

「道中、腹が減ったら食いな。俺たちのカレーの味、忘れんじゃねえぞ」

 

「カレンさん!」

 

 マルコが、目をキラキラさせながら駆け寄ってきた。その手には、空っぽのスパイス瓶のリストが握られている。

 

「王都にしかない珍しいスパイス、絶対に見つけて、その香り、全部覚えてきてくださいね! 帰ってきたら、俺に教えてくれるって、約束ですから!」

 

「うん、約束」

 

 カレンは、一人一人の顔を目に焼き付けながら、力強く頷いた。もう、涙はなかった。あるのは、胸いっぱいの感謝と、これから始まる冒険への、静かな高揚感だけだ。

 

 エドワードが手配した、王家の紋章の入った頑丈な馬車が、通りの向こうで待っている。カレンは、仲間たちに手を振り、その馬車へと乗り込んだ。動き出した馬車の窓から、いつまでも見送ってくれる仲間たちの姿が、だんだんと小さくなっていく。だが、その温もりは、確かにカレンの心の中にあった。

 

 王都への旅路は、カレンにとって、新たな発見と出会いの連続だった。

 

 最初に立ち寄ったのは、活気を失い、人々が疲弊した表情で往来する、寂れた宿場町。近隣の鉱山が閉鎖され、街全体が静かな死に向かっているかのようだった。

 

 カレンは、ここで、初めて新たな力を解放することを決意した。町の広場に大きな鍋を据えさせると、彼女は掌から、太陽の光を凝縮したかのような、黄金色の箱を取り出した――「S&Bゴールデンカレー チキンカレーパウダールウ」。

 

 鶏のガラと香味野菜で丁寧に取った、黄金色のスープ。そこに、惜しげもなく投入される、芳醇な香りのパウダールウ。たちまち、淀んでいた町の空気を浄化するように、爽やかで、それでいて食欲を猛烈に刺激する、洗練されたスパイスの香りが広がっていった。

 

「な、なんだ、この匂いは……?」

 

 生気のない顔をしていた町の人々が、一人、また一人と、その香りに誘われるように集まってくる。カレンが、笑顔でよそった一杯のチキンカレー。それを口にした瞬間、人々の顔が、驚愕に変わった。

 

「う、美味い! なんだ、この爽やかな味は!」

「重かった体が、羽のように軽くなるようだ……!」

「ああ、力が、体の底から湧いてくる……!」

 

 それは、濃厚なコクで腹を満たすカレーとは違う。ハーブとスパイスが織りなす、軽やかで華やかな味わいが、疲弊した心と体を、優しく、しかし力強く奮い立たせる、癒やしのカレーだった。その日、宿場町には、何ヶ月ぶりかに、人々の明るい笑い声が響き渡った。

 

 次に立ち寄ったのは、魔物との小競り合いが絶えない、国境近くの砦。兵士たちは、絶え間ない緊張と疲労で、その目は鋼のように冷たくなっていた。

 

 ここでカレンが取り出したのは、もう一つの黄金の箱――「S&Bゴールデンカレー キーマカレーパウダールウ」。

 

 カレンは、牛、豚、鶏、三種類の挽肉を、それぞれの脂の旨味が最大限に引き出されるよう、絶妙なタイミングで炒めていく。そこに、みじん切りにした野菜を大量に加え、甘みとコクを凝縮させる。そして、仕上げに投入される、濃厚な旨味のキーマカレールウ。

 

 完成したのは、もはやカレーというよりも、「食べる活力剤」とでも言うべき、パワフルな一皿だった。パンに乗せられた、その濃厚なキーマカレーを、兵士たちが、無心で口にかき込む。

 

「ぐおおおおっ! なんだこの旨味の塊はッ!!」

「一口食うごとに、筋肉が膨れ上がるようだ! これなら、ドラゴンだろうがデーモンだろうが、まとめて相手にしてやるぜ!」

「故郷に置いてきた、袋いっぱいの金貨より、今、目の前のこの一皿の方が、何万倍も価値があるッ!」

 

 兵士たちの士気は、爆発的に向上した。その日の夕方、砦の司令官は、カレンの前に深々と頭を下げ、

 

「貴女は、我が砦の、いや、この国の救国の女神だ」

 

 と、最大級の賛辞を贈った。

 

 行く先々で、カレンは惜しみなくカレーを振る舞った。

 

 爽やかなチキンカレーは、病に伏せる者の食欲を呼び覚まし、濃厚なキーマカレーは、働く男たちのエネルギーとなった。基本の赤缶カレーは、家族の食卓に笑顔をもたらし、優しいハヤシライスは、子供たちの心を温めた。

 

 いつしか、彼女の噂は、公式の使者よりも早く、旅人たちの口コミや、商人たちの情報網に乗って、燎原の火のごとく王都へと伝わっていった。「カレーの女神」――人々は、畏敬と親しみを込めて、カレンをそう呼ぶようになっていた。

 

 そして、長い旅路の果て、ついにその姿が見えてきた。

 

 地平線の彼方まで続く、巨大な白い城壁。その内側に、天を衝くように林立する、無数の塔。これまで見てきたどんな街とも比較にならない、圧倒的なスケールと、洗練された美しさを誇る、王国の心臓部――王都。

 

 カレンを乗せた馬車が、壮麗な彫刻の施された王都の正門を、ゆっくりと通過する。衛兵たちが、伝説の「カレーの女神」の到着に、敬礼を送りながらも、その好奇に満ちた視線を隠そうとはしない。

 

 大通りは、人、人、人。

 

 様々な人種、裕福な商人、華やかな貴族、そして世界中から集まった旅人たちが、活気に満ちた喧騒を生み出している。カレンは、馬車の窓から、その光景を、瞬きもせずに見つめていた。

 

 その青い瞳には、かつて、路地裏の冷たい地面で、飢えと孤独に震えていた少女の面影は、もはや微塵もなかった。

 

 そこに宿っているのは、最高のカレーで、この国の、いや、世界中の人々を笑顔にしてみせるという、一人の料理人としての、燃えるような、そして揺るぎない決意。そして、遠い街で自分を信じて待ってくれている、かけがえのない仲間たちの期待に応えるという、温かくも力強い誓い。

 

 この日、一介の乞食だった美少女の、新たな伝説が、静かに、しかし確かに、その幕を開けた。

 

 彼女が作る一杯のカレーは、やがて王宮の凝り固まった常識を打ち破り、国の政策を動かし、そして、長きにわたる人間と魔族の間の、冷たい氷の壁さえも、温かく溶かしていくことになるだろう。

 

 その芳醇な香りが、まだ誰も知らない。

 

 ――やがて、世界そのものを変える力となることを。





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