カレンは、人と魔の懸け橋になれるのでしょうか?
第11話:王宮の厨房とプライドのソース
王都の心臓、壮麗なる王宮。
その一角に、国の威信と美食の全てを司る、巨大な厨房は存在した。
カレンが足を踏み入れたその場所は、もはや「厨房」という言葉のスケールを遥かに超越していた。大聖堂のように高い天井からは、磨き上げられた無数の銅鍋がシャンデリアのごとく吊り下がり、壁一面には、用途別に分類された銀の調理器具が、まるで武器庫のように整然と並んでいる。数十ものかまどからは絶えず炎が上がり、百人を超える料理人たちが、白い制服を翻しながら、無駄のない動きで立ち働いていた。
そこは、熱気と、秩序と、そして張り詰めたプライドが支配する、食の戦場だった。
「――君が、噂の『カレーの女神』かね」
カレンの背後からかけられた声は、静かでありながら、その場の全ての音を支配するような、絶対的な威厳を帯びていた。
振り返ると、そこに立っていたのは、背筋を剃刀のように伸ばした、一人の痩身の老人だった。シミひとつない純白のコックコートは、彼の哲学そのものを体現しているかのよう。その鋭い鷲のような瞳は、カレンの頭のてっぺんから爪先までを、まるで食材を値踏みするかのように、ゆっくりと見下ろした。
彼こそが、この王宮厨房の頂点に君臨し、三代の王に仕えてきた伝説の料理長、オーギュストその人だった。
「辺境の領主様や、味の分からぬ貴族どもを、少々珍しい煮込み料理で誑かしたそうだが……。知っておるかね? この王宮の食卓というものが、いかに重い歴史と伝統の上に成り立っているかを」
オーギュストの言葉は、氷のように冷たかった。彼の周りにいた料理人たちも、作業の手は止めずに、しかしその耳と視線は、嘲りと侮蔑の色を隠さずカレンに突き刺さっている。ここは、貧民街の少女が、紛れ込めるような甘い場所ではない。
彼らの全身が、そう拒絶していた。
「香辛料をただ闇雲に混ぜ合わせただけの、素性の知れぬ料理など、王の食卓を汚す瀆神(とくしん)行為に等しい。君の居場所は、王の御前ではない」
オーギュストは、厨房の最も奥、陽も当たらず、古びて傷だらけの調理台を指さした。
「建国記念祭の料理は我々に任せたまえ、小娘。せいぜい、下々の者の腹を満たす、賄いでも作っているがよい。もっとも、君に分け与えるほどの、上等な食材の余裕はないがね」
それは、紛れもない、意図の込められた宣戦布告だった。
■
カレンに与えられたのは、まさに「ゴミ」と呼ぶにふさわしいものだった。貴族たちの料理で華やかに飾り付けられた後の、人参やカブの皮、セロリの葉。骨から綺麗に肉を削ぎ落とされ、旨味など残っていないかのように見える牛の骨。そして、客に出すには古くなりすぎた、硬いパンの数々。
他の料理人たちが、最高級のフィレ肉や、朝露に濡れたままの瑞々しい野菜を使って、芸術品のような料理を創造していくのを横目に、カレンは、ただ黙って自分の前に積まれた「絶望」を見つめていた。唇を、ぎゅっと噛みしめる。悔しさで、目の奥が熱くなる。
だが、その熱は、すぐに闘志の炎へと変わった。
(……同じだ)
路地裏で、仲間たちと初めて出会った、あの日と同じだ。得体の知れない灰色のスープ。誰もが見向きもしない、価値がないと見捨てられたものたち。
(違う……!)
カレンは、心の中で叫ぶ。
(食材に、貴賎なんてない! その命を、輝かせられるかどうか。全ては、料理人の腕と、想い次第だ!)
彼女の青い瞳に、かつての路地裏の少女と同じ、しかし、はるかに強く、そして深い光が宿った。
そうしてカレンの、静かな反撃が始まった。
まず、山のように積まれた野菜クズを、大きな鉄板の上に広げ、オーブンでじっくりとローストしていく。厨房の片隅から、次第に芳ばしい香りが立ち上り始めた。野菜に含まれる僅かな糖分が、熱によって凝縮され、甘く、香ばしい匂いを放つ。ただ捨てられるだけだったはずの皮やヘタが、旨味の塊へと変貌を遂げる、最初の魔法。
次に、牛の骨を巨大な寸胴鍋に入れ、ローストした野菜クズと共に、ひたひたの水を注いで火にかける。最初は濁っていたスープが、カレンが丁寧に、根気強くアクをすくい取り続けることで、次第に透き通った、美しい黄金色のスープ――極上のブイヨンへと生まれ変わっていく。
その丁寧で、一切の妥協を許さない仕事ぶりを、オーギュストは、自身の完璧なソースを仕上げる片手間に、気づかないふりをしながら、横目で盗み見ていた。彼の眉が、僅かに、本当に僅かに、ピクリと動く。
堅い端肉は、筋を断ち切るように、気の遠くなるような作業で細かく、細かく叩いていく。そして、香味野菜と共に混ぜ込み、一口大の肉団子へと成形する。硬いパンは、オーブンで乾燥させてから砕き、きめ細かなパン粉に変え、肉団子のつなぎとして、そして、後のカレーにとろみをつけるための秘密兵器として、再生させた。
全ての準備が整った。黄金色のブイヨンが煮える大鍋に、肉団子をそっと投入する。
そして、カレンは、懐から、まるで聖遺物を取り出すかのように、あの見慣れた赤い缶を取り出した。
「S&B 赤缶カレー粉パウダールウ」。
彼女の原点にして、全ての奇跡の始まり。
カレンが、その黄金色の粉を、鍋の中に、サラサラと振り入れた、その瞬間。
厨房の空気が、変わった。
オーギュストが作る、バターとワインとフォン・ド・ヴォーが織りなす、複雑で高貴な伝統のソースの香り。その香りが支配していた厨房の空気を、まるで切り裂くように、全く異質の、しかし抗いがたいほどに原始的で、食欲を直接刺激するスパイスの香りが、爆発的に広がった。
「なっ……!?」
嘲笑していた料理人たちが、思わず作業の手を止め、その香りの発生源へと顔を向ける。それは、彼らの知識の中の、どの香辛料とも違う、鮮烈で、多層的で、そしてどこか懐かしい、魂を揺さぶる香りだった。
■
完成した「賄いカレー」が、台車に乗せられ、王宮の裏手にある、薄暗い賄い食堂へと運ばれていく。そこは、日々の激務に疲れた下働きの者たちや、非番の衛兵たちが、黙々と、味気ない食事を胃に流し込むだけの場所だった。
だが、その日、食堂の扉が開いた瞬間、彼らは顔を上げた。いつも漂っている、茹ですぎた野菜と、固いパンの匂いではない。
なんだ、この、生きる活力が腹の底から湧いてくるような、素晴らしい香りは。
やがて、彼らの前に、湯気の立つ一皿のカレーが置かれる。
最初の一口を口に運んだ、一人の若いメイドの目が、大きく、大きく見開かれた。
「……おい、しい……」
その呟きが、引き金だった。
「う、美味い! なんだこれは!? 信じられない!」
「この肉団子、端肉から作ったなんて嘘だろ!? 俺が昨日食った、貴族様の食べ残しのステーキより、ずっと柔らかくて、味が濃いぞ!」
「ああ……このスープ……疲れた体に、染み渡っていく……。冷え切った手足の先まで、血が巡るようだ……!」
「これが、あの新しいお嬢ちゃんが、俺たちのために……? 野菜クズから、こんな奇跡を……?」
お通夜のように静かだった賄い食堂は、一瞬にして、笑顔と、活気と、そして感動が渦巻く、祝祭の空間へと変わった。誰もが無言の食事をやめ、隣の者と顔を見合わせ、その驚きと喜びを分かち合う。
お代わりのために、あっという間に長蛇の列ができ、巨大な寸胴鍋は、瞬く間に空になった。
その熱狂的な噂は、すぐに厨房にも届いた。
「料理長! 大変です! 賄い食堂の連中が、皆、泣いて喜んでおりまして……!」
オーギュストは、報告に来た部下を「騒々しい!」と一喝した。
「馬鹿な。下々の者の、疲れた舌など、当てになるものか」
彼はそう吐き捨て、自らのソースの味見を続ける。だが、彼の研ぎ澄まされた鼻腔は、厨房の隅に、いまだ残り香として漂う、自分の知らない、しかし、決して無視することのできないスパイスの香りを、確かに捉えていた。
その香りは、彼の、何十年も揺らぐことのなかったプライドという名の完璧なソースに、初めて、ほんの僅かな乱れを生じさせていた。