賄い食堂での「カレー騒動」の翌日。
カレンが厨房に足を踏み入れると、オーギュストは、まるで何もなかったかのように、完璧な所作でソースを仕上げていた。しかし、厨房内の空気は、昨日とは明らかに違っていた。他の料理人たちの視線から、あからさまな嘲笑は消え、代わりに、値踏みするような好奇と、微かな警戒心が混じっている。
(さて、次はどう来るか)
カレンは、内心で静かに身構えた。前世、しがらみだらけの会社組織で理不尽な要求を飲み続けてきた中年男性の魂が、この状況を冷静に分析する。昨日の賄いは、彼らの予想を上回る結果を出してしまった。
プライドの高いオーギュストが、このまま黙って見過ごすはずがない。新人を潰すための、より古典的で、悪質な手が来るはずだ。
その予感は、的中した。
「小娘」
オーギュストが、カレンを呼びつける。彼が指し示した先には、大きな木箱が置かれていた。中を覗き込んだカレンは、思わず息を呑んだ。
そこにあったのは、昨日以上に酷い状態の野菜の山だった。
表面がぬめり、異臭を放ち始めた玉ねぎ。水分が抜け、しなびてしまった人参。葉先が黒く変色したセロリ。それは、もはや食材ではなく、廃棄されるべきゴミそのものだった。
「今宵、隣国からの賓客をもてなす、小規模な晩餐会がある」
オーギュストは、温度のない声で告げた。
「その席で出す、最初のスープを、君に作ってもらう。材料は、それだ。賓客の舌を唸らせるような、極上の一品を期待しているぞ」
厨房のあちこちから、くすくす、と押し殺したような笑い声が漏れる。それは、あまりにも悪意に満ちた、不可能な試練だった。こんなもので、どうやって賓客をもてなすスープなど作れるというのか。
断れば、「やはりその程度の腕か」と追い出される。受ければ、失敗は目に見えている。完璧な、詰みの盤面だった。
カレンは、木箱の中の野菜を見つめた。その瞳に、一瞬、絶望の色がよぎる。しかし、それはすぐに、静かで、しかし燃えるような蒼い炎へと変わった。
(……面白いじゃないか)
少女らしい可憐な外見とは裏腹に、その内側で、このようなじめじめとしたいびりに対して、百戦錬磨の中年男性の魂が、不敵に笑う。
(なるほど、古典的で陰湿なやり方だ。前世の会社にもいたな、こういうパワハラまがいの手で悦に入るタイプの上司。だが、生憎と、こっちは前世と路地裏で、本物の絶望と飢えを潜り抜けてきたんだ。それに比べれば、こんなもの、ただの面倒な『課題』に過ぎない)
カレンは、オーギュストを真っ直ぐに見据え、静かに、しかしはっきりと、こう言った。
「――はい、かしこまりました。最高のスープを、お作りいたします」
その、予想外に堂々とした返答に、オーギュストの眉が、僅かに動いた。
■
カレンの、孤独な戦いが始まった。
彼女はまず、異臭を放つ玉ねぎを手に取ると、その傷んだ部分を、ミリ単位の精度で、大胆に、しかし的確に切り落としていく。残ったのは、全体の半分にも満たない芯の部分だけ。
だが、カレンは知っていた。腐敗の過程で、野菜は自己防衛のために糖分を凝縮させる。この残った芯こそが、普通の玉ねぎでは到達できない、深い甘みの塊であることを。
しなびた人参は、皮を惜しげもなく厚く剥く。
黒ずんだセロリは、香りが強く残っている葉の部分だけを選り分ける。
他の料理人たちが、嘲笑の視線を送りながら最高級の食材を扱う横で、カレンは、まるで宝石を磨くかのように、黙々と、見捨てられた野菜たちに新たな命を吹き込んでいった。
その姿は、痛々しく、滑稽でさえあった。だが、彼女の瞳には、一切の迷いも、諦めもなかった。食材と向き合うその横顔は、いつしか、神聖な祈りを捧げる巫女のようにも見えた。
やがて、丁寧に下処理された野菜たちは、少量のバターで、じっくりと、時間をかけて炒められていく。野菜から引き出された甘く香ばしい香りが、厨房の片隅に、小さな、しかし確かな聖域を作り始めた。
(まだだ……まだ足りない。甘みと香りは引き出せた。でも、これだけじゃ、ただの「美味しい野菜スープ」だ。オーギュストの、王宮のプライドが作るソースに太刀打ちするには、決定的な何かが……賓客を、驚かせるような、もう一つの魂が……)
諦めずに、最高の味を模索し続ける。その、料理に対する真摯な願いが、天に通じたかのように。
カレンの掌が、じわりと、温かい光を放った。
彼女の脳裏に、直接流れ込んでくるイメージ。それは、たくさんの動物や野菜たちが、にこやかに微笑む、優しさに満ちた光景。
光が収まった時、彼女の手に握られていたのは、見慣れた赤缶ではなかった。
「S&B とろけるカレー(甘口)」。
前世でも、隠し味に信州みそを使っていたり、ビーフとチキンのブイヨンを使っているその斬新さに驚いた記憶がある。だが、今ならわかる。このルーの神髄は、果物の持つ自然な甘みと酸味で、野菜の旨味を極限まで引き立てることにある。
(これだ……!)
カレンは、完成した野菜のポタージュの鍋に、この新しいルーを、ほんの少しだけ、隠し味として溶かし込んだ。
途端に、スープの香りが、劇的に変化した。野菜の優しい甘い香りを基調としながらも、その奥に、フルーティーで、華やかで、そして微かに食欲をそそるスパイスの香りが加わり、全体の香りの格を、何段も上へと引き上げたのだ。
■
晩餐会の時間が来た。
オーギュストは、自らが仕上げた、完璧なコンソメスープの隣に、カレンが差し出した、何の変哲もないポタージュを、侮蔑の眼差しで見つめていた。
「ふん。見た目は、ただの田舎スープだな。これが、あのゴミから作られたというのだから、笑わせてくれる」
彼は、毒味と称して、銀のスプーンでそのポタージュを一口、すくった。そして、面倒臭そうに、無造作に、口へと運んだ。
――その瞬間、オーギュストの時間が、止まった。
(なっ……!?)
まず、舌を撫でたのは、雑味というものが一切存在しない、どこまでもクリアで、優しい野菜の甘み。それだけで、尋常ではない腕前であることがわかる。
だが、衝撃は、その直後に来た。
甘みの奥から、ふわりと、しかし確かに、鼻腔をくすぐる、微かなスパイスの香り。それは決して主張しすぎず、まるで陽だまりのように、野菜の甘さを、そっと、それでいて力強く、何倍にも増幅させている。
そして、後味に、ほんのりと残る、果物のような、爽やかな酸味。それが、ポタージュの輪郭をくっきりとさせ、もう一口、もう一口と、後を引かせる。
信じられない。信じたくない。この、完璧に計算され尽くした味の三重奏(トリオ)が、あの、腐りかけの野菜クズから、生み出されたというのか。
オーギュストの脳裏に、忘れていたはずの、遠い記憶が蘇った。
幼い頃、熱を出して寝込んだ自分に、母親が、庭で採れた野菜だけで作ってくれた、あの優しいスープの味。あの時の、温かさと、安らぎと、愛情の味。
(……馬鹿な)
彼は、即座にその感傷を打ち消し、料理人としての冷徹な分析に戻った。
(偶然か……? いや、この味の構成は、偶然では断じてありえん。素材の欠点を全て旨味に転化させ、さらに、この未知の香りで、全く新しい一皿へと昇華させている。あの小娘、一体、何者なのだ……?)
オーギュストは、無言でスプーンを置いた。その表情は、まだ、氷のように硬いままだった。
しかし、彼の瞳の奥、その一点に見据えるカレンの姿には、もはや侮蔑の色はなかった。そこには、得体の知れない「何か」に対する、初めての、そして、認めがたい、確かな畏怖の念が宿っていた。