カレンが作った「追憶のカレーポタージュ」は、小規模な晩餐会で、賓客たちから絶賛を浴びた。
だが、オーギュストはその事実を公式には認めず、「物珍しさが受けただけの、まぐれだ」と公言してはばからなかった。
しかし、厨房の空気は、もはや元には戻らなかった。
料理人たちは、カレンを嘲笑する代わりに、遠巻きに、しかし鋭い観察の視線を送るようになった。
彼らはプロだ。
あの野菜クズから、あの水準のスープが生み出されることが、「まぐれ」で片付けられるものではないことを、本当は理解していた。彼らは固唾をのんで見守っていたのだ。この異端の少女が、次は一体何を仕掛けてくるのか、と。
「小娘」
オーギュストの声が、再び厨房の緊張感を一段と高めた。彼の背後には、二人の若い料理人が、巨大な肉の塊を抱えている。そして、ドン、という鈍い音を立てて、それがカレンの調理台に叩きつけられた。
それは、牛一頭から僅かしか取れない高級部位とは、対極の存在。屠殺場で、ただ同然で取引される、太い筋が幾重にも走り、骨にこびりついた、赤黒い肉の塊だった。普通に調理すれば、ゴムのように硬く、とても人間の歯が立つ代物ではない。
故に、煮込み料理の出汁を取るためだけに、僅かに使われるのが関の山。この世界では、という注役がつく、そんな部位だった。
「賓客は『変わった味のスープだ』と喜んでいたようだが、王宮料理の華は、いつの時代も肉料理だ。スープは、そのための序曲に過ぎん」
オーギュストは、冷徹な瞳でカレンを見据えた。
「これで、客の度肝を抜く、極上のメインディッシュを作ってみせろ。もしできなければ……君の居場所は、もはやこの王宮にはないと思え」
それは、昨日よりもさらに悪意に満ちた、明確な最後通牒だった。これみよがしに、他の料理人たちの前で、公然と叩きつけられた挑戦状。もはや、逃げ道はどこにもない。
(なるほど、今度は物理的な『硬さ』で来たか。発想を変えてきたな、料理長)
カレンは、巨大なスジ肉の塊を前に、静かに腕を組んだ。その横顔には、絶望の色はない。むしろ、その口元には、ごく微かな、挑戦的な笑みさえ浮かんでいた。
(いいだろう。その、凝り固まったプライドごと、とろとろに煮込んでやる。独身のおっさんが極めた、カレーの道を舐めんなよ?牛筋はおっさんのトモダチ、だぜ!)
カレンは、まず肉の塊をまな板に乗せると、その構造を冷静に分析し始めた。筋がどの方向に走っているのか。コラーゲン質が多く含まれるのはどの部分か。前世の記憶――週末に飽きもせず見ていた料理番組や、読み漁った専門書の知識が、彼女の頭脳で再構築されていく。
「力任せに煮込んでもダメだ。この、厄介な結合組織を、いかにして至高の『旨味』へと転化させるか……。それが、この勝負の鍵」
まず、物理的なアプローチ。カレンは、肉叩きを手に取ると、リズミカルに、しかし確実に、肉の繊維を叩き潰していく。次に、包丁の先で、筋を断ち切るように、縦横無尽に、無数の隠し包丁を入れていった。地道で、根気のいる作業だが、それを彼女は集中力を持って行い続ける。
次に、化学的なアプローチだ。カレンは、厨房の片隅に置かれていた、調理用の、酸味の強い青リンゴを数個手に入れると、それを手際よくすりおろした。そして、その果肉を、惜しげもなく肉の塊全体に、塗り込んでいく。
「何をしている……? 肉に、果物だと?」
オーギュストが、怪訝な声を上げる。
カレンは、顔を上げずに答えた。
「リンゴに含まれる酵素が、タンパク質を分解し、肉を柔らかくしてくれます。私の故郷……ええ、故郷です。そこに古くから伝わる、料理の知恵です」
その澱みない返答に、オーギュストはぐっと言葉に詰まった。彼は、カレンが単なる勘や偶然で料理をしているわけではないことを、ここで初めて理解した。彼女の中には、自分たちの知らない、しかし確かな理論が存在するのだ。
下処理を終えた肉の塊は、大きな深鍋に入れられ、ひたひたの赤ワインと香味野菜と共に、ごくごく弱火にかけられた。決して沸騰させてはならない。タンパク質が硬化する手前の、コラーゲンがゼラチン質へと変化を始める、魔法の温度帯を、何時間も、ただひたすらに維持し続ける。
それは、料理というより、実験に近い光景だった。厨房の誰もが、その異様な調理法から、目を離すことができずにいた。
陽が傾き、厨房に夕食の準備の慌ただしさが満ちてくる頃。カレンは、鍋の火を止め、蓋を開けた。立ち上る湯気と共に、赤ワインと肉の、芳醇な香りが広がる。
そして、鍋の中に箸を入れると、あれほど頑固な塊だったスジ肉が、まるで熟した果実のように、ほろり、と崩れ落ちた。
「……やった」
カレンの口から、安堵のため息が漏れる。この、長時間の地道な作業と、食材への信頼が報われた、その瞬間。
彼女の掌が、再び、確かな熱を帯びた。
今度の光は、どこか異国情緒を帯びた、情熱的な輝き。光が収まると、そこには、茶色とオレンジを基調とした、スパイスの絵が描かれた小箱が現れた。
「S&B ドライキーマカレー 中辛」。
そのパッケージには、「調理間10分!」という、カレンが費やした膨大な時間と手間を、あざ笑うかのような手軽なキャッチコピーが踊っていた。
だが、カレンは笑みを浮かべた。
(手軽さの裏にあるのは、巨大なメーカーが幾度にも試算し、計算し、そして実験され尽くしたスパイスの調合と、凝縮された旨味の結晶だからこそ、だ。これを、この、旨味の塊と化したスジ肉と合わせれば……!)
カレンは、柔らかくなったスジ肉を、二本のフォークで、丁寧に、しかし大胆に引き裂き、ほぐしていく。別のフライパンで、香ばしく炒めた玉ねぎのみじん切りと合わせ、そこに、ドライキーマカレーの素を投入した。
ジュウッという音と共に、厨房の空気が、再び塗り替えられた。
ポタージュの時のような、優しい香りではない。赤缶の時のような、懐かしい香りでもない。それは、何十種類ものスパイスが、互いの個性を主張しながらも、完璧なバランスで融合した、暴力的で、攻撃的で、そして抗いがたいほどに官能的な香りだった。
完成した「ほぐしスジ肉のドライキーマカレー」は、小さな器に、こんもりと盛られた。それを、薄く焼いたパンに乗せて、カレンは、オーギュストの前に、静かに差し出した。
「なんだ、この料理は」
「キーマカレーです」
「……キーマ……?」
オーギュストは、複雑な表情で、その一皿を見つめていた。あの牛筋肉の塊から、どうやって、この一皿にたどり着いたのか。見てはいたが、理解は出来ていない。そしてなにより、味が気になり始めていた。
「……では、試食をしてやろう」
そして、覚悟を決めたように、それを一口、口に運んだ。
まず、彼の脳天を、ガツンと、ハンマーで殴られたようなスパイスの衝撃が襲う。クミン、コリアンダー、クローブ、カルダモン……無数の香りが、津波のように味蕾を駆け巡る。
しかし、辛いだけではない。
噛みしめた瞬間、彼の常識は、完全に粉砕された。
あの、ゴミ同然だったはずのスジ肉から、信じられないほどに濃厚で、ねっとりとした、極上の旨味が、じゅわああっと溢れ出してくるのだ。スパイスの鮮烈な刺激と、肉のどこまでも深いコクが、口の中で、禁断の婚礼を挙げているかのようだった。
オーギュストは、気づいた。
この料理の根底にあるのは、小手先の技術や、未知の調味料の力だけではない。
それは、見捨てられた食材の持つ、僅かな可能性を信じ抜き、その命が最も輝く瞬間まで、時間と手間と愛情を惜しまなかった、料理人としての、純粋で、そしてあまりにも強靭な「執念」と「敬意」。
それは、何十年も前に、自分が持っていたはずの、料理に対する、純粋な情熱そのものだった。
オーギュストは、無言で器を置いた。そして、カレンに背を向け、厨房の喧騒の中に消えようとしながら、一言だけ、ぽつりと呟いた。
「…………悪くない」
その、誰にも聞こえないような声。しかし、そのぶっきらぼうな言葉の中に込められた、僅かな賞賛の響きを、カレンの耳だけは、確かに捉えていた。
厨房の料理人たちは、もはや誰も、カレンを異物として見てはいなかった。彼らは、二つの不可能な試練を、圧倒的な実力で乗り越えた、この恐るべき少女を、畏敬の念で見つめ始めていた。
王宮料理長オーギュストという、巨大な城壁に穿たれた、確かな亀裂。
そこから、カレーの女神が放つ、まばゆい光が、漏れ出し始めていた。