カレンが二つの試練を乗り越えてから数日後。王宮の一角で、王太子アルベール主催の、ごく内密な夜会が催された。
「今宵は貴様のお披露目も兼ねている」
王太子に促されるまま、慣れないドレスを着たカレンが足を踏み入れた広間は、これまでの厨房とは全く違う、優美と洗練の空間だった。床には深紅の絨毯が敷き詰められ、壁には歴代の名画が飾られ、窓の外に広がる庭園は、月光と魔法の灯りによって幻想的に照らし出されている。ハープの柔らかな音色が流れ、絹やビロードのドレスをまとった貴族たちが、クリスタルのグラスを片手に、上品な笑い声を交わしていた。
その場違いなほどの華やかさに、カレンは一瞬、息を呑む。路地裏の泥の匂いも、厨房の熱気と汗の匂いも、ここにはない。あるのは、高価な香水と、政治的な駆け引きの、見えない緊張感だけだ。
「気後れする必要はない。ここでは誰もが、舌の上では平等だ」
背後からかけられた声に振り返ると、そこにいたのはオーギュストだった。彼は、いつものコックコートではなく、仕立ての良い執事のような礼服に身を包んでいたが、その背筋は相変わらず、一本の揺るぎない芯が通っているようだった。
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今夜、カレンは、この夜会で振る舞われる料理のうち、最初の一皿であるアミューズ(突き出し)を担当するよう、王太子直々に命じられていた。オーギュストは、その補佐という名目で、彼女の隣に立つことになっていたのだ。
調理が始まる前、オーギュストは、初めて、真っ直ぐにカレンの目を見て、問いかけた。
「小娘。お前に問う。お前の料理の神髄とは、一体何だ?」
それは、試すような響きではなかった。純粋な、一人の料理人としての問いだった。
「我々王宮の料理人は、最高の食材に、何百年と受け継がれてきた最高の技術を施し、王家の権威そのものを、この一皿の上に表現する。それが我々のプライドであり、存在意義だ。だが、お前は違う。お前の料理には、我々の知らない、全く別の『理(ことわり)』があるように思える」
カレンは、オーギュストの真剣な瞳を見つめ返した。
そして、脳裏に、路地裏で貪るようにカレーを食べる仲間たちの顔や、「赤缶亭」で笑い合う人間と魔族の客たちの顔を思い浮かべながら、静かに、しかしはっきりと答えた。
「私の料理の神髄……それは、どんな食材でも、どんな人でも、それを食べた人が、笑顔になってくれることです。『美味しい』って笑ってくれる、その一瞬のために、私は料理を作ります」
その、あまりにも純粋で、飾り気のない答えに、オーギュストは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。そして、ふっと、何かを諦めたかのように息を吐くと、彼は部下に命じた。
「小娘に、最高の食材を使わせてやれ。仔牛のフィレ、先ほど届いたばかりの初物のカボチャとトウモロコシ、それと、私のセラーにある、デザート用のチョコレートもだ」
それは、妨害とは真逆の、意外な指示だった。
与えられたのは、これまでの試練とは比べ物にならない、輝くような生命力に満ちた食材たち。カレンは、その一つ一つを手に取り、深呼吸した。
(マイナスをプラスに変えるのではない。プラスを、更なる高みへ――!)
彼女の調理が始まった。その手際は、もはや芸術の域に達していた。
まず、初物のカボチャとトウモロコシを、丁寧に蒸し上げ、その甘みを最大限に引き出す。それを裏ごしし、極上のブイヨンと合わせ、滑らかなポタージュのベースを作る。そこに、隠し味として、あの「とろけるカレー」のルーを、ほんの一欠片だけ。野菜の持つ自然な甘みを、優しく、どこまでも優しく増幅させるためだけに。
次に、仔牛のフィレ肉を、寸分の狂いもなく、米粒ほどの大きさに刻んでいく。それを、香ばしく炒めた玉ねぎと合わせ、「ドライキーマカレーの素」で一気に仕上げる。さらにカレンは、オーギュストから与えられた高カカオのチョコレートを、ほんの少しだけ削り入れ、味に深いコクと、僅かな苦みの余韻を加えた。王宮の厨房だからこそできる、即興のアレンジだった。
完成した二品は、小さなクリスタルの器に、美しく盛り付けられた。
黄金色に輝くポタージュの上には、ハーブの緑が鮮やかに浮かぶ。カリカリに焼かれた小さなパンの上には、宝石のように艶やかなドライキーマが、こんもりと乗せられている。
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二つのアミューズが、銀の盆に乗せられ、カレンたちの前を通り過ぎて、貴族たちの下へと運ばれていく。
その瞬間だ。
会場の雰囲気が、微かに変わった。ハープの音色や、談笑の声はそのままに、全ての意識が、その小さな二つの器から立ち上る、魅惑的な香りに集中していくのが、肌で感じられた。
ある貴婦人が、ためらうように、黄金色のポタージュを一口、口に運ぶ。その瞬間、彼女の瞳が、夢見るように、うっとりと細められた。
「まあ……なんて、優しい甘さなのでしょう。まるで、春の陽光を、そのまま飲んでいるかのよう……」
別の席では、厳格な顔つきの将軍が、ドライキーマを乗せたパンを口にし、その場で固まっていた。
「む……! なんだ、これは!? この、指先ほどの小さな一口に、どれだけ複雑なスパイスと、凝縮された肉の旨味が詰め込まれているのだ!? 刺激的なのに、荒々しくない。どこまでも、上品だ……!」
驚きと、感嘆の声が、さざ波のように広がっていく。
そして、主賓である王太子アルベールが、静かに二品を味わった。彼は、他の貴族のように大げさに騒ぐことはなかった。ただ、静かに目を閉じ、その味の余韻を確かめると、ゆっくりと目を開き、カレンを真っ直ぐに見つめた。
「――素晴らしい」
その一言は、全ての雑音を制圧するほどの、確信に満ちていた。
「君の料理は、伝統を恐れず、しかしそれを破壊するわけでもない。素材への敬意を忘れず、食べる者への想いに満ちている。そして何より、未来への可能性を感じさせる。これこそが、これからの王国に必要な、新しい『味』だ」
王太子の、絶対的な賛辞。それは、カレンの料理の価値を、この国の誰もが認めざるを得ない高みへと、引き上げた瞬間だった。
その光景を、オーギュストは、少し離れた場所から、静かに見つめていた。
彼もまた、部下に命じて運ばせた、カレンのアミューズを、誰にも気づかれぬよう、口にしていた。
彼の、何十年もかけて鍛え上げられた、王国の歴史そのものを記憶した舌が、その味の本質を、正確に理解していた。
ポタージュに込められた、素材の命を慈しむ、母のような優しさ。
ドライキーマに秘められた、食べる者を元気づけたいという、太陽のような情熱。
そして、その二皿に共通する、揺るぎない一つの哲学。
『美味しくなって、喜んでほしい』という、純粋な想い。
「――ああ」
オーギュストは、悟ってしまった。
自分が、いつの間にか、忘れてしまっていたもの。伝統や、権威や、プライドという、分厚い鎧を守ることに必死で、料理人として、最も根源にあるべき、その純粋な心を、どこかに置き忘れてきてしまっていたことに。
カレンの、あの真っ直ぐな瞳。その奥には、ただひたすらに、料理が好きで、人が喜ぶ顔が見たくてたまらなかった、若い頃の自分自身の姿が、鮮やかに映っていた。
敗北を、予感した。
しかし、それは、不思議と、悔しいだけの感情ではなかった。
むしろ、心の奥底で、何かが、カチリと音を立てて動き出すような、料理人としての魂が、久しぶりに震えるような、静かな興奮が、確かに込み上げてきていた。
夜会が終わり、誰もいなくなった厨房で、オーギュストは、後片付けをするカレンの背中に、静かに声をかけた。
「――建国祭、貴様が何を作るのか。楽しみにしているぞ、小娘」
その声には、もはや侮蔑の色はなかった。
それは、同じ頂を目指す、対等な料理人(ライバル)に対する、敬意のこもった、正々堂々たる宣戦布告だった。