赤缶カレー粉と少女の冒険   作:灯火011

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第15話:建国祭前夜 - 料理人たちの対話

 王太子の夜会から数日が過ぎ、王都全体が、年に一度の建国祭を前に、浮き足立つような熱気に包まれていた。そして、その祝祭の頂点を飾る饗宴を目前に控えた王宮の厨房は、昼夜を問わず、灯りが消えることはなかった。

 

 饗宴の前夜。

 

 全ての仕込みを終え、部下たちを帰した厨房は、昼間の喧騒が嘘のように、静寂に包まれていた。

 

 月明かりが、高い窓から銀色の光の筋となって差し込み、磨き上げられた銅鍋や、壁に掛けられた調理器具を、ぼんやりと浮かび上がらせている。そこは、まるで、決戦を前にした闘士が、己と向き合うための神殿のようだった。

 

 カレンは、その静寂の中、一人、自分の調理台の前に立っていた。

 

 明日の饗宴で使う、山のように積まれた最高級の食材たち。宝石のように輝く野菜、大理石のようなサシが入った牛肉、海からの恵みを凝縮した魚介類。その一つ一つが、最高の料理人に調理されることを、静かに待っている。

 

「――眠れんかね、小娘」

 

 静寂を破ったのは、やはり、あの低く、威厳のある声だった。

 

 カレンが振り返ると、オーギュストが、コックコートを脱ぎ、簡素なシャツ姿で立っていた。その手には、年代物のブランデーが注がれたグラスが握られている。いつも張り詰めている彼の雰囲気が、今夜は少しだけ、柔らかく見えた。

 

「オーギュスト様こそ」

「ふん。長年、この厨房に立っていると、祝祭の前夜は、どうにも落ち着かんでな。古い友と、語り合いたくなる」

 

 そう言って、オーギュストは、自分の隣にある、使い込まれた調理台を、慈しむように撫でた。

 

「私が、初めてこの厨房に立ったのは、まだ君くらいの年の頃だった。先代の料理長は、雷のような男でな。毎日、怒鳴られ、鍋で殴られ、泣きながらソースを煮詰めたものだ。だが、教えられた。王家の味を守るということが、どれほど重い責任を伴うものかを」

 

「オーギュスト様。その、もし、私の勘違いでなければ」

 

「ああ。君に与えた物は、私が過去、料理長から受けた試練そのものだ。最高級の食材とはいえバラツキはあるだろう。時には、最高級品といいながら、飢饉や戦争の時など、さまざまな理由で並以下の食材しか手に入れられない時があるだろう」

 

 彼は、グラスの中の琥珀色の液体を、ゆっくりと揺らした。

 

「なればこそ、クズと言われる食材からでも、いつ、いかなる時でも、……周りに敵しかいなくとも。王族や賓客らが満足する食事を作れないのであれば、この厨房の扉は決して開けてはならないのだよ」

 

 そして、改めて厨房の食材達を眺めならが、その口を開く。

 

「……最高の食材に、何百年と受け継がれてきた最高の技術を施し、そして、いつ、いかなる場所、条件においても、王家の権威そのものを、この一皿の上に表現する。それこそが、我が一族が代々受け継いできた、王宮料理人としての誇りだった。伝統を守ること、それだけが私の全てだった。……そう、信じてきた」

 

 オーギュストは、そこで一度言葉を切り、カレンに、その鋭い、しかし今はどこか揺らいでいる瞳を向けた。

 

「だが、君が現れた。君の料理は、我々の知らない『理』で動いている。国のためではない。それなのにも関わらず、腐りかけの野菜を、珠玉のポタージュに変え、誰もが見捨てたスジ肉を、極上のメインディッシュへと昇華させる。その根底にあるのは、伝統でも、権威でもない。一体、何なのだ?」

 

 それは、尋問ではなかった。長年、揺るぎないと思っていた自分の世界に、初めて現れた理解不能な存在に対する、一人の料理人としての、純粋な問いかけだった。

 

「改めて私に教えてはくれんかね。お前の……、いや、カレン。君の料理の、その魂の在り処を」

 

 カレンは、オーギュストの告白を、静かに聞いていた。そして、彼の瞳の中に、ただの頑固な老人ではない、自らの信じる道を守り抜いてきた男の、誇りと、そして孤独を見た気がした。

 

 彼女は、自分の胸に手を当て、静かに語り始めた。

 

「以前の私は……誰かのために、料理を作ったことなんてありませんでした。ただ、自分のためだけに、生きていたんです。美味しいものを食べても、それを分かち合う相手もいなくて……世界は、ずっと、灰色に見えていました」

 

 前世の、孤独な中年男性の記憶。その痛みが、カレンの言葉に、不思議な深みを与える。

 

「でも、ある日、私は出会ったんです。路地裏で、飢えて、明日死ぬかもしれない人たちに。私は、あり合わせの具材で、一杯の……煮込み料理を作りました。それが、私の最初のカレーでした」

 

 カレンの脳裏に、あの日の光景が蘇る。貪るようにスープを食べ、涙を流して「うまい」と言ってくれた、仲間たちの顔。

 

「その時、初めて知ったんです。自分の作ったもので、人が笑顔になる。人が、生きる力を見つけてくれる。その瞬間、私の灰色の世界に、初めて、色がついたんです」

 

 彼女は、まっすぐにオーギュストを見つめ返した。

 

「私にとって、最高の食材は、王宮にある宝石のような野菜じゃありません。路地裏で、仲間たちが泥だらけになって拾ってきてくれた、あの不揃いな根菜なんです。私にとって、最高のスパイスは、S&Bの缶に入った魔法の粉だけじゃない。赤缶亭で、人間も魔族も関係なく、『美味しいね』って笑い合ってくれる、みんなの笑顔なんです」

 

 そして、カレンは満面の笑みで、こう、言い切った。

 

「私の料理の魂は、王宮にはありません。あの、始まりの路地裏に、そして、私を待ってくれている仲間たちの下にあります」

 

 その言葉は、オーギュストの心の最も柔らかい部分を、静かに、しかし深く、貫いた。

 

 

 ――食べる者の笑顔。

 

 

 そうだ、自分も、最初はそうだったはずだ。初めて作った菓子を、両親が「美味しい」と笑ってくれた。

 

 見習いの頃、自分が作った賄いを、仲間たちが「ありがとう」と平らげてくれた。

 

 

 ――その喜びが、料理人としての原点だったはずだ。

 

 

 いつから忘れてしまったのだろう。伝統という鎧をまとい、権威という城に立てこもるうちに、その最も大切な心を、どこかに置き忘れてきてしまっていた。

 

 オーギュストは、長く、深く、息を吐いた。そして、おもむろに、腰に下げていた革のケースから、一本の小さなナイフを取り出した。黒水牛の角でできた柄に、銀の装飾が施された、美しいペティナイフ。

 

 長年使い込まれ、彼の体の一部となっている、逸品だ。

 

「……これを、持っていくといい」

 

 彼は、そのナイフを、カレンに差し出した。

 

「長年、私の右腕として働いてくれた相棒だ。国を担う、最高の料理人には、最高の道具がふさわしい」

 

 それは、オーギュストが、カレンを、自分と対等な「最高の料理人」として認めた、何よりの証だった。

 

 カレンは、驚きに目を見開いたが、やがて、そのナイフを、恭しく両手で受け取った。ひんやりとした金属の感触と、持ち主の魂が宿ったかのような、確かな重み。

 

「……ありがとうございます、オーギュスト様」

 

 彼女は、深々と頭を下げた。

 

「明日は、このナイフと共に、私の全力を尽くします」

 

「うむ」

 

 オーギュストは、満足げに頷くと、残っていたブランデーを一気に呷り、厨房を去っていった。その背中は、来た時よりも、少しだけ、軽やかに見えた。

 

 一人残されたカレンは、受け取ったナイフを、月明かりにかざした。

 

 夜明けは、もうすぐだ。

 

 最高の舞台は、整った。もはや、二人の間に敵意はない。あるのは、互いの料理哲学の全てを皿の上に表現し、歴史に残る最高の饗宴を創り上げようという、料理人としての、清々しい誓いだけだった。

 

 カレンは、明日のために用意された、最高級の食材へと向き直った。その手には、オーギュストの魂が宿るナイフが、確かに握られていた。

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