建国祭の饗宴が、歴史的な一夜として人々の記憶に刻まれてから数週間。王宮の巨大な厨房は、以前の張り詰めた空気が嘘のように、活気と、そして一種の穏やかな熱気に満ちていた。
その中心にいたのは、カレンとオーギュストだった。
「違う、カレン殿。ソースは生き物だ。決して目を離すな。この、表面の小さな泡が、真珠のような輝きを帯びる瞬間がある。その一瞬の火入れが、ソースの寿命を、そして気品を決めるのだ」
オーギュストは、彼の魂そのものである伝統のソースを煮詰める鍋の前に立ち、カレンに、まるで秘儀を伝えるかのように、その極意を語っていた。カレンは、その言葉を一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しで鍋を見つめている。
「……オーギュスト様。もし、ここに、ほんの少しだけ、クミンを加えてみたら、どうなるでしょうか。ソースの深いコクに、ほんの少しだけ、大地のような香りの輪郭が生まれる気がするんです」
「クミンだと? 馬鹿を言え。この、何百年と受け継がれてきた完璧な調和を、異国の香りで乱すというのか」
オーギュストは、最初こそ眉をひそめたが、カレンの、探求心に満ちた真っ直ぐな瞳に、ふ、と口元を緩めた。
彼は、カレンが差し出したクミンの粉末を、ほんの少しだけ、ソースに落とす。途端に、厨房に満ちていた高貴な香りに、どこか野性的で、しかし食欲をそそる、新たな奥行きが加わった。オーギュストは、その香りの変化に、驚きと、そして隠しきれない喜びの色を浮かべた。
伝統と革新。二人の料理人が出会ったことで、この厨房は、かつてない高みへと、進化を遂げようとしていた。
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だが、その穏やかで充実した日々は、一通の国王陛下からの召集命令によって、終わりを告げる。
玉座の間に呼び出されたカレンと、付き添いのオーギュスト、そして王太子アルベール。国王は、威厳に満ちた表情で、こう告げた。
「カレンに命ずる。来るべき、魔王国との和平交渉使節団に、『王国食文化交流大使』として参加せよ」
「なっ……陛下! それはあまりにも危険すぎます!」
思わず声を上げたのは、オーギュストだった。彼の冷静さは、カレンの身の危険を案じる想いの前で、たやすく崩れ去った。
「彼女は、この国の、食文化の未来を担う宝です! まだ、まだ、彼らを此方に呼ぶなら理解できますが!それを、何が起こるやも知れぬ、蛮族の地へ送るなどと……!」
その、感情を露わにした反対の言葉に、カレンは胸を打たれた。この、気難しく、プライドの高い老人が、ここまで自分のことを案じてくれている。その事実が、たまらなく嬉しかった。
「将軍ゼノンより連絡があった。あの料理は互いの種族、その誤解を解く鍵になるやもしれん、とな」
「長い歴史、魔王国と我が国は争っている。時には剣で、時には言葉で、時には貿易で。手を取ろうとしようにも、互いに文化も違う。だからだろう。今までこのようは話は無かったのだ。この機会、逃すわけにはいかんのだ」
しかし、カレンは、国王の瞳の奥にある真意と、隣に立つアルベールの期待に満ちた視線を、確かに感じ取っていた。これは、ただの命令ではない。剣でも魔法でも開けなかった、重い扉を開くための、新たな「鍵」としての期待。
カレンは、オーギュストの前に進み出ると、静かに、しかし毅然として言った。
「オーギュスト様、お気持ちは嬉しいです。でも、私は行きます。もし、私のカレーが、本当に人と人の心を繋ぐことができるのなら……私は、どこへでも行きます。それが、私の料理の魂ですから」
そして、国王に向き直り、深々と頭を下げた。
「勅命、謹んでお受けいたします」
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旅立ちの日。王宮の門前は、盛大な見送りの人々でごった返していた。厨房の仲間たちが、涙ながらにカレンに駆け寄る。
「カレン殿、これを……」
オーギュストは、ぶっきらぼうに、小さな革袋をカレンに手渡した。中には、様々な色合いの、結晶の大きな塩が入っている。
「道中で、使えるかもしれん。私が長年かけて、世界中から集めた岩塩のコレクションだ。……必ず、生きて帰ってこい。そして、奴らの度肝を抜く、最高の料理を、作ってこい」
その不器用な優しさに、カレンは「はい」と力強く頷いた。
こうして、カレンを乗せた、王家の紋章が入った頑丈な馬車は、王都を後にした。
使節団の構成は、これまた奇妙なものだった。団長である王太子アルベール。案内役として同行する、魔王国の将軍ゼノン。そして、彼らを護衛する、王国騎士団の精鋭たちと、ゼノンが率いる、屈強な魔族の兵士たち。
彼らは、同じ一行でありながら、決して交わろうとはしなかった。
野営の夜、焚き火は、必ず二つ作られた。人間たちの輪と、魔族たちの輪。互いの間には、見えない、しかし分厚い壁が存在し、猜疑と警戒の視線だけが、冷たく交錯していた。
王太子アルベールは、その空気を和らげようと、ゼノンに話しかけるが、ゼノンは、
「我らは、お前たちと馴れ合うために来たのではない」
と、冷ややかに返すだけ。騎士団長と、魔族の部隊長は、互いに武器から手を離さず、些細なことで一触即発の空気になることさえあった。
「……殺伐としすぎじゃない?」
カレンは、その重苦しい旅を続けながら、世界の広さと、そして、異文化間の溝の深さを、肌で感じていた。
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旅が進むにつれて、車窓の風景は、劇的に変化していった。豊かな穀倉地帯が、岩がちな荒野へと変わり、やがて空の色さえもが、どこか現実離れした、深い紫色を帯び始める。
そして、旅の十日目。一行は、ついに、人間と魔族の国を隔てる広大な森、「境界の森」に足を踏み入れた。
そこは、カレンがこれまでに見た、どんな森とも違っていた。木々は、まるで苦悶するかのように、奇妙な形にねじ曲がり、その幹からは、燐光を発するキノコが、ぼんやりと青白い光を放っている。足元の苔は、踏みしめるたびに、星屑のようにきらめいては消え、大気には、甘い花の香りと、湿った土の匂い、そして、未知の獣の気配が、ないまぜになって漂っていた。
幻想的で、しかし、生命力が強すぎるあまりに、どこか恐ろしい。そんな場所だった。
その森の中で、天候は、突如として牙を剥いた。空が、墨を流したように真っ黒に染まったかと思うと、バケツをひっくり返したような、猛烈な豪雨が、一行を襲ったのだ。道は瞬く間にぬかるみ、川と化し、一行は、近くにあった大きな洞窟で、雨が止むのを待つしかなくなった。
一日、二日……。雨は、一向に止む気配を見せない。
湿気で、携行食料のパンにはカビが生え始め、干し肉も、嫌な匂いを放ち始めた。兵士たちの間には、疲労と、飢えと、そして先の見えない不安から、苛立ちが募っていく。
「くそっ、いつまでこんなジメジメした場所に……」
「これも全て、あの魔族どもが、わざとこんな道を選んだからだ!」
「何だと、人間の脆弱さを、我らのせいにするな!」
人間と魔族の間で、ついに、怒声が飛び交い、何人かが剣の柄に手をかけた。
その、一触即発の空気を切り裂いたのは、カレンの、凛とした声だった。
「――皆さん、温かいものを食べれば、少しは気持ちも落ち着くはずです」
カレンは、立ち上がると、将軍ゼノンの元へ、まっすぐに歩み寄った。
「ゼノン様。この森で、何か、食べられるものはありますか?」
ゼノンは、カレンの、この状況でも揺るがない瞳を見て、僅かに目を見張った。そして、試すように、洞窟の入り口近くに生えていた、いくつかの植物を指さした。
「……この、赤い木の実。我らは『龍の涙』と呼ぶ。猛烈に酸っぱいが、活力が湧く。この、黒いキノコは『夜泣き茸』。滋味深いが、腹を壊す者もいる。人間の、軟な腹に合うかは、知らぬぞ」
カレンは、その言葉に怯むことなく、龍の涙を、夜泣き茸を、手に取った。そして、料理人として、その未知の食材と「対話」を始めた。匂いを嗅ぎ、指で潰し、舌の先で、ほんの少しだけ、味を確かめる。
(龍の涙は……強い酸味。でも、その奥に、柑橘とは違う、華やかな香りがある。夜泣き茸は、土の香りと、鉄分のような、力強い旨味……)
彼女は、兵士たちに指示を出し、大鍋に雨水を溜めさせ、火を起こさせた。そして、痛みかけた野菜の、まだ食べられる部分だけを、丁寧により分け、干し肉も、お湯で一度洗って、臭みを取る。
洞窟の中に、大きな鍋がかけられた。カレンは、そこに、下処理した人間界の食材と、そして、先ほど採ったばかりの魔界の食材を、同時に投入した。誰もが、固唾をのんで、その様子を見守っていた。
カレンは、味付けの決め手として、オーギュストから贈られた岩塩の袋を開いた。様々な色と形の塩の中から、彼女は、ほんのり赤みがかった、硫黄の香りがする塩を選ぶ。そして、最後の仕上げ。彼女が、常にポケットに忍ばせている、あの魔法の粉――「赤缶」のカレー粉を、ほんの少しだけ、香りづけのために、鍋に振り入れた。
「……これで、大丈夫だと思うんだけど」
やがて、洞窟の中に、信じられないほど、温かく、そして食欲をそそる香りが、満ち満ちていった。
それは、ただのスープの香りではない。人間が慣れ親しんだ、懐かしい野菜と肉の香りと、魔族が知る、力強い森の恵みの香りが、スパイスという、第三の力によって、奇跡的に結びつけられた、全く新しい「融和の香り」だった。
「……おい、なんだこのいい香り」
「あの人間の小娘が何か作ってるらしいぞ」
いがみ合っていた兵士たちが、思わず、その香りに顔を向ける。空腹の腹が、ぐぅ、と鳴る音があちこちから聞こえてきた。
「うん、味も良い感じ」
カレンは味見をして頷いた。赤缶亭で、そして、王都での経験が、彼女の舌を確実に肥えさせている。そんな彼女が良い、と称し完成したスープが、一人一人の器に注がれていく。
「ほう、これは見事。人間ながら良い香りを漂わせるスープをよくぞ作ったな」
「ありがとうございます。ゼノン様」
「では、早速頂くとしよう」
最初は、警戒していた魔族の兵士も、ゼノンが静かにスープを口にするのを見て、それに倣った。
そして、一口。
誰もが、目を見開いた。
龍の涙の強烈な酸味は、スパイスによって、爽やかなアクセントへと変わり、夜泣き茸の力強い旨味は、野菜の甘みと岩塩の塩味が手を取り合って、味わいに、深い奥行きを与えている。冷え切っていた体が、芯から、じんわりと温まっていく。ささくれ立っていた心が、ゆっくりと、穏やかに、ほぐれていく。
スープを飲み干した後、無言のままだった空間に、初めて、変化が訪れた。一人の王国騎士が、隣に座っていた、角の生えた魔族の兵士に、器に残った黒いキノコを指さし、ぶっきらぼうに、しかし、そこに敵意はなく尋ねた。
「……おい。このキノコ、お前らの国ではいつも食ってるのか?」
魔族の兵士が、少し驚いたように、しかし、どこか誇らしげに答えた。
「ああ。だが、こんな美味い食い方は初めてだ」
それが、この旅で初めて交わされた、人間と魔族の、心からの会話だった。
■
気が付けば雨が、上がっていた。
雲の切れ間から、紫色の空に、二つの月が顔を覗かせている。洞窟に差し込む光が、カレンの作った一杯のスープが、凍りついていた使節団の空気を、確かに、少しだけ、溶かしたことを、祝福しているかのようだった。
やがて、一行は、ついに「境界の森」を抜けた。目の前に広がるのは、どこまでも続く、赤茶けた、しかし、力強い生命力に満ちた大地。
そして、その遥か彼方。
地平線の向こうで、巨大な活火山が、悠然と黒い煙を上げ、その麓に広がる巨大な都市が、溶岩の赤い光を反射し、不気味に、しかし、あまりにも荘厳に、輝いていた。
魔王国の首都、「ヴルカニア」。
カレンは、その、人間界の常識を遥かに超えた圧倒的な光景を前に、ごくり、と喉を鳴らした。
本当の冒険が、そして、本当の試練が、今、始まろうとしていた。