赤缶カレー粉と少女の冒険   作:灯火011

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第19話:絶望の厨房と学びの眼差し

 絶望には、味も、匂いもない。それは、ただ、音もなく心を蝕む、冷たい毒のようなものだった。

 

 カレンは、魔王城の巨大でどこか殺風景な厨房の真ん中で、その毒が、全身にゆっくりと広がっていくのを感じていた。

 手の中には、無惨に刃こぼれした、オーギュストから贈られた大切なナイフ。

 目の前には、人間の常識を嘲笑うかのように、びくともしない魔獣「岩トカゲ」の、黒光りする鱗。

 そして、その全てを取り囲む、魔族の料理人たちの、容赦のない嘲笑の視線と、ざわめき。

 

「聞いたか?今の音」

「人間の小娘には、荷が重すぎたようだな」

「当たり前だ。ここは、王宮のお遊戯場じゃねえんだ」

 

 一つ一つの言葉が、小さな棘となって、カレンの心に突き刺さる。

 

 王宮での成功。

 

 領主からの称賛。

 

 貴族たちの熱狂。

 

 それらが、遠い世界の出来事のように、色褪せていく。今の自分は、路地裏で、何もできずに震えていた、あの頃と同じ。いや、あの頃よりも、もっと無力かもしれない。あの頃は、失うものなど何もなかった。だが、今は違う。託された期待がある。守りたいと願った、仲間たちの笑顔がある。

 

(……帰りたい。食材も何も知らない物ばかりだ。カレールーが出せたって……)

 

 心の底から、弱音がこみ上げてくる。

 温かい「赤缶亭」へ。マルコの、真剣な眼差しが待つ厨房へ。ゴードンの、優しい声が響くホールへ。みんなのいる、あの場所に。こんな、冷たくて、意地悪で、何もかもが違う場所には、もう、いたくない。

 

 涙が、熱い塊となって、喉の奥にせり上がってくる。俯いた視界が、滲んで、歪む。

 

 だが、その、涙がこぼれ落ちる寸前。カレンの脳裏に、仲間たちの、力強い声が、雷鳴のように響き渡った。

 

『カレンさんが、もっともっと大きな場所で輝く姿を、俺たちは見たいんだよ!』

『俺たちの心の中には、いつでもカレンさんのカレーがある!』

 

 そして、オーギュストの、不器用で、しかし温かい声も。

 

『必ず、生きて帰ってこい。そして、奴らの度肝を抜く、最高の料理を、作ってこい』

 

 そうだ。

 

 私は、一人じゃない。

 

 この、刃こぼれさせてしまったナイフに込められた想い。故郷で、私の帰りを、成功を、信じて待っている仲間たちの想い。それらを、こんな場所で、裏切るわけにはいかない。

 

 カレンは、滲んだ涙を、乱暴に袖で拭うと、ゆっくりと、顔を上げた。

 その瞳には、もはや、怯えの色はなかった。そこにあるのは、一度、心が折れかけた者だけが持つ、静かで、しかし、何ものにも揺るがない、覚悟の光だった。

 

(……ここで、終わらせない。種族が違くても、食事は、美味しさは共通のはずだから)

 

 

 翌日から、カレンの行動は、一変した。彼女は、調理台に立つのを、完全にやめた。

 

 嘲笑を浴びせた魔族たちに、何かを言い返すこともしない。ただ、厨房の、壁際の隅に、まるで石像のように、一日中、立ち尽くすだけだった。

 

 その視線は、一点に、食い入るように注がれていた。魔族の料理人たちの、その仕事ぶりに。

 

一日目。

 

 魔族の料理人たちは、カレンのその姿を、新たな嘲笑の的とした。

 

「なんだ、ついに諦めたのか、あの小娘」

 

「人間の根性なんて、その程度よ」

 

 彼らは、わざとカレンに見せつけるように、巨大な魔獣の肉を、豪快に断ち切り、溶岩のかまどに放り込んだ。

 

二日目。

 

 カレンは、昨日と全く同じ場所に、同じ姿勢で、立ち続けていた。朝の仕込みから、夜の後片付けまで、一瞬たりとも、その場を動かない。その、あまりにも異様な姿に、魔族たちは、次第に不気味さを感じ始めた。

 

「おい、あいつ、何なんだ……。瞬きもしてねえんじゃねえか?」

 

「気味が悪い……。まるで、俺たちの魂でも吸い取ろうとしてるみてえだ」

 

 今度は、あのカレンのナイフが欠けてしまった皮を、刃物となにがしかの草を利用しながら剥いでいく。

 

そして、三日目。

 

 彼らは、ついに、カレンの視線の、本当の意味に気づかざるを得なかった。

 

 それは、ただ見ているだけではない。

 

 値踏みしているわけでも、ましてや、怯えているわけでもない。

 

 彼女の瞳は、自分たちの、長年の経験と勘だけを頼りにしてきた、その調理法の一つ一つを、分解し、分析し、その根底にある「理論」ごと、全てを理解し、吸収しようとしていたのだ。それは、あまりにも真剣で、あまりにも知的な「学びの眼差し」だった。

 

 いつしか、彼らは、カレンのその静かな視線を背中に感じながら、自分の仕事ぶりに、普段は感じることのない、僅かな緊張感を覚えるようになっていた。

 

 一方、カレンの世界では、驚くべき発見が、次々と行われていた。彼らの調理法は、野蛮なのではない。自分たちの環境と、食材の特性を、極限まで理解した上での、究極の合理性の結晶だった。

 

 岩トカゲの硬い鱗。彼らは、調理の前に、森で採れるという強い酸性を持つ「蛇蔓(じゃづる)」の樹液を、鱗全体に塗り込んでいた。それは、硬い炭酸カルシウム質の鱗を、化学的に分解し、柔らかくするための、彼らの知恵だったのだ。

 

 巨大な石槌での打撃も、骨の関節や、繊維の目を的確に狙い、骨の髄にある、極上の旨味を、一滴も余さず煮出すための、計算され尽くした技だった。

 

 魔獣の血を抜かないのも、血の持つ鉄分とコクを、特定のハーブと合わせることで、発酵させ、人間界の「醤(ひしお)」や「醤油」のような、複雑な旨味調味料として、ソースに活かすためだった。

 

 カレンは、戦慄すら覚えた。

 

 彼らは、自分とは全く違う体系の、しかし、疑いようもなく高度で、洗練された「食文化」を、この過酷な環境の中で、築き上げてきたのだ。

 人間の文化だけが、優れているわけではない。知らないというだけで、見下していた自分が、いかに傲慢で、未熟だったか。

 カレンの心に、彼ら魔族の料理人たちへの、偽りのない、深い敬意の念が、静かに、しかし、確かに、芽生え始めていた。

 

 

 三日間の観察を終えた、日の暮れ方。厨房の後片付けが、終わろうとする頃。

 

 カレンは、意を決して、厨房の中央へと、ゆっくりと歩み出た。彼女が向かったのは、最初に彼女に声をかけた巨人。

 

 厨房を仕切る、最も年嵩で、最も屈強な、一本角の鬼人料理長「ボルグ」の前だった。

 

 厨房の誰もが、その巨大な背中に、畏敬の念を抱いている、絶対的な存在。

 血気盛んな若手のガルバスでさえ、彼の前では、言葉遣いが丁寧になる。

 

 魔族の料理人たちが、「何事だ?」と、一斉に作業の手を止め、カレンに注目した。

 

 カレンは、ボルグの前に立つと、一切の言い訳も、見栄も捨てた。彼女は、この世界に来てから、誰に対してもしたことのない、最も深く、最も丁寧な礼をした。

 

 その銀色の髪が、床にするりと落ち、小さな額が、硬い石の床に、こつん、と、小さな音を立てて触れるほどに。

 

 静まり返った厨房に、彼女の、凛とした、しかし、僅かに震える声が、響き渡った。

 

「――どうか、私に、あなた方の料理を、教えてください」

 

 彼女は、顔を上げないまま、言葉を続ける。

 

「私は、まだ、何も知りません。この世界の、本当の美味しさを、何も。私は、あなた方の料理を、あなた方の文化を、心から、尊敬します。どうか、この未熟な人間に、その知恵と、技術の、一端を、お授けください」

 

 それは、和平の使節でも、「カレーの女神」でもない、ただ一人の、無力で、しかし、真摯な、料理人の卵としての、魂からの願いだった。

 

 ボルグは、その巨大な腕を組み、驚きと、そして、これまで感じたことのない、複雑な感情の入り混じった目で、床に額をつけたままの、小さな少女の姿を、ただ、じっと見下ろしていた。

 

 異種族の厨房という、厚く、冷たい氷が、ピシリ、と、確かな音を立てて、軋み始めた。新しい時代の、新しい関係の、本当の夜明けは、もう、すぐそこまで来ていた。

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