赤缶カレー粉と少女の冒険   作:灯火011

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第20話:炎のディップと鬼人の涙

静まり返った厨房に、カレンの、凛とした声が響き渡った。

 

「――どうか、私に、あなた方の料理を、教えてください」

 

その、一切の驕りを捨てた、あまりにも真摯な申し出。厨房を支配していた鬼人料理長ボルグは、巨大な腕を組み、床に額をつけたままの、小さな少女の姿を、ただ、じっと見下ろしていた。

厨房の空気は、張り詰めていた。誰もが、ボルグがどう出るのか、固唾をのんで見守っている。

 

 ――やがて、ボルグは、地鳴りのような低い声で言った。

 

「……顔を上げろ、カレン」

 

 カレンがおそるおそる顔を上げると、ボルグの、猛禽類のように鋭い瞳が、彼女の魂の奥底までを見透かすように、真っ直ぐに注がれていた。

 

「我らの料理を学びたい、か。それがカレン、お前なりの誠意と言うわけだな」

 

 カレンは再びに頭を床に付ける。それは、テコでも動かないという、彼女なりの意地の張り方であった。それを感じ取ったボルグは、クク、と小さく喉を鳴らしていた。

 

「面白い。その度胸だけは、認めてやらんでもない。だが、我らの料理は、お前たち人間のままごとのように、生易しいものではないぞ」

 

 ボルグは、厨房の一角で、巨大な肉切り包丁を研いでいた、一人の血気盛んな若者を、顎でしゃくった。

 

「ガルバス!」

「へい、お頭!」

 

 呼ばれたのは、カレンを激しく嘲笑った、あの若い鬼人の料理人だった。

 

「この小娘の面倒を見てやれ。我らの魂の食材が、いかに厳しく、そして誇り高いものか、その細腕に、徹底的に叩き込んでやれ。……もし、生半可な覚悟ならば、厨房から、叩き出してしまえ」

「へへっ、お任せを!」

 

 ガルバスは、肉切り包丁を置くと、ニヤニヤと、意地の悪い笑みを浮かべて、カレンの元へやってきた。彼は、カレンの目の前に、一つの食材を、ドン、と乱暴に置いた。

それは、燃えるように赤く、そして、禍々しいほどの生命力を放つ、「炎パプリカ」だった。

 

「いいか、小娘。お前が最初に学ぶべきは、こいつへの敬意だ。我らの魂の食材、炎パプリカ。こいつを扱えずして、我らの料理を語る資格はねえ」

 

 ガルバスは、ぶっきらぼうに、しかし、その手つきは驚くほどに正確だった。黒曜石で作られた、薄いヘラのような道具を使い、パプリカのヘタをくり抜くと、中から、唐辛子の種のように、びっしりと詰まった白い種を掻き出していく。

 

「一番やべえのは、この種だ。こいつを一粒でも食ってみろ。お前のその、か細い喉なんざ、三日三晩、灼熱の炎に焼かれることになるだろうぜ。ただ……」

 

 小さく切った炎パプリカの、肉厚な果肉をカレンの前に差し出した。

 

「食ってみな」

 

 カレンは言われるがままに、そのパプリカの欠片を口に含む。すると、最初にカレンの舌を襲ったのは、強烈な辛味だった。

 

(辛っ……!?唐辛子……よりもっ……!?)

 

 しかめっ面を浮かべるカレンを前に、ガルバスは口角を上げて嘲笑う。

 

「人間にとっちゃあ辛くて仕方ねえだろうな。だが、この炎パプリカってのはその裏にある旨味をどう生かすか、それがキモなんだぜ?」

 

 彼の言葉には、脅しと共に、自分たちの食材への、揺るぎない誇りが滲んでいた。カレンは、その手際を、真剣な眼差しで見つめながら、深く頷いた。

 

「ありがとうございます、ガルバスさん。勉強になります」

「フン。口だけは達者だな。いいか、こいつの魂は、この燃えるような辛さと強烈な旨味だ。それを、お前たち人間がやるみてえに、甘ったるい何かで殺すような真似は、決してするなよ。分かったか!」

 

 カレンは、ガルバスから下処理の方法を教わると、今度は、自分の調理台へと戻った。

 

(辛味と、旨味。それを生かすなら……)

 

 

 そして、彼女の反撃が、静かに、しかし、確かに始まった。彼女は、人間界から持参した、貴重なバターと、玉ねぎを取り出すと、熱したフライパンの上で、じっくりと、甘い香りが立つまで炒め始めた。

 

 その、魔族の厨房には存在しない、芳醇で、食欲をそそる甘い香りに、ガルバスは、思わず、

 

「なんだその黄色い脂は! そんな甘ったるい匂いを出すな!」

 

 と、眉をひそめた。だが、カレンは、フライパンから目を離さずに、冷静に答えた。

 

「これは、バターです。そして、この炒めている玉ねぎは、旨味の『土台』になるんです。これから加える、炎パプリカの魂を、優しく受け止めて、さらに輝かせるための」

「魂を、輝かせる、だと……?」

 

 ガルバスは、意味が分からない、といった顔で、カレンの手元を睨みつける。

 

 カレンは、炒めた玉ねぎの中に、細かく刻んだ炎パプリカを投入した。ジュワッという音と共に、バターの甘い香りと、パプリカの刺激的な香りが、激しくぶつかり合い、そして、不思議なことに、一つの、全く新しい香りを生み出していく。

 

 さらに、カレンは、最後の仕上げとして、これもまた人間界の食材である、上質なクリームチーズの塊を、フライパンの中に、惜しげもなく加えた。

 

 その瞬間、ガルバスは、ついに絶句した。

 

「お、おい、正気か、貴様ッ! 乳製品だと!? そんなものは、赤ん坊か、病人が口にする、軟弱な食い物だろうが! 誇り高き、我らの食材を、炎パプリカを、そんなもので汚す気か!」

 

 彼の怒声が、厨房に響き渡る。カレンは、静かに、しかし、力強く言い返した。

 

「汚しはしません。魂を殺すこともしません。ただ、その魂が、もっと優しく、もっと豊かに歌えるように、ほんの少しだけ、お手伝いをしてあげるだけです」

 

 

 完成したのは、夕焼け空のような、鮮やかなオレンジ色をした、滑らかなペースト。「炎パプリカのクリーミー・ディップ」。カレーではない。彼女が、この世界で得た技術を十全に発揮させた、新たな料理だった。

 

 カレンは、それを、魔族が主食として食べる、硬い黒パンに、たっぷりと乗せると、ガルバスの前に、静かに、差し出した。

 

「……味見を、お願いします。ガルバスさん」

 

 ガルバスは、唾を飲み込んだ。周りの厨房の仲間たちが、遠巻きに、しかし、興味津々で、こちらを見ている。引くに引けなくなった彼は、

 

「フン! まずかったら、その鍋の中身ごと、お前の頭からぶっかけてやるからな!」

 

 と、最後の虚勢を張り、そのパンを、乱暴にひったくると、大きな口へと、一気に放り込んだ。

 

 そして、時が、止まった。

 

 ガルバスの、巨大な体が、まるで、魔法で石にされたかのように、ピシリ、と硬直した。彼の、鬼人の目に、これまでの人生で、一度も浮かべたことのない、驚愕と、混乱と、そして、信じがたいほどの、感動の色が、浮かび上がった。

 

(な……なんだ、これは……)

 

 彼の口の中に、生まれて初めての味覚が、嵐のように吹き荒れていた。

 まず、舌を包み込んだのは、クリームチーズの、どこまでもまろやかなコクと、玉ねぎの、時間をかけて凝縮された、深い甘み。

 その、優しい味の絨毯の上を、炎パプリカの、華やかで、フルーティーな香りが、まるで踊るように、駆け抜けていく。

 そして、最後に、その全ての味を、キリリと引き締める、誇り高い、心地よい「辛さ」と「旨味」の刺激が、追いかけてくる。

 

 暴力的なだけの辛さではない。これは、優しさに抱きしめられ、その魂を、完全に解き放たれた、炎パプリカの、本当の、喜びの歌声だった。

 

 その味が、ガルバスの、心の奥底に、硬く、何重にも封印していた、苦い記憶の扉を、容赦なく、こじ開けた。

 

――幼い頃、病気で、日に日に衰弱していく、最愛の妹の姿。

――何か、栄養のあるものを、と、必死の思いで、妹の口に運んだ、炎パプリカのかけら。

――それが、あまりにも辛すぎて、「いや、いや」と、泣きじゃくりながら、首を振る、妹の、悲しい顔。

――結局、妹は、何も食べられないまま、衰弱して……。

 

(……もしも)

 

 ガルバスの、心に、声にならない声が響く。

 

(もしも、あの時……俺が、この料理の作り方を、知っていたなら……)

(妹は、泣かずに、『おいしいね、お兄ちゃん』って、笑って、これを、食べてくれたんだろうか……)

 

 ポツリ。

 

 彼の、鬼のように険しい目から一筋の、熱い滴が、こぼれ落ちた。それは、単なる料理への感動の涙ではなかった。

 長年、自分を責め続け、心の奥底に封じ込めてきた、深い後悔と贖罪の念。

 

 そして、料理というものが持つ、本当に心を救うほどの偉大な力の前に完全にひれ伏した、一人の、不器用な男の、魂の涙だった。

 

 

 厨房にいた、誰もが、言葉を失っていた。涙を流すガルバスの姿に、彼がいかに、この一皿に、心を揺さぶられたかを、痛いほどに、理解していたからだ。

 

 やがて、我に返ったガルバスは、恥ずかしさから、カレンを、ぐっと睨みつけた。だが、その瞳には、もはや、一片の敵意も、侮蔑もなかった。

 彼は、ゆっくりと立ち上がると、カレンの前に、進み出た。そして、鬼人族の、最上級の敬意を表す作法に則り、その屈強な右腕の拳を、自らの胸に、強く、当てた。

 

 そして、深く、深く、その巨大な体を、折り曲げた。

 

「……さっきは罵って悪かった。俺が、間違っていた」

 

 その声は、震えていた。

 

「お前は……カレンは、本物の料理人だ」

 

 その瞬間、厨房を隔てていた、最後の、そして最も厚い氷の壁が、溶ける。ガルバスはカレンの料理を掲げると、厨房全体に響き渡る大音声で、こう宣言した。

 

「カレンに文句があるやつぁこの料理を食ってみな!炎パプリカの……なんだこれ」

「えっと、クリーミー・ディップ、かな?」

「炎パプリカのクリーミー・ディップだ!食ったら飛ぶぞ!」

 

 それなら、と厨房の他の魔物たちがわらわらと炎パプリカのディップを次々に口にする。すると、口にした者たちが次々に驚き、おののき、笑顔を浮かべていた。

 

 ボルグは、その光景を、遠くから、腕を組んだまま、静かに。

 

 しかし、その口元には確かな満足の笑みを浮かべて、見守っていた。

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