将軍ゼノンがもたらした「交渉決裂」という四文字は、魔王城の厨房を、希望の熱狂から、一瞬にして、絶対零度の沈黙と絶望へと叩き落とした。
さっきまで、共に笑い合っていた魔族の料理人たちは、皆、血の気の引いた顔で立ち尽くし、あるいは、力なくその場に座り込んでいた。
「くそっ……! なんだってんだよ!」
沈黙を破ったのは、鬼人ガルバスの、怒りと、そして、どうしようもない悔しさに満ちた叫びだった。彼は、その巨大な拳を、ゴッ、と、硬い石の調理台に叩きつけた。
「結局、俺たちの料理じゃ、何も……何も、変えられなかったってことかよ! 俺たちは料理で理解し合えたってのによ!玉座にふんぞり返ってる偉いさんたちは、昔の恨みつらみの方が大事だってのか!」
その言葉は、厨房にいる全員の、声にならない想いを代弁していた。ボルグ料理長でさえ、その巨大な腕を組み、悔しさに、その一本角を微かに震わせている。
だが、その、絶望の中心でカレンだけは、一人、違うものを見ていた。
彼女は、皆が飲み干した「魔界カレースープ」の、空になった大鍋の底を、燃えるような瞳で、じっと見つめていた。その鍋の底には、岩トカゲの赤い出汁と、人間界の野菜の黄金色の成分が、まだらに、しかし、確かに混じり合った跡が、美しい模様のように残っていた。
(……まだだ。まだ、終わっていない。私たちの答えは、ここにある)
カレンは、ゆっくりと顔を上げると、俯く仲間たちの顔を、一人一人、見回した。そして、静かに、しかし、その場の全員の魂を奮い立たせるような、凛とした声で、宣言した。
「いいえ、まだです。私たちの力は、こんなものじゃない」
彼女は、鍋の底に残った、二色のソースの跡を指さした。
「見てください。私たちが作ったこのスープ…。このカレーは、二つの世界が一つに溶け合った素晴らしい味でした。でも、王太子殿下と魔王陛下の心は、まだ、自分の国のこと、自分の過去のことでいっぱいいっぱいなんです。だから、一つの完成された味にして届けても、その本当の意味が、伝わらないと思います」
カレンは、厨房の中央へと、一歩、踏み出した。
「だから、私は賭けに出ます。二つの味を、一つにしてお出ししない。人間のカレーと、魔族のカレー。二つの魂を、そのままの形で、一つの皿に乗せるんです。まず、故郷の味で、彼らの心を、故郷へと帰してあげる。次に、隣人の味を知ってもらう。そして、最後に、彼らご自身の手で、その二つを、混ぜ合わせてもらう」
カレンは、仲間たちに、彼女が思い描いた、究極の一皿の構想を語った。皿の中央に、ライスを、二つの国を隔てる、巨大な壁のように盛り付ける。
「ダムカレー」。
その左右に、人間のカレーと、魔族のカレーを、それぞれ、ダム湖の水のように注ぐ。
「このライスのダムは、両国を隔ててきた、過去の壁です。ですが、その壁は、決して乗り越えられないものではない。スプーンという、平和の力で、王太子殿下と魔王陛下ご自身に、その壁を、崩してもらうんです……!」
それは、あまりにも大胆で、無謀で、そして、途方もなく詩的な構想だった。厨房にいた誰もが、息を呑み、カレンの言葉に聞き入っていた。絶望の闇の中にいた彼らの心に、その、あまりにも鮮烈な一皿のイメージが、唯一の、そして、あまりにも眩しい、希望の光となって、差し込んだ。
■
「……ククッ。クハハハハハッ!」
沈黙を破ったのは、ボルグの、腹の底からの、豪快な笑い声だった。
「面白い! 面白いじゃねえか、人間の小娘! ダムをスプーンで崩すだと!? 馬鹿馬鹿しいが最高だ! 乗ってやろうじゃねえか、お前の、その最後の博打に!」
ボルグは、巨大な肉切り包丁を手に取ると、鋼を打ち鳴らすように、高らかに叫んだ。
「お前ら、聞いたか! 夜明けまで、もう時間はないぞ! 今すぐ、持ち場につけ! 人生で、最高の仕事をして、歴史に、俺たちの名を刻んでやるんだ!!」
「「「オオオオオオオオッ!!」」」
厨房は、絶望の底から、一気に、決戦の熱狂へと、爆発した。夜明けまでの、数時間。二つの魂が奏でる、壮絶なコンチェルトの火蓋が、今、切って落とされた。
厨房は、完全に二つに分かれた。
右翼を担うのは、「チーム・魔」。ボルグとガルバスを筆頭に、魔族の料理人たちが、溶岩のかまどの前に陣取る。
左翼を担うのは、「チーム・人」。カレンを中心に、彼女の調理法を学んだ、若い魔族の料理人たちが、人間界から持ち込まれた調理器具を囲む。
「チーム・魔」の調理は、まさしく、大地の咆哮そのものだった。
ゴオオオオ、と、溶岩のかまどが唸りを上げる。ガルバスが、巨大な石槌を、まるで神話の雷神のように振りかざし、岩トカゲの硬い骨を、関節ごと、叩き潰していく! その、砕かれた骨が、煮えたぎる大鍋に投入されると、野性的な、血の匂いさえする、力強い出汁が、猛然と抽出されていった。
「ボルグ料理長、炎パプリカ、最高のやつが準備できました!」
「うむ! 躊躇するな、全て叩き込め!」
ボルグの檄と共に、山のような炎パプリカが、鍋の中に放り込まれる。鍋は、一瞬にして、地獄の釜のように、深紅に染まった。
「溶岩草を入れろ!」
「血晶石を砕け!」
ボルグの指示が、戦場の号令のように響き渡る。硫黄の香りがする「溶岩草」が、味に大地の力を、鉄の味がする「血晶石」が、ソースに、血のような深いコクを与える。
そして、最後に、ガルバスが、カレンから託された、「赤缶カレー粉パウダールウ」の缶を、まるで、聖なる儀式のように、両手で捧げ持った。
彼は、カレンに教わった通り、その黄金色の顆粒を、祈りを込めるように、深紅のソースの中に、振り入れた。
その瞬間、ただ荒々しいだけだったソースに、統率のとれた、王者のごとき、気品と、複雑な香りの調和が宿った。
■
対する「チーム・人」の調理は、静かで、繊細な、祈りのような協奏曲だった。
カレンは、オーギュストから贈られた、あのペティナイフを手に、一心不乱に、玉ねぎを刻んでいた。その切っ先は、彼女の指先と完全に一体化し、まるで、それ自体が意思を持っているかのように、踊る。彼女の目から、涙がこぼれるが、それが、玉ねぎのせいなのか、この極限状況への感極まりからなのか、誰にも分からなかった。
何時間も、何時間もかけて、完璧な飴色になるまで炒められた玉ねぎ。丁寧にソテーされ、旨味の全てを閉じ込められた鶏肉。湯むきされ、種を取り除かれ、甘みと酸味だけが凝縮されたトマト。
その、一つ一つ、慈しむように、丁寧に、時間をかけて作られた素材たちが、黄金色のブイヨンの中で、優しく手を取り合う。
そして、最後に、カレンが、たっぷりの「赤缶カレー粉パウダールウ」を加えた時、そのソースは、まるで、故郷の夕陽のように、どこまでも優しく、そして、心の奥深くまで染み渡るような、慈愛に満ちた、懐かしい香りを、放った。
彼女の調理を手伝っていた、若い魔族の料理人たちは、息を呑んで、その光景を見守っていた。力ではなく、時間と、手間と、そして、愛情をかけて、食材の魂を、ゆっくりと、解き放っていく。それは、彼らが、生まれて初めて目にする、魔法だった。
■
夜が明け、東の空が白み始めた、その時。
厨房の左右で、同時に、歓喜の声が上がった。
「――仕上がったぞッ!」
ボルグが、溶岩のかまどの火を止め、深紅のソースが煮える鍋を見下ろし、満足げに唸った。
「――こちらも、です!」
カレンもまた、黄金色のソースの鍋を火から下ろし、安堵の息をついた。
厨房の右翼と左翼に、二つの究極のソースが、まるで両国の王のように、誇り高く並び立つ。
片や、深紅の湯気を上げ、大地の力強い魂を宿した「魔のソース」。
片や、黄金色の湯気を上げ、優しさと慈愛に満ちた「人のソース」。
二つのソースは、まだ、混じり合ってはいない。
しかし、厨房に満ちる香りは、不思議な奇跡を起こしていた。野性的な魔の香りと、芳醇な人の香りが、決して反発することなく、互いを打ち消すことなく、まるで、美しい二重奏(デュエット)のように、完璧なハーモニーを奏でているのだ。
カレンは、二つの鍋を交互に見つめ、仲間たちに向かって、晴れやかな笑顔で言った。
「見てください。二つの魂は、無理に一つになる必要はないんです。それぞれが、それぞれのままで、最高の輝きを放ったまま、こうして隣で、手を取り合うことができる。それこそが、私たちの見つけた、本当の『融和』です」
ボルグも、ガルバスも、そして厨房の全員が、カレンの言葉に、そして、目の前の光景に、深く、頷いた。
カレンは、二つの鍋を見つめ、決意を込めて言った。
「行きましょう。この二つの魂を届けに」