エドワードに連れられてカレンが足を踏み入れたのは、貧民街の混沌とした活気とはまるで無縁の、静寂と秩序に支配された空間だった。
石造りの重厚な建物、磨き上げられた廊下、そして規則正しく並ぶ扉。ここは、この街の行政を司る役所の一角だった。
案内された部屋で待っていたのは、アルフレッドという名の行政官だった。年の頃は三十代半ばだろうか。目の下には消えることのない隈が刻まれ、積み上げられた書類の山を前に、その肩は重力に負けたかのように丸まっている。
彼の全身からは、規則と前例と終わらない事務処理に魂をすり減らした、一種の諦観にも似た疲労が漂っていた。
「エドワード殿、わざわざご足労いただき恐縮です。して、その子が例の……?」
アルフレッドの声は、紙のように乾いていて、感情の起伏が感じられない。彼はカレンを一瞥したが、その瞳に興味の色は浮かばなかった。ただの薄汚れた身なりの少女。エドワードほどの男が、なぜこんな子供を連れてきたのか。その視線は、雄弁にそう語っていた。
「アルフレッド様、百聞は一見にしかず、と申します。いや、この場合、百見は一食にしかず、ですかな」
エドワードはにやりと笑い、カレンに目配せをした。カレンは頷き、いつもよりはるかに立派な厨房を借りて、調理を始めた。今回は、エドワードが「投資だ」と言って用意してくれた、質の良い野菜と、わずかながらも新鮮な鶏肉がある。
やがて、役所の堅苦しい空気を揺るがすように、あの芳醇な香りが漂い始めた。書類のインクと古い紙の匂いしかしない部屋に、生命力に満ち溢れたスパイスの香りが侵入してくる。アルフレッドは、無意識にペンを止め、鼻をひくつかせた。彼の眉が、わずかにピクリと動く。
「……ほう、これは確かに……興味深い香りだ」
運ばれてきた一皿のカレーを前にしても、彼の態度はまだ冷静だった。だが、スプーンを手に取り、その一口を口に運んだ、まさにその瞬間。
アルフレッドの世界は、音を立てて崩壊し、そして再構築された。
彼の脳裏に、突如として鮮やかな光景がフラッシュバックした。それは、もう遠い昔に忘れてしまったはずの、幼い頃の記憶。冬の寒い日、暖炉の火がぱちぱちと燃える小さな家。学校から帰ると、いつも台所から漂ってきた、母の作る煮込み料理の、あの温かい匂い。
「あ……あ……」
アルフレッドの口から、意味をなさない声が漏れる。
一口、また一口とカレーを食べるごとに、彼の心は何層にも重なった分厚い氷が、バリバリと音を立てて溶けていくようだった。スパイスの刺激が、日々の業務で麻痺した神経を優しく呼び覚ます。じっくり煮込まれた野菜の甘みが、規則と罰則ばかりを追いかけてささくれ立った心に、じんわりと染み渡っていく。鶏肉の優しい旨味は、まるで「お疲れ様」と、彼の長年の労苦を労ってくれているかのようだった。
これは、ただの食事ではない。これは癒しだ。これは救済だ。
気づけば、アルフレッドの目から、大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちていた。
「母……さん……」
嗚咽と共に、彼の口からこぼれたのは、何年も呼んだことのなかった、最も原始的な愛情の対象の名だった。彼は、人目もはばからず、子供のように泣きじゃくりながら、一心不乱にカレーをかき込んだ。
日々の公務の厳しさも、人間関係の軋轢も、積み上げられた書類の絶望も、その一口ごとに、温かい記憶の彼方へと洗い流されていく。
「こ、これは……これは、まさに疲弊した魂への処方箋だ……! 荒んだ心に染み渡る、慈愛の味だッ!」
エドワードは満足げに頷き、完全に放心状態となっているアルフレッドの肩を叩いた。行政官の心をここまで溶かしたのだ。次なる舞台への道は、もう開かれたも同然だった。
■
数日後、カレンとエドワードは、街で最も壮麗な屋敷の前に立っていた。この地域の有力貴族、リヒター伯爵の館である。アルフレッドが、その職権と感動のあまりの熱意で、この謁見を取り付けたのだ。
通された饗宴の間は、カレンがこれまで見てきたどんな光景よりも、眩い光に満ちていた。天井からは巨大な水晶のシャンデリアが吊り下がり、壁には見事な絵画が飾られ、磨き上げられたテーブルには、純銀の食器とクリスタルのグラスが寸分の狂いもなく並べられている。
そこに集うのは、リヒター伯爵をはじめとした、絹やビロードの華やかな衣装に身を包んだ貴族たちだ。彼らは、エドワードには儀礼的な挨拶をしたが、その隣に立つ小さな少女、カレンには、あからさまに侮蔑と好奇の入り混じった視線を向けていた。
「あれが、アルフレッド様が『奇跡の料理人』と絶賛していた子供か。冗談も休み休み言ってもらいたいものだ」
「エドワード殿も、とうとう耄碌されたか。貧民街の煮込み料理を、我々の食卓に乗せるなどと……」
そんな囁き声が、カレンの耳にも届く。だが、彼女は動じなかった。これから、その歪んだプライドを、自慢の舌ごと根こそぎひっくり返してやるのだから。
まずカレンが用意したものは、基本の赤缶カレー。ただし、具材はリヒター伯爵の厨房にあった、最高級の野菜と地鶏を使った特別仕様だ。
カレーがテーブルに運ばれた瞬間、あれほどカレンを侮っていた貴族たちの間に、ざわめきが走った。
「なっ……なんだ、この芳香は!?」
「我が家の料理長が使うどんな香辛料とも違う……! 脳髄を直接揺さぶるような、野蛮で、それでいて抗いがたいほど高貴な香りだ!」
彼らはまだ懐疑的な表情を崩さずに、しかし、その手は正直だった。銀のスプーンを手に取り、恐る恐る、あるいは好奇心たっぷりに、カレーを一口、口に運ぶ。
――そして、饗宴の間に、地殻変動が起きた。
「なッ……んんんんんんんんんんんん!!??」
ある者は、椅子から飛び上がった。
ある者は、あまりの衝撃にスプーンを取り落とし、カラン、と甲高い音を立てた。
ある者は、目をカッと見開いたまま、彫像のように固まった。
「美味いッ! ば、馬鹿な、美味すぎるッ! なんだこの味の洪水は! スパイスの津波が舌の上で荒れ狂っているようだ!」
「私の、私の三百年の歴史を持つグルメの血統が、この一皿にひれ伏している……! 屈辱だ! だが、しかし……恍惚ッ!」
貴族たちのエリート意識と美食家としてのプライドが、カレーの圧倒的な暴力の前に、木っ端微塵に砕け散っていく。
カレンは、その熱狂の光景を冷静に見つめながら、心の中で次なる一手を準備していた。彼らが最初の衝撃から立ち直りかけた、その時だった。
カレンの右の掌が、再び、しかしこれまでとは違う、より重厚な熱を帯びた。
(赤缶とは違う感じがする……。なんだろう?)
光の粒子が渦を巻き、掌に現れたのは、見慣れた赤缶ではなかった。深い茶色を基調とした、高級感あふれるシックなデザイン。そこに刻まれていたのは、「S&B 濃厚好きのごちそう 熟成デミグラスの濃厚ビーフシチュー」の文字。
これだ。
「あの、ご好評いただきありがとうございます。もう一皿作ろうと思うのですが、よろしいですか?」
「おお、おお!まだあるのか!ぜひ作ってくれたまえ!」
カレンは、貴族たちの目の前で、新たに用意された鍋に、最高級の牛肉と赤ワイン、そしてこの「ビーフシチューのルー」を投入し、さらに隠し味として、少量の赤缶カレー粉を加えた。
デミグラスソースの、どこまでも深く、濃厚な香ばしい香りと、カレー粉の鮮烈なスパイスの香りが融合し、もはや「香り」という概念を超えた、一種の魔術的なオーラとなって饗宴の間を満たしていく。
そして、第二の皿が、貴族たちの前に置かれた。それは、先ほどのカレーよりもさらに深い、艶やかな漆黒に近い褐色をしていた。
「こ、今度はなんだ……!? この、悪魔的で、官能的な香りは……!?」
リヒター伯爵が、震える手でスプーンを口に運ぶ。
その瞬間、彼の脳は理解を拒絶した。
口の中に広がるのは、もはや味ではない。それは歴史。それは宇宙。じっくりと煮込まれ、繊維の一本一本が旨味の爆弾と化した牛肉。何種類もの野菜と果実が溶け込み、熟成されたデミグラスソースの、無限とも思えるコクと深み。そして、その後ろで全てを支配するように君臨する、鮮烈なスパイスの魂。
「お……おお……おおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉッッッ!!!」
リヒター伯爵は、叫びと共に椅子から転げ落ちた。彼は床に四つん這いになり、滂沱の涙を流しながら、天を仰いだ。
「理性が、溶ける……! 私の美食家としての人生は、この一皿を食べるための、長大な前フリに過ぎなかったのだッ! 我が生涯に、一片の悔いなしッ!!」
他の貴族たちの阿鼻叫喚は、もはや筆舌に尽くしがたい。
「だめだ! もう我慢できん! 行儀など知るか! その鍋を! 鍋ごとよこせぇぇぇ!」
「ああ、マリア様……私は今、天国の味を知ってしまいました……もう、これ以下のものを口にして生きることはできません……!」
「伯爵! この少女は、我が国の至宝ですぞ! いや、もはや人間国宝! 城壁で囲い、門外不出の存在として、未来永劫保護するべきですッ!」
気取っていた貴婦人たちは淑女の仮面を脱ぎ捨て、皿に顔をうずめて貪り食い、厳格な騎士たちは、お代わりを求めて見苦しい争奪戦を繰り広げている。饗宴の間は、熱狂と恍惚が渦巻く、カオスそのものと化していた。
やがて、我に返ったリヒター伯爵は、カレンの前に恭しく跪いた。その瞳には、もはや侮蔑の色はなく、神託の巫女を見るかのような、純粋な畏敬の念だけが宿っていた。
「カレン殿……。君は、神だ。このリヒター、生涯をかけて君に仕えよう。ついては、この奇跡の御業、ぜひとも我が君、レオンハルト領主様にもご披露願いたい! 必ずや、お気に召すはずだ!」
貧民街の路地裏から始まった少女の伝説は、行政官の心を癒し、貴族たちのプライドを粉砕し、ついに、この地を治める最高権力者の元へと、その歩を進めようとしていた。
■
目の前で巻き起こる事を、どこか他人事のように眺めながら、カレンはしみじみと思う。
エスビーってすげー。