赤缶カレー粉と少女の冒険   作:灯火011

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第8話:王都からの誘いとカレンの葛藤

「赤缶亭」の日常は、幸福そのものだった。

 

 朝、カレンが厨房に立つと、右腕のマルコが完璧に下ごしらえを終えた食材を並べ、ホールではゴードンが仲間たちとテーブルセッティングに勤しんでいる。店の外からは、開店を待ちわびる客たちの、賑やかで楽しげな声が聞こえてくる。

 

 太陽が空高く昇る頃には、店は人間と魔族が入り混じる、混沌として、しかし奇跡のように調和のとれた空間と化す。

 

 激辛カレーに挑む傭兵の隣で、エルフの親子がハヤシライスに舌鼓を打つ。

 

 ドワーフの職人が、仕事仲間とカレーを肴に昼間からエールを煽る。

 

 その全てが、カレンにとっては宝物のような、守りたい日常の風景だった。

 

 

 ある日、完璧なほどに幸福な均衡が、破られる日が来た。

 

 その日、「赤缶亭」の前に現れたのは、客の行列ではなかった。それは、竜の紋章を黄金の刺繍で施した、壮麗な一台の馬車。

 

 四頭の純白の馬に引かれたその馬車から降り立ったのは、王室近衛騎士の礼装に身を包んだ、厳格な顔つきの使者だった。

 

 街の喧騒が、水を打ったように静まり返る。

 

 誰もが道を開け、畏敬の念と共に頭を垂れた。王都から、それも王家の使者が、なぜこんな辺境の街の、一介の食堂に?

 

 使者は、長大な行列には目もくれず、まっすぐに「赤缶亭」の扉を開けた。そして、店内にいた全ての者の視線が突き刺さる中、彼はカレンの前に進み出ると、恭しく片膝をつき、ビロードの布に包まれた、一通の羊皮紙の巻物を差し出した。

 

「カレン殿におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げます。国王陛下の名において、勅令をお伝えいたします」

 

 その声は、店の隅々にまで朗々と響き渡った。

 

 エドワードが、震える手でその巻物を受け取り、広げる。そこに記されていたのは、流麗な筆致で綴られた、拒否権のない命令だった。

 

『来る建国記念祭において、王都で開催される祝賀の宴。その席で、その「奇跡の料理」を披露し、王侯貴族、並びに諸外国からの賓客をもてなすべし――。』

 

 それは、料理人として、この国で望みうる最高の栄誉だった。路地裏の乞食だった少女が、国王陛下の御前に立つ。まさに、おとぎ話のクライマックスのようなお誘いだ。

 

「すっげえ……! カレンさん、王様の前で料理するのかよ!」

 

「やったじゃないか、カレン!」

 

 マルコやリックたちが、最初は子供のようにはしゃいだ。だが、彼らはすぐに気づく。カレンが、少しも嬉しそうな顔をしていないことに。そして、その事実が何を意味するのかを。

 

 カレンは、豪華絢爛な招待状と、仲間たちの顔を、交互に、ただ黙って見つめていた。

 

 

 その夜、カレンは一人、眠れずにいた。

 

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った厨房に立ち、磨き上げられた寸胴鍋や、整然と並んだスパイスの瓶を、ぼんやりと眺める。一つ一つに、仲間たちとの思い出が染み付いていた。ゴードンがピカピカに磨いてくれたカウンター。マルコが、自分の背に合わせて作ってくれた踏み台。リックが、交渉の末に安く仕入れてきてくれた、お気に入りの香草。

 

 ここは、ただの職場ではない。

 

 ここは、カレンが、この世界で初めて手に入れた、温かい「居場所」だった。

 

 前世の記憶が、不意に蘇る。孤独だった、中年男性の記憶。狭いアパートの部屋で、一人分の食事を作り、一人でテレビを見ながら食べる。誕生日も、クリスマスも、正月も、誰かと食卓を囲むことなどなかった。会社では歯車の一つとして扱われ、心を許せる友も、帰りを待つ家族もいなかった。

 

 あの頃の自分には、失うものなど何もなかったが、同時に、守りたいものも、何一つとしてなかった。

 

(でも、今は……)

 

 今は、違う。

 

 私には、この店がある。

 

「カレンさん」と、慕ってくれる仲間たちがいる。

 

 私の作るカレーを、「美味しい」と、笑顔で食べてくれる人たちが、こんなにたくさんいる。

 

 王都へ行く?

 

 それは、この全てを、一度手放すということだ。

 

 もちろん、料理人としての血が騒がないわけではない。王都。王宮の厨房。国王陛下の舌。自分の力が、どこまで通用するのか試してみたい。その挑戦は、抗いがたいほどに魅力的だった。

 

 その、カレンの心の揺らぎを見透かしたかのように、彼女の掌が、じわりと新たな熱を帯び始めた。

 

 光の粒子が、これまで以上に強く、そして高貴な輝きを放ちながら集束していく。やがて、彼女の手に現れたのは、二つの、見慣れないパッケージだった。

 

 一つは、太陽の光を凝縮したかのような、鮮やかな黄金色の箱。「S&B GOLDEN CURRY 芳醇な香りのチキンカレーパウダールウ」。

 もう一つもまた、同じ黄金色を基調としながらも、より濃厚な情熱を感じさせるデザイン。「S&B GOLDEN CURRY 濃厚な旨みのキーマカレーパウダールウ」。

 

 ゴールデンカレー……。

 

 その名前だけで、カレンはゴクリと喉を鳴らした。それは、赤缶とはまた違う、より洗練され、より完成された、スパイスの王者の風格を漂わせていた。

 

(チキンカレー……爽やかなスパイスと、鶏の旨味が織りなす、軽やかでいて奥深い味……)

 

(キーマカレー……幾種類もの挽肉と野菜を煮詰めた、濃厚で、複雑な旨味の塊……)

 

 新しい味のヴィジョンが、脳内で爆発的に広がる。試したい。作りたい。この新しい力で、まだ誰も知らない、至高の一皿を生み出してみたい。料理人としての飽くなき探究心が、彼女の冒険心を激しくくすぐる。

 

 だが、その強い欲求と同時に、胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 

(こんな、すごい力を手に入れても……)

 

 この新しいカレーを、最初に食べさせたいのは誰だろう?

 

 王様か? 貴族か?

 

 違う。

 

 最初に食べさせたいのは、マルコや、ゴードンや、いつもの常連客たちだ。彼らの、「うまい!」という笑顔が見たいのだ。

 

 王都へ行けば、名誉と、さらなる成功が待っているかもしれない。

 

 でも、ここにいれば、幸福がある。

 

 カレンは、二つの黄金の箱を、ぎゅっと握りしめた。その輝きは、輝かしい未来への招待状のようでもあり、同時に、今の幸福な日常から彼女を引き剥がそうとする、甘い罠のようにも思えた。

 

「どうすれば、いいの……?」

 

 窓の外では、月が静かに街を照らしている。

 

 王都への出発日は、刻一刻と迫ってくる。しかし、カレンの心の中の天秤は、激しく揺れ動いたまま、答えを出すことができずにいた。

 

 それは、彼女一人で出すには、あまりにも重い決断だった。

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