《偽りに抗う剣》―Re:ゼロ外伝   作:ハラカナ

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運命は、まだ知らない

 あのとき俺は、何も語らなかった。

 

 名さえ名乗らず、ただ泣き叫ぶことしかできなかった。

 傷だらけで、何も守れなくて、目の前にあったのは死と絶望だけ。

 

 それでも――あの方は、俺を見捨てなかった。

 

 覚えているのは、紅い月と、銀に煌めく剣閃。

 気がつけば、俺はその背に守られていた。

 あれが、運命の始まりだった。

 出会いは、闇の中。

 けれど、それでも確かに光は射していた。

 どんなに手を伸ばしても届かないと思っていた光が、あの日、初めて俺の目の前に降りてきた。

 だから、あの日のことを俺は忘れない。

 それがすべての始まりであり、終わりでもあるからだ。

 

 俺の名は、アレク――

 いや、違うな。本当の名は……

 ……それは、まだ語るには早すぎる。

 

 すべてを語るには、あまりにも多くのことがあった。

 けれど、始まりを忘れたことは一度もない。

 だからこそ、今ここで語ろう。

 俺が、どうして“ここ”に辿り着いたのか。

 どこから歪み始め、何を失い、誰と出会ったのか。

 

 それは、あの夜から始まった。

 

 

 

 

 

 

 ひとつの夢を、何度も見る。

 真っ赤な空。焼け焦げた匂い。裂けるような悲鳴と、誰かの腕の中で感じた温もり。

 けれど、それが誰だったのかは思い出せない。いつも、思い出そうとするたびに、喉の奥に小石を詰められたような息苦しさだけが残る。

 森の匂いに包まれて目を覚ました。ざらついた毛布の感触と、まだ幼い手のひらに伝う冷たさ。くしゃりと身じろぎすれば、乱れた金色の短髪が額にかかる。目を開けば、深い赤の瞳が朝の光を受けて鈍く瞬いた。

 年相応の体格に、粗末なシャツと布ズボン。

 かつて貴族の家柄だったとは思えぬ、質素な装い。

 けれどそれが、この家の“現実“だった。

 遠くから鳥のさえずりが聞こえ、天幕の向こうで揺れる光が朝を告げている。

 

 ……また、夢を見ていた。

 

 もう何度目か分からない。あの夢は、現実か幻かも分からないまま、いつも同じ情景を繰り返す。

 少年は、森の番人として生まれ育った。名もなき辺境の一族──そう教えられた。だがその役目は、名誉などとは程遠い。

 

 ゾアの森。〈魔獣〉の巣窟。

 

 この森の奥には、地上に災厄を撒き散らす獣たちが潜んでいる。彼らが封じられていられるのは、この森を人の手で監視しているからに他ならない。

 だが、その役目は進んで買ったものではない。はるか昔、地業革命の頃──今のルグニカ王国の枠組みが成立する前、世界が力によって再構築された時代。

 

 オディウス家は、ある選択を迫られた。

 

 王国の建設に貢献したはずだった。

 だが、旧き同盟者たちに裏切られ、貴族の資格を奪われる。

 降りかかった災いを回避する術は、ただひとつ──危険な森の番を引き受け、見せしめとして残ることだけだった。

 

 オディウス──その名を、少年はまだ重たく感じる。誇りよりも、責務の重さと、誰にも顧みられぬ宿命の象徴として。

 

 その日も、彼は見回りの手伝いとして森の縁を歩いていた。小柄な体にはまだ剣も似合わず、いつも大人たちの後ろを小走りに追いかけていた。

 

「アレクは、森の風を読むのが得意だな」

 

 ふと、父が振り返って微笑んだ──と、思った。けれどその表情はすぐに陰りに変わった。

 

 ──風の流れが、変わった。

 

 空気が重くなる。森の奥から、何かがこちらを睨みつけているような感覚が全身を走った。背筋が、冷える。

 

「下がっていろ」

 

 父の声が低く響き、彼の前に立ちはだかった。その瞬間、森の奥から、黒い影が跳び出した。

 

 魔獣。

 

 獣とは呼べぬ異形。牙も、爪も、肌も、常識からかけ離れた凶悪な存在。父は剣を構え、間合いを詰めた。

 

 だが、その瞬間──世界が割れた。そんな錯覚に、幼い彼の心は囚われた。

 目の前で交差する剣閃と咆哮。唸る風が地を這い、鋭利な爪が土を抉る。森の奥、家の外では、父が巨大な魔獣と対峙していた。背を反らし、腕を振るい、空間そのものを切り裂くような斬撃――それが、オディウスの戦士としての矜持だった。

 

 しかし、その斬撃が――途切れた。

 

 父の動きが鈍ったのがわかった。いや、アレクには“視えてしまった”のだ。未来に起こるはずの、その一瞬の躓きと敗北が。まるで悪夢が先回りして告げてくるように。

 

「……ッ、ぐ、ああああッ!」

 

 父が膝をつく。魔獣の爪がその肩口を裂いた。返す剣が届かない。その剣が震えている。力が抜けている。

 次の瞬間、声が響いた。

 

「加護が……移った……? まさか、こんな時に――!」

 

 それは、明らかに父のものだった。血を吐きながら、後方を見て――つまり、アレクの方を見ていた。痛みではなく、恐怖と焦燥が混ざった声音だった。

 

「くっ……お前に、今……加護が……!」

 

 言葉にならないまま、父は魔獣の爪を受けた。そして倒れた。

 その場に崩れ落ちる父の姿を、アレクはただ呆然と見ていた。何が起きたのか、理解が追いつかない。けれど、視界の隅に映る“予兆”だけは、はっきりと心を抉っていた。

 

 未来が――視える。

 

 それは、オディウスの血が引き継ぐ加護。先代から代々受け継がれる、忌むべき予見の力。

 

 《先見の加護》。

 

 戦場において、敵の一瞬先の動きを“見る”ことができる力。剣戟の間合い、狙い、重心の移動、殺意の揺れ――戦士が戦士として死を回避するための“先の情報”を、加護はもたらす。

 

 だが――それは、扱いを誤れば自らの認識を壊す、諸刃の剣でもあった。

 

 格上の相手であればあるほど、視える未来は“複数”となって分岐する。攻撃の角度、間合い、選択肢――それらが一度に重なって押し寄せれば、思考は混乱し、身体は硬直し、結果として死が訪れる。

 

 それは、あの《剣聖の加護》――“常に最適な一手”を導く絶対の力とは異なる。あちらが「正解を示す神の導き」なら、こちらは「正解のない混沌」だ。一歩踏み出せば、無数の分岐が押し寄せ、正しさなど誰にも分からなくなる。

 

 そして今、幼い彼には――それを扱う術など、ない。

 

「こわい……」

 

 ただ、そう呟いた。

 

 視界の中で、魔獣が動く。家の扉が吹き飛ぶ。叫び声が響く。家族の声だ。剣が折れる音がする。誰かが斬られた。血が、悲鳴が、未来が――

 

「やめて……視たくない……!」

 

 視界を覆い隠そうとした手のひらにまで、未来が張り付いてくる。魔獣の咆哮。家が崩れる。命が、散る。

 なのに、身体は動かない。恐怖に凍りついたまま、アレクは――膝から崩れ落ちた。

 視界が揺れ、地面が近づく。小さな手が泥に触れ、震えが止まらない。力が入らない。頭では理解しきれないのに、心だけが「すべてが終わる」と告げていた。

 

 それが、自分に託された力だというのに。

 

 それが、自分の無力を突きつける力だというのに。

 

 アレクは、崩れ落ちたまま、ただ涙を流すしかなかった。

 

 ◇

 

 命が落ちる音は、意外なほど静かだった。

 折れた剣が転がる音よりも、骨が砕ける音よりも、ずっと。

 家族の誰かが倒れるたび、アレクの中で何かがひとつずつ崩れていった。

 

 母が、兄が、姉が――。

 

 その手が、背が、声が、次々と彼を守るために魔獣の前に立ち、そして、倒れていく。

 止めてと叫んでも、足が動かなかった。

 立ち上がって何かをしようとしても、加護が見せる未来の残像が、何本もの絶望を突きつけてくる。

 どの道も死に至ると、告げていた。

 

 気づけば、膝が地をついていた。

 血と泥にまみれた手を、ただ見つめることしかできない。

 加護を持っていても、なにもできなかった。

 

 最後の一人になった。

 

 気配は残っていた。獣の吐息と、湿った地を踏み鳴らす音が、すぐそこにある。

 

 アレクは目を閉じた。

 逃げ場はどこにもなかった。

 こんなにも怖いのに、どこかで安堵していた。

 これでようやく終わる。

 もう、頑張らなくていい。

 また、みんなに会える。

 

 光が、閃いた。

 

 目を閉じていたはずなのに、まぶたの裏が紅く染まった。

 獣のうなりが止まる。

 風が走り、刃が鳴る音が、耳を撃った。

 開いた目の前には、紅の残光が残っていた。

 斬られた魔獣の体が崩れ、血の霧が舞う。

 さらに一閃、また一閃。

 紅の軌跡が月のように弧を描いては、戦場を描くように走り、すべての魔獣が消えていった。

 

 何が起きたのか、理解が追いつかなかった。

 ただ、静けさだけが残った。

 

 そこにいたのは、ひとりの男だった。

 紅い剣を下げ、鋼のような気配をまとう青年。

 その眼差しは、冷たいほどに澄んでいたが、敵意はなかった。

 

 「立てるか」

 

 その声が届いたとき、アレクは震えたまま、答えることができなかった。

 恐怖が、安堵が、言葉を奪っていた。

 男はそれ以上何も言わず、ただ手を差し伸べていた。

 まるで、それが当然のことのように。

 アレクは、わずかに手を伸ばし――だが、触れる前に、力が抜けて、その場に座り込む。

 地に着いた掌に伝わる冷たさが、現実のすべてだった。

 

 「……お前は、まだ生きている」

 

 紅の剣を持つ男が静かに告げたその言葉は、焼け跡に残された唯一の光のように、アレクの胸に残った。

 彼の名は、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。すでに“剣鬼”の異名で知られ、アストレア家に婿入りした凄腕の剣士ということをアレクが知るのはまだ先のことだった。

 

 

 

 

 しばらくして、アレクは焚き火の明かりの中で目を覚ました。

 濡れた布が額に乗っていた。包帯で巻かれた腕と足が重たい。けれど、動けないほどではない。

 焚き火の向こうに、あの紅の剣を持つ男が座っていた。

 男は何も言わなかった。ただ剣を手入れしながら、炎の揺れをじっと見ている。

 アレクは、口を開いた。

 

「……助けてなんて、頼んでない」

 

 言葉を発した途端、胸の奥が熱くなった。顔を背ける。泣きたくなんかないのに、瞼の奥がじんとする。

 

「俺が……俺が、あんな加護なんて持ってなければ……! 余計なもの、もらったから……みんな……!」

 

 声が震えていた。怒りでも悲しみでもない、どうしようもない幼い理不尽。

 そのすべてを、ぶつける相手がいなくて、目の前の男に投げつけるしかなかった。

 ヴィルヘルムは、静かにアレクを見ていた。やがて、焚き火に細い枝をくべる。

 

「それでも、お前は生き残った」

 

 淡々とした声だった。

 

「理由もなく加護は移らない。選ばれたことが、苦しいかもしれない。だが、選ばれた以上、意味はある」

 

「意味なんか、いらない……!」

 

 泣き声に似た声が、炎の中に吸い込まれた。

 

「俺は、ただ家族を守りたかっただけなのに……! なにもできなかったのに……!」

 

 ヴィルヘルムは何も言わず、立ち上がった。そして、アレクの傍に置かれていた水筒を差し出す。

 

「喉が渇くだろう」

 

 その言葉に、アレクは顔を上げることもできなかった。けれど、震える手で水筒を受け取る。

 中の水が、妙に温かく感じた。

 すぐには立ち上がれない。涙は止まらない。けれど、その温度が少しだけ、胸の奥に残っていた。

 その夜、アレクは眠れなかった。

 けれど、ただひとつだけ思った。

 

 ――あの人の背中は、怖くなかった。

 

 

 

 

 森を抜けるまでの道のりは、長く、静かだった。

 アレクは無言のまま、剣を背にした男――剣鬼ヴィルヘルムの背を追って歩き続ける。

 木々の間をすり抜ける冷たい風と、足元に積もる落ち葉の感触が、やけに現実味を帯びていた。

 いつの間にか空は明るみはじめ、東の空が紅く染まりつつある。

 それが夜明けの兆しだと気づくのに、少し時間がかかった。どれだけの時間が経ったのか、もうわからない。

 しばらくして、ヴィルヘルムの足が止まった。振り返ることなく、低く問いかける。

 

「なぜ、ついてくる」

 

 その問いに、アレクは立ち止まった。

 答えようとして、口がうまく動かない。

 何も考えていなかった。ただ、気づけば歩いていた。どこへ向かうのかも、自分がどうしたいのかも、はっきりしていなかった。

 

「……どこにも、行く場所がないから」

 

「それだけか」

 

「……俺のせいで、家族は……守れなかったのに……」

 

 吐き出すような声とともに、アレクはその場にしゃがみこんだ。

 膝に手をつき、うつむく。

 悔しさも、無力感も、怒りも、全てが混ざり合って、自分の中で押しつぶされそうだった。

 ヴィルヘルムは、しばらくアレクを見下ろしていたが、やがて静かに言った。

 

「ならば立て」

 

 短く、それだけの言葉。

 けれど、その声は、剣のように真っすぐだった。

 アレクは顔を上げる。まだ震える足で、ゆっくりと立ち上がった。

 目の奥に、消えない涙と、燃えるような決意が宿っていた。

 ヴィルヘルムは言葉を継ぐことなく、再び歩き出す。

 アレクもまた、その背を追いかけるように一歩を踏み出した。

 森の出口が、近づいている。

 視界の先に、朝陽が差し込んでいた。

 その光を前にして、アレクはそっと呟く。

 

「――俺、強くなる。……絶対に」

 

 その声に、返事はなかった。

 けれど背中を向けたまま歩く剣鬼の肩が、どこか頼もしく見えた。

 それが、アレクにとって最初の一歩だった。

 そして、アストレア家へと続く道の始まりでもあった。

 

 

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