そしてその先に、第二の運命が待っていた。
灰色の空が、東の地平から朱がにじみはじめたころだった。
ヴィルヘルムに連れられ、アレクは小高い丘を越えた先の屋敷を目にした。深い森の木々に囲まれた石造りの邸宅。無駄のない造形ながら、随所に丁寧な手入れが施されているのが見て取れる。風にそよぐ旗には、二振りの剣が交差する紋章が描かれていた。
「ねえ……ここは……?」
思わず尋ねるアレクに、隣を歩くヴィルヘルムが足を止めて言う。
「アストレア家だ。お前が今後、身を置く場所になる」
アレクはその名を、まるで何かが心の奥に響くように反芻する。
「……ここが、アストレア家……」
アレクは思わず小さく呟いた。長く戦場を支え、歴代の“剣聖”を輩出してきた名門。その名は、幼い頃から父に何度も聞かされていた。そして心の奥に、緊張とは違う、小さな灯のような期待がわき上がっていた。もはや戻る場所はないのだと、あの森で痛いほど知った。だからこそ、この地で自分が何を成すべきかを、彼は模索していた。
屋敷の門が開き、その中から紅い髪の女性とその息子と思しき少年が現れた。
少年はアレクと同じくらいの年頃で、やや不機嫌そうに眉をひそめているが、その目には真っ直ぐな光が宿っている。隣に立つ女性――剣は帯びていない。それでも、ただそこに立つだけで空気が変わるような気配があった。中でも、その凛とした立ち姿には、気高さと包み込むような温もりが同居していた。
アレクは言葉を忘れ、思わず見上げる。ヴィルヘルムはそんなアレクの様子を一瞥し、女性に向き直る。
「こいつを、ここに連れてきた。魔獣退治の任務で森に入ったとき、偶然見つけた。素性まではわからないが、それでもここへ来るべきだと思った」
ヴィルヘルムの言葉を聞いた女性は、静かに目を伏せると、一瞬だけ厳しい光を宿した眼差しをアレクへと向けた。
それは見透かすようでもあり、同時に、痛みを知る者にだけ向けられる慈しみの色を帯びていた。
「……そう。あの森で……独りで?」
小さくつぶやいた声には、驚きよりも、胸の奥を締めつけるような悲しみが滲んでいた。
アレクは、その問いに答えようにも言葉が出なかった。
それもそのはず。
なにせ、あのような災難がまだ幼いアレクの目の前で起きたのだから。
そんなアレクを見て、唯一状況を知っているヴィルヘルムが女性へ静かに首を横に振る。
女性は一瞬目を見開くが、すぐ穏やかな表情になり、アレクを見つめ直すと静かに問いかける。
「名前は?」
ヴィルヘルムが振り返って、アレクを見る。
「……そういえば、お前の名前を聞いてなかったな。言えるか?」
アレクは少し乱れた呼吸を整え、一歩前に出ると、深く頭を下げて答えた。
「アレクと申します。……未熟者ですが、よろしくお願いします」
女性はその名を胸の内で繰り返すように目を細め、そしてそっとしゃがんでアレクと目を合わせた。紅い髪が肩から流れ落ちる。ふわりと香る風に、アレクの背筋が自然と伸びた。
「私はテレシア。これからは、ここがあなたの居場所よ。安心していいのよ、アレク」
その優しい声に、アレクの胸の奥が小さく震えた。
隣にいた少年――ハインケルが、ぽつりとつぶやく。
「……母さん、この子、本当にここに住むの?」
その声は、問いかけというより確認に近かった。
テレシアは息子に目を向け、肩に手を置いて柔らかく微笑んだ。
「そうなるかもしれないわね。でも――だからこそ、あなたの目で見て、判断してごらんなさい」
ハインケルは納得しかねる表情でアレクを見たが、それ以上は何も言わなかった。
その様子を静かに見守っていたヴィルヘルムが、ふと口を開く。
「……こいつは、昔の俺に少し似ている。何も見えなくなって、それでも――踏みとどまった。俺は、それを否定できなかった」
静かな語り口の中に、重みがあった。
「だから、ついて来るのも止めなかった。そういうことだ」
アレクは静かに、再び頭を下げた。
その瞳にはまだ迷いが残っていたが、かすかに――ほんのわずかに、光が宿っていた。
◇
その日、アレクは屋敷の中庭で剣の稽古を見ていた。
剣を振るう音。踏み込む足音。ヴィルヘルムの叱咤する声に、それに応える若者の息遣い。
アレクは柱の陰からそっとその様子を覗いていた。あの背中を憧れのように、目標のように。
そこへ――ふいに背後から、やわらかな声がした。
「アレク、少し時間はあるかしら?」
「は、はい!」
思わず背筋を伸ばすアレクに、テレシアは微笑みながら言った。
「お風呂を用意させたの。ゆっくり温まって、それから新しい服に着替えましょう。……それ、今まで着ていた服でしょう?」
アレクははっとして、自分の服に視線を落とした。
ぼろぼろではない。けれど、明らかに場違いだった。粗末なシャツと、色の抜けた布ズボン。亡き母が毎日縫い直してくれたものだ。そう気づいた瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。
「……すみません、こんな格好で……」
「謝ることなんてないわ。それはあなたがここに来るまでの証なんでしょう?」
テレシアの声はやわらかかった。
その一言に、アレクは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ありがとう、ございます……」
その夜、アレクは久しぶりに湯船に身を沈めた。
湯気が頬に触れる。瞼を閉じれば、静寂の中に聞こえるのは、波打つ水音と自分の呼吸だけだった。
服を脱いだときに気づいた、腕や足に刻まれた擦り傷やあざ。森での逃亡と恐怖の名残は、湯の中でも消えはしなかった。
それでも――このぬくもりが、どれほど遠いものだったかを、今のアレクは知っていた。
湯から上がると、新しい服が用意されていた。きっとアストレア家の使用人が整えてくれたのだろう。淡い茶色の上着に、濃い灰色のズボン。質素だが清潔で、どこか落ち着く色合いだった。
袖を通すと、自分が少しだけ別人になったような、不思議な感覚が胸をよぎった。
鏡に映る自分の姿を、アレクはしばし見つめる。
――ここが、俺の居場所になるのか。
まだ実感はない。けれど、そうなればいいと、そう願っている自分がいることに気づいた。
◇
アレクはアストレア家の使用人から居間に案内されると、すでにテーブルには夕食が並べられていた。
焼いた魚とスープ、それに香草のサラダ。質素ながら、温かみのある料理だった。
テレシアがにこやかに手招きしてくれる。アレクはおそるおそる椅子に座った。
「食べられそう?」
「……はい」
そう答えたものの、スプーンを持つ手が少しだけ震えていた。
森での逃亡中は、まともな食事などほとんど口にしていなかったからだ。
テレシアは何も言わず、ただ穏やかに微笑んでいた。
一方でハインケルは、アレクの向かい側に座りながらも一言も話さなかった。
ときおりちらとアレクを見るが、すぐに視線をそらす。
沈黙のまま食事は進んだが、料理はどれも温かく、口に運ぶたびに身体がほぐれていくようだった。
そのときだった。
スープの皿を空にした瞬間、ぽたり、と一滴、熱い雫が落ちた。
自分のものだと気づくのに、少し時間がかかった。
何かを思い出したわけでも、誰かの言葉に胸を打たれたわけでもない。ただ、ぬくもりに包まれたその瞬間、ずっと張り詰めていた何かが切れた。
こんな風に、誰かと向かい合って、食事をすること。
温かいものを口にできること。
――それだけで、こんなにも涙が出るのか。
慌てて袖でぬぐうと、テレシアがふとこちらを見た気がして、アレクは急いで顔を伏せた。
彼女が何か言おうとした気配があったが、言葉にはならなかった。
やがてアレクの皿が空になり、そっと手を膝に置いたとき、テレシアが静かに言った。
「たくさん食べてくれて、うれしいわ。……お風呂も入ったし、今日はよく眠れるといいわね」
その言葉に、アレクは小さくうなずいた。
部屋に戻ると、ベッドにはふかふかの布団が敷かれていた。
白く清潔な寝具は、まるで触れたら壊れてしまいそうで、最初は恐る恐る手を伸ばした。
アレクは、思い出す。
森での逃亡、家族との別れ、命のやりとり――そのどれもが、ほんの数日前の出来事だったとは信じがたい。
いま、自分はこの柔らかい布団の中にいる。あの混乱の延長がまだ続いているような気さえするのに。
息を吐いた瞬間、扉の向こうからノックの音が聞こえた。
「アレク、入ってもいい?」
テレシアの声だった。
戸惑いながらも返事をすると、彼女はそっと部屋に入り、ベッドのそばまで来て布団の端を直してくれた。
「ここ数日は、本当に大変だったでしょう。……怖い夢を見たら、ちゃんと起きていいのよ」
そう言って微笑む彼女の瞳は、どこまでも澄んでいた。
「……ありがとう、ございます」
自然に出たその言葉とともに、アレクの身体はふわりと緩んだ。
テレシアの手が、そっと額に触れる。
「おやすみなさい、アレク」
「……おやすみなさい」
扉が閉じられると同時に、暗闇が戻る。
けれど、今はもうそれが怖くなかった。
アレクは、目を閉じる――けれど、すぐには眠らなかった。
浮かんできたのは、夕食の食卓でこぼれ落ちた、あの涙の記憶だった。
スプーンを握った手が震えたこと。
温かなスープを口にしたとき、胸の奥からこみ上げてきたもの。
どうして泣いたのか、あのときはわからなかった。
けれど、今なら少しだけ理解できる。
誰かに拒まれないこと。
黙って受け入れてもらえること。
それが、どれほど自分の心を救ったか。
きっと、あの涙は逃げ続けた恐怖や喪失の痛み、そしてようやく得た温もりに触れたことであふれ出た、小さな「希望」のしずくだったのだろう。
アレクはふう、と息を吐く。
心が、少しだけ軽くなった気がした。
静かに、深く――まるで小さな子どもに戻ったように、アレクはようやく眠りへと落ちていった。
◇
夜は静かに更けていき、窓の向こうでは月が雲間を照らしていた。
アレクが目を覚ましたのは、朝日が窓辺に差し込む頃だった。
深く眠ったはずなのに、まぶたが重たいのは、久しぶりに訪れた安心のせいかもしれない。
それでも身体は軽く、何より、胸にのしかかっていた緊張が少しだけ和らいでいるのを感じた。
そんなとき、扉の向こうから控えめなノック音が響いた。
「アレク様、朝食のお時間です。ご準備ができましたら食堂へどうぞ」
使用人の声に、アレクは一瞬戸惑いながらも返事をした。
「……は、はい。すぐに」
「様」と呼ばれることにもまだ慣れていない。でも、その響きが不思議と嫌ではなかった。
食堂に向かう廊下。高い天井。磨かれた床。絵画や装飾品の並ぶ壁。そのどれもが、彼にとっては異世界のようだった。
食堂にはすでに数人が揃っていた。テレシアがにこやかに手を振り、ハインケルがパンを口に運びながら、ちらりとこちらを見た。
「……来たのか。そこ、空いてる」
ぽつりと言って、視線をそらす。
それでも、少なくとも追い返されなかったことに、アレクはほっと胸をなでおろした。
「おはよう、アレク。よく眠れたかしら?」
テレシアの問いかけに、アレクは静かに頷いた。
「……はい!とても、よく眠れました…」
そう答えたとき、自分の声が少し強かったことに気づいて、顔を伏せる。
けれど、テレシアは変わらず微笑み、ハインケルは何も言わず、ただパンをかじり続けていた。
――この朝が、ずっと夢だったみたいに思える。
森では、家族がすべてだった。
小さな日々の中に、かけがえのない幸福があった。
でも、この屋敷では、知らなかった世界が広がっている。
騎士の家。剣を振るう人々。責任と誇り。
ここで、自分も何者かになれるのだろうか――そんな思いが、胸の奥に小さく芽生え始めていた。
まだ慣れない。戸惑いも多い。でも、アレクは確かに思った。
ここに、まだ知らない「これから」があるかもしれない。
そんな思いを胸に、アレクは再び食べ始めた。
◇
──日が昇りきったころ。
アストレア邸の裏庭では、ヴィルヘルムの指導のもと、木刀を使った基礎鍛錬が行われていた。
初めて握る木刀。その感触にまだ慣れない手元を、ヴィルヘルムは辛抱強く何度も正してくれる。
ハインケルは少し離れた場所から気ままにその様子を見ており、テレシアは物陰からひっそりと心配そうに覗いていた。
だが、次の瞬間だった。
ヴィルヘルムがごく自然な動作で、一歩、間合いを詰めた――その一瞬。
視界が揺れた。
目の前の景色に、もう一つの“何か”が重なって見える。
焼け焦げた木々、立ち昇る煙、耳にこびりついた叫び声。
あの夜の森――忘れようとしても忘れられない光景が、唐突に、強引に視界へ割り込んできた。
……違う。これはただの記憶ではない。
過去のはずのものが、“今”と地続きになっている。
見た覚えのない角度から、知らない動きが、脳裏に割り込んでくる。
まるで、別の時を同時に体験しているかのような、不自然な感覚。
呼吸が浅くなり、手の力が抜けた。
アレクの手から、訓練用の木刀がするりと滑り落ちる。
地面に当たって、乾いた音が鳴った。
はっと気づいた時には、ヴィルヘルムの木刀が目前にあった。
だが、その顔がやけに遠く、輪郭すらぼやけて見えない。
アレクはただ、呆然と立ち尽くす。
自分が今、どこにいて、何をしていたのかさえ曖昧になる。
視えていたものが現実だったのか、それとも――
――わからない。
その不確かさが、恐ろしかった。
続きは数日内に投稿予定です。