“見える”ということが、どれほどの重さを伴うのか。
ただ怖くて、ただ混乱して、それでも――
あの一歩がなければ、俺は剣を握る意味さえ知らずに終わっていたかもしれない。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
けれど、アレクには、永遠にも思えるほど長く感じられた。
目の前に、ヴィルヘルムの木刀が静かに止まっている。
紙一重。あと少し早ければ、まともに当たっていたかもしれない。
けれど、それすら現実感がなかった。
焼けた木々、立ち上る煙、耳にこびりついた叫び声。
あの夜の森が、訓練場の景色に重なって見えた。
ただの記憶ではない。知らない角度から、異質な光景が流れ込んでくる。
確かに“今”、そこにあった。それが恐ろしかった。
目の前の風景が、ぼんやりと揺らいでいた。煙がもうもうと上がるはずの空には、澄んだ青が広がっている。
でも、鼻の奥には焼け焦げた臭いが、まだへばりついて離れなかった。
訓練場の土を踏む音が、焚き火の爆ぜる音に変わって聞こえる。
現実と記憶の間に、一本の糸が引かれているようで、それが切れるのが怖かった。
「……アレク」
名を呼ばれても、返事ができなかった。
自分がどう動いたのか、どこを見ていたのか……何ひとつ思い出せない。
手は震え、視線は定まらず、胸の奥が焼けるように熱い。
ヴィルヘルムは何も言わずに、そっと木刀を下ろした。
その判断に救われるように、アレクの肩がわずかに落ちる。
「今日はここまでにしよう」
静かな声が響くと、少し離れた場所から足音が近づいてきた。
「お、おい。あれ……アイツ、大丈夫かよ?」
駆け寄ってきた少年が、不器用な声でそう言う。
しかしその乱暴な口調の裏には、にじむような心配が見え隠れしている。
続いて、物陰から飛び出すようにテレシアが現れた。
彼女はすぐにアレクの前へ来て、その額にそっと手を当てる。
「熱はないけど……顔色が悪い。アレク、大丈夫!?」
答えようとしたが、喉がうまく動かない。
言葉が出ず、ただ小さく首を横に振った。
何が“見えた”のか、どう説明すればいいのか。
あれは幻覚なのか、それとも現実になる未来なのか。
わからない。それが余計に、怖かった。
「少し……休ませて、ください」
かすれた声で絞り出した言葉に、テレシアはすぐ頷いた。
「部屋まで付き添うわ。立てる?」
アレクがうなずくより早く、横から少年が手を伸ばしてくる。
「……俺が連れてく。ほら、立てるか?」
乱雑な手つきではあるが、その手はどこか優しかった。
顔を上げて、ようやく彼と視線が合う。
名前はまだ知らない。けれど、この人は自分のことを気にかけてくれている。
その事実が、ほんの少しだけ胸の奥をじんわりと熱くした。
またその不器用なその手つきに、どこか懐かしいものを感じた。
かつて父が、森におびえていた自分にそっと添えてくれた手。ぎこちなくても、まっすぐな気持ちは伝わるものなのだと思った。
「……ありがとう」
小さく礼を言って、アレクはその手を借りて立ち上がった。
アストレア邸の廊下を歩きながら、アレクは一度だけ、訓練場の方を振り返った。
さっきまでいたはずの場所。そこには、煙も、叫びもなかった。
けれど、焼けた匂いは、まだ鼻の奥に残っている気がする。
あれは、未来だったのだろうか。
見えてしまったものが、もしあれが本当に“未来”だとしたら――
もう、目を背けることはできない。
この力が、ただの幻覚ではないのだとしたら。
なら、自分はそれと向き合わなければならない。
それがアレクにとっての「始まり」だった――今はまだ、そうとは気づかないまま。
◇
翌日。いつも通りの朝の訓練。けれど、心の内側には昨日の光景が、まだ鮮明に残っていた。
目に映るすべての動きに、意味があるように思える。空気の揺らぎ、足音の間隔、誰かの視線。そこから何かが読み取れる気がする。だが、それは確信にはならない。むしろ曖昧な“予感”のようで、心を乱すには十分だった。
――未来が見える。
そう言い切るには、あまりにも曖昧で、あまりにも怖かった。
剣の型を覚えるにも集中できず、手元がぶれる。自分でもわかる。今の自分は酷く鈍くて、頼りない。気のせいだと思いたくて、けれど否定しきれなくて、もどかしさだけが積もっていく。
稽古後、疲れた足取りで部屋に戻ろうとしたアレクに、テレシアがそっと声をかけてきた。
「ねえ、アレク。疲れてるところ悪いんだけど……少しだけ、時間あるかな?」
その声は、いつもの明るさを少しだけ抑えた、静かな響きだった。
自室に戻る途中の廊下。人気のない小さな窓辺に並んで腰かける。窓の外では風が木々を揺らしていた。
テレシアはしばらく黙って空を見ていたが、やがてぽつりと言った。
「未来が……見えるんだよね?」
アレクの胸が、どくん、と跳ねた。
言っていない。誰にも話していない。それなのに。
顔を強張らせたまま動けずにいると、テレシアは微笑んだ。けれど、それは戦場の只中にいる騎士のような、張り詰めた笑みだった。
「気づいたの。アレクの視線とか、動きとか……たぶん、自分でもまだうまく制御できてないでしょ? 私も昔、似たような感覚に戸惑ったから」
「テレシアさんも……?」
「うん。でも私は“未来が見える”わけじゃないの。ただ、これから起こるかもしれないことが、“身体の芯で分かる”感じ。きっとアレクのそれは、もっとずっと繊細で、難しいんだと思う」
アレクは口を開けたまま、何も言えなかった。ただ、誰かに理解されたことへの安堵が、胸を温かく満たしていく。
「怖かったら、無理に向き合おうとしなくていい。でも、逃げないで。アレクの中にあるそれは、絶対に――誰かを救える力になる。私はそう思うよ」
言葉が胸に残ったまま、テレシアはふわりと立ち上がった。
「ゆっくり自分のペースでいいから。稽古、頑張ってね!」
そう言って軽く手を振る彼女の背を、アレクはしばらく見送っていた。
その日の夕刻、いつもの庭の稽古場で。
稽古の最後、ヴィルヘルムがアレクに向き合い、剣を構える。
「迷っているようだな、アレク。……剣を振ってみろ」
アレクは一瞬、戸惑う。しかし、その眼差しにはわずかな変化があった。自分の中の“わからないもの”と、初めて向き合おうとしている光だった。
「……剣を振る者は、誰かのために戦うことでより力を発揮する。酷なことだが、今のお前がどんなにその気があっても、何もできないのが現状だ」
そんなアレクに対してヴィルヘルムは、現実を突きつけるように、言葉を吐く。
「だが、お前にはその加護がある。それなら……迷いながらでも、前に進め」
ヴィルヘルムは、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫だ。迷っても、道を間違えてもいい。それがお前をより強くする」
アレクは、小さく頷いて剣を構え直す。揺れる風の中、いつものように物陰から見ていたテレシアの目には、彼の姿がほんの少しだけ大人びて見えた。
◇
けれど、成長の歩みは決してなだらかではない。
次の日も、そのまた次の日も、思うように力を扱えず、もどかしさに苛立ち、自分の弱さに打ちのめされた。
「おいアレク、さっきの踏み込み、なんか変だったぞ」
稽古の合間、投げかけられるハインケルの言葉は厳しいものだった。けれど、アレクは不思議と嫌な感じはしなかった。
「……分かってる。でも、どうすれば……」
思わず漏らした弱音に、ハインケルは少しだけ眉をひそめた。そして、無言で自身の構えを取ってみせる。
「やってみろよ。俺のマネでいいから」
その言葉に、アレクの心がふっと軽くなる。
構えを見せる手は少し乱暴で、肩の角度も雑だった。
けれど、その一瞬だけ、彼の視線がアレクの動きをしっかりと見つめていることに気づいた。
ちゃんと見てくれている――そのことが、嬉しかった。
アレクはぎこちなく真似をして構えを取る。動きはまだ硬い。
だが、昨日までとは違う何かが、内側で小さく灯った気がした。
「……なんか、ちょっとそれっぽいじゃん」
ぼそりと呟いたその言葉が、褒めているのか、馬鹿にしているのか、判断はつかない。
けれど、なぜかその声に背中を押された気がして、アレクは小さく笑った。
「ありがとう。……もう一回、やってみる」
「おう。何度でも付き合ってやるよ」
口調こそぶっきらぼうだが、そこには確かな温かさがあった。
気づけば、二人の間を隔てていた距離は、ほんのわずかでも確かに近づいていた。
無言で何度も型を繰り返す。動きは決して綺麗ではない。けれど、確かに少しずつ前へ進んでいる。
そう思えることが、今のアレクには何よりも大きかった。
気がつけば、空は少しずつ色を変え始めていた。
◇
夕食の席では、いつものように皆が賑やかに食卓を囲んでいた。寡黙に箸を動かすヴィルヘルム、隣の席の騎士たちと軽口を交わすテレシア。少年も珍しく機嫌が良さそうで、アレクに何度か声をかけてくれた。
「なあ、アレク。明日、早朝の稽古、付き合えよ。誰もいない時間のほうが集中できんだろ?」
ぽろりと出たその言葉に、アレクは一瞬だけ驚いた。
「……いいの?」
「は? 誰がダメとか言った?」
「いや、そうじゃなくて……ありがとう」
そう答えると、少年は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「別に、俺の鍛錬でもあるわけだし。それだけだ」
ぶっきらぼうなその態度に、アレクはくすりと笑った。以前の自分が、こんなふうに笑える日が来るとは思っていなかった。
夜、部屋に戻って寝台に横たわると、焼けた森の情景がふと脳裏をよぎった。燃える木々、崩れる屋敷、聞こえた叫び。けれど今は、それを思い出しても、少しだけ冷静でいられた。
誰かがいてくれるということ。話を聞いてくれる人がいて、手を伸ばしてくれる誰かがいること。
それが、こんなにも心強いものなのだと、初めて知った気がした。
胸の奥で、何かが確かに変わり始めている。
まだ“先見の加護”の力を完全に理解できているわけじゃない。でも、それと向き合おうと思える。今なら、少しずつでも進める気がする。
そう思いながら、アレクはそっと目を閉じた。
◇
翌朝、陽が昇る前の薄暗い庭。空気は冷たく、肌に刺すようだった。
「おっせーぞ。もう少しで俺が寝落ちるとこだったわ」
すでに訓練場に立っていた少年が、肩を回しながら言った。
「ごめん……寝坊したわけじゃないんだけど……」
「ま、いいや。今日はお前が言い出した“構えの練習”ってことで、たっぷりやるぞ」
「……うん!」
ふたりの稽古は静かに始まった。誰にも見られていない時間、ふたりきりの空間。それはどこか秘密の訓練のようで、アレクには少しだけ特別に感じられた。
型を一つずつ、丁寧に反復する。少年が何度も訂正し、アレクが何度もやり直す。地味で退屈な反復だ。けれど、アレクにとっては楽しかった。
「……ちょっとマシになったな」
「ほんとに?」
「おう。昨日よりはずっとマシ」
照れくさそうに言ったその声に、アレクの頬が自然と緩んだ。
その瞬間だった。
アレクの目の前に、また一瞬、異質な映像が差し込んできた。
それは今、まさに踏み込みが決まった刹那。アレクは“それ”を見た。
――同じ構え、同じ角度の踏み込み。それは、どこかで見たことのある光景だった。
記憶ではない。これは、未来。
次に起きる“動き”が、感覚としてわかってしまう。
反射的に、アレクは一歩後ろに引いた。
次の瞬間、木刀が眼前をかすめて空を切る。
「うわっ!? お、おい……今の、お前……」
驚いた様子で目を見開く少年に、アレクはわずかに肩を震わせながら、しかし真っ直ぐに言った。
「見えた……少しだけ、先が。ほんの一瞬だけど、動きが読めたんだ」
自分でも信じられなかった。でも、確かに“そう”だった。感覚が、そう告げていた。
少年はしばらく口を開けたまま黙っていたが、やがてぽつりと漏らした。
「……なんか、お前、やっぱ変だな」
「えっ……」
「でも、悪くないと思う。変わってるのは俺も同じだし。アストレア家の坊ちゃんなんて、まともな神経してたらやってらんねーよ」
その言葉に、アレクはくすりと笑った。
「それ、慰めになってないよ」
「なるわ!……たぶんな」
ハインケルからもいつのまにか、少しだけ緊張が解けていた。
「……なあ、さっきの動き。お前、何か見えてたのか?」
ハインケルがふいに口を開く。真剣な表情だった。
アレクは言葉に詰まりかけたが、嘘はつけなかった。
「ちょっと、だけ。……危ないって思ったら、身体が勝手に」
「ふうん、すげえな。やっぱり、お前、変な奴だ」
ハインケルは表情を一切変えず、じっとアレクを見ながらつぶやく。
その行動に、アレクには少し緊張が走った。
「……でも、いいんじゃねぇか? それで。……ほら。続きやるぞ」
慌ててアレクが焦点を合わせると、ハインケルはもう定位置に戻っていた。
背を追いかけるように、アレクは再度木刀を握り直す。
ちょうどそのころには朝の光が、ゆっくりと差し込み始めていた。新しい一日が、静かに始まろうとしている。
少しずつ。けれど、確実に。
アレクの歩みは、未来へと繋がり始めていた。
次回は違う視点から書く予定です。