夕暮れの茜色が、廃ビルの屋上を染めていた。コンクリートのひび割れには風が入り込み、錆びた手すりが小さく軋んだ。
屋上の縁に立つ小柄な影。
飛影は黙って、遥か遠くを見ていた。背中に流れる黒い外套が風に翻る。
そこへ、規則的で柔らかな足音が近づく。砂を踏みしめるような、控えめで優雅な歩みだ。
「探しましたよ。もう少しで帰るところでした」
背後から届いた声は、理知的でどこまでも静かで柔らかい。
蔵馬だった。
手には麻袋、中には、飛影が依頼していたものが入っている。
「……オレは別に呼んでない」
飛影は振り返る。そっけなく言いながらも、ちらりと麻袋に目をやる。
「葵からです。どうしてもすぐ魔界に戻る事情があるそうで、オレが代わりに」
その言葉に、飛影は応じなかった。
沈黙のまま少し間を置いて、彼の視線は再び空に戻った。
そしてぽつりと話題を変える。
「……あいつ、前に、
一瞬、蔵馬の眉がわずかに跳ねた。しかしすぐに目を細め、静かに笑う。
彼女の髪は花同然、花を食料とする妖鳥に狙われてもおかしくない。
「……なるほど。南の山にすむ妖怪の仕業か」
「鳥目には、上からみるとエサにしか見えんようだ」
飛影が少しだけ眉をしかめる。
その小さな変化から、蔵馬はあることを悟った。
ふっと小さく息を吐いた。
「助けてくれたんですね。ありがとうございます」
「……。」
飛影は肩をわずかに揺らす。
茜色の空から視線を外さないまま、ぼそりと吐き出した。
「……別に、助けたわけじゃない。あれがいないと、武器の調達ができなくなるからな」
それは本音か建前か、おそらく、その両方なのだろう。
本気で利用価値だけを考えていたのなら、飛影があんな些細な妖怪に手間をかけるはずがない。
だが、それを口にするのは、彼のポリシーが許さない。
蔵馬は、その瞳の奥に、微かに滲む居心地の悪さ、あるいは不慣れな「気遣い」のようなものを見た。
何も言わず、彼はただ黙って麻袋を差し出す。
風がふたりのあいだを吹き抜け、麻袋の口を少しふくらませた。
飛影はそれを無言で受け取りながら、皮肉げに呟く。
「教育係も大変だな」
教育係という言い方が、いかにも彼らしい。
蔵馬は微笑みながら、それを受け流す。
「オレは結構、楽しんでますよ」
「退屈しのぎの道楽か」
「いえ、本気ですよ」
きっぱりとした言葉だった。
飛影が少しだけ目を細めた。
「……お前、変わったな」
その指摘に、蔵馬は何も返さなかった。
夕日を浴びて、頬が少し赤く染まる。それは感情の色ではなく、ただ空の色を映しただけ。
その言葉を、静かに受け止めるように風の音に耳を澄ませる。
確かに変わった。
以前の自分なら、このような感情の揺れを抱くことなどなかっただろう。
だが、葵という存在を得て、彼は、自分自身が持つ矛盾さえも愛おしく抱きしめることができるようになった。
変わっていないとも言えるのは、その根底にある、より深く豊かな「自分」が、現れただけだからだった。
そんな自己の変容を、もう一人の自分が面白がって観察していた。
黙ったまま夕焼けの空を見上げる飛影の横顔に、蔵馬は穏やかな目を向ける。
「……あなたも変わった。昔なら葵のこと、見捨てていたでしょう」
「フン、くだらん」
吐き捨てる一言の奥に、図星を突かれたかのような、一瞬の動揺にも似た感情の揺れが隠れていた。
蔵馬は、その反応に触れないまま、静かに微笑み、歩き出した。
コンクリートの上に落ちる足音が、風の中に溶けていく。
夕陽が沈むにつれ、空の茜が深まり、夜の気配がじわりと迫ってくる。
蔵馬が背を向けて数歩、屋上の錆びた床を柔らかく踏んだときだった。
「蔵馬」
風の合間に、低く鋭い声が呼び止めた。
彼は歩みを止め、半ば振り向く形で立ち止まる。夕陽が、彼の頬を斜めに照らす。
「お前…。葵のこと、どこまで知ってる?」
その声にわずかに含まれる緊張に、蔵馬はすぐに気づく。
思考の隙間に入り込むような問いだった。
「…どこまでとは?」
やや間を置きながら返す蔵馬に、飛影は少し顎を上げた。
空を見上げるようにして言葉を続ける。
「…前に邪眼であいつの居場所を探していたとき、一瞬奇妙な映り方をした。あれは、存在が透明だ。この世界に、完全には属していないように見えた」
風が吹く。蔵馬の髪が、淡い夕陽を受けて揺れる。
それは、あちらとこちらの「境界」に立っているもの。生命という輪郭が曖昧だということだ。
数千年を生きた経験と直感から、蔵馬も同様の違和感を、感じていた。
その違和感に、裏が取れる形となった。
「…真視を使ったのか?」
「無意識だ。邪眼が勝手に反応した。普段は機能していない力が、あいつの存在の曖昧さに、勝手に引き出されたかのようだった」
短く放たれた言葉に、蔵馬の表情がかすかに変わる。
「真視」とは、邪眼の能力の一つ。
見た目に惑わされず、存在の本質や隠されたものを見抜く力のことをいう。
沈黙の中、蔵馬はまぶたを伏せた。感情が波打つほどではない。
ただ、静かに、心の奥に何かが落ちていく音がする。
「芯が細い。強い光を放っているが、根は浅い」
飛影の言葉は乾いた風のように、すっと蔵馬の胸に染み込んだ。
「……気づいてるはずだ。あいつは、長く生きられる構造をしていない」
蔵馬は目を開けた。
予感のように、ずっと心のどこかで避けていた事実。
それに、第3者の言葉が与えられた瞬間だった。
「オレに未来は視えない。ただ……強く咲いている花ほど、散る時は早い。お前はそれを分かっているはずだ」
飛影の声が、風の音に重なる。
風が吹き抜け、二人の間を通り過ぎていった。
「……無駄な荷だろうな。お前には」
言い終えて、飛影は背を向けようとしたとき、蔵馬の穏やかな声が、それを引き留めた。
「うすうす、感じてはいたさ。妖怪ならざるような存在としての、どこか曖昧な揺らぎを。けれど……それが、はっきりしてしまうとはね」
(守りたいと願うほどに、いつか訪れる別れを意識せざるを得ない。それでも、この感情を捨てることは、もうできない…)
蔵馬は、ほんの少し微笑んだ。それは、諦めではなく、受け入れる者の笑みだった。
夕暮れの光が、飛影の顔を半分だけ照らしていた。
「言わなければ良かったか?」
「いや…。君はいつも、必要なことしか言わない」
短い言葉の中に、打算も誤魔化しもない、信頼が含まれていた。
ビルの間を風が抜け、ふたりの間の沈黙に音を添える。
街の灯が、遠くにぽつりぽつりと灯り始める。
そのとき、飛影がもう一度だけ、口を開いた。
「……あいつは、ある日ふっと、何も言わずにいなくなるかもしれん」
その言葉は、風よりも冷たく、それでいて現実的だった。
蔵馬は、まっすぐに飛影を見た。
その眼差しは穏やかで、揺れていなかった。
葵の儚さを知ってなお、心が離れることはなかった。
その透明な儚さをも抱きしめることが、彼女のそばにいることだと分かっていた。
「それでも、傍に置いておくつもりか?」
「花のそばにいるのに、散る時を恐れるのはおかしいだろう? ………葵は、他の誰とも違うんだ。その儚さも含めて」
風が吹き抜け、蔵馬の長い髪がそよいだ。
少し間を置いて、彼はいつもの微笑みをたたえて続けた。
「放っておけない理由がある。それだけだよ」
飛影はふっと鼻で笑った。
「人間界に長くいすぎたな」
皮肉のように投げられた言葉に、蔵馬は肩をすくめた。
「……そうかもしれない。でも、今のオレにとって、それも悪くない」
会話はそれで終わった。もう言葉は必要なかった。
屋上には風が吹き、残照に染まる空が広がる。
遠くの工場からは煙が立ち昇り、カラスの声がひとつ、響いた。
蔵馬は静かに歩き出す。
背後で、飛影の気配がわずかに揺れたが、もう呼び止める声はなかった。
儚いものに心を寄せることは、弱さではない。
それは、これからも強くあろうとする者の、静かな選択だった。
飛影の気配が完全に遠ざかった後、蔵馬はゆっくりと階下に降りる途中で、足を止めた。
茜色の風が、静かにビルの谷間を吹き抜けてゆく。
夕映えの中にたたずむその姿は、まるで長い時間を超えて、この場所に根を下ろしてきた木のようだった。
葵への想い、愛を育てる、ということ。
それは、かつての彼には無縁だった営みだ。
奪い、欺き、必要とあらば捨て去ることすら厭わなかった日々に、「愛を育てる」という行為はなかった。
(葵と出逢ってから、オレは少しずつ、変わってきた)
彼女に対する感情に触れるたび、何かが柔らかくほどけていく。
言葉にならない揺らぎの中で、葵の気配が静かに沁み込んでくる。
その儚さも、曖昧な輪郭も、決して長くは留まれないだろうという危うさも…。
すべてを、両手に抱きしめたいと願ってしまう自分がいる。
彼女は、いたいけで未熟だ。
けれど、その未熟さが、まるで朝露のように透明な感性を引き寄せている。
誰よりも幼く、誰よりも鋭く、この世界を見ている目。
生まれて間もないのに、時折、千年を超えた者すらはっとさせるような深さを垣間見せる。
その矛盾の美しさに、彼は心を寄せてしまう、惹かれていく。
葵はまだ、この世に完全に定着していない。
存在そのものが、どこか「こちら側」と「向こう側」の境を漂っている。
いつかふと、何も言わずに消えてしまうかもしれない。
飛影の言葉が、耳の奥に残っている。
花が咲く理由を知らずとも、その美しさに惹かれるように。
葉が落ちることを恐れずに、風の中に立つ木々のように。
ただ、この咲いている花のそばにいたい。
葵への想いは、蔵馬にとって、未知への航海だった。
これまでの人生で培ってきた知識や経験が、まるで羅針盤の役割を果たさないかのように、彼女に関する感情は、全く新しい領域だった。
しかし、その航海は、同時に彼自身の最も深い部分を探求する旅でもあった。
そしてそれは同時に、自らを再構築する行為でもある。
奪い、欺き、そして必要とあらば捨て去ることで、自身の存在を確固たるものとしてきたはずだった。
葵という存在は、蔵馬の中の「妖狐」や「人間」という枠を超え、誰かを慈しみ、護り、そして共に歩むことでしか得られない、新たな自分へと変容させている。
自分という存在を、ただの妖狐でも、人間でもなく、誰かのそばにあるものへと変えていく旅路。
蔵馬は静かに目を閉じる。
瞼の裏に、葵の顔が浮かぶ。
笑ったときの目の色、風に揺れる髪、遠くを見るときの切なげな横顔。
その花のそばにいられることが、今の自分には何より大切なのだ。
ゆっくりと目を開けた。
その深い眼差しには、誰にもうかがい知れない想いが映っていた。
(葵が望めば、その儚さを、共に超えていく……。たとえそれが、どれほどの困難を伴う道だとしても。オレの全てをかけて、君の隣にあり続けよう)
蔵馬の瞳が、微かにほころんだ。
想い人を心に映して。
読んでくださってありがとうございます。
「幽☆遊☆白書の世界観を大切に」という思いを胸に、蔵馬の心の奥や、原作では語られなかった「もしも」の物語を描いています。
原作ファンの方、初めての方、それぞれのお声を励みにしています。
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