久しぶりに黒い方に登場していただきました。
魔界統一トーナメントの会場は、戦いの熱を内包しているはずなのに、どこか乾いた冷気が漂っていた。
石壁に刻まれた古い魔界文字が、薄い光を吸い込み、廊下は夜の底のように暗い。
蔵馬はその一角を、音の立たない歩調で進んでいた。
足裏に伝わる床の硬さ、遠くから響く歓声の余韻、ふと風が通り抜けるように妖気の擦れる気配。
周囲の妖怪たちは、かつて黄泉の元で軍事参謀長を務めた彼をちらりと一瞥している。
中には、緊張を生む眼差しを向けるものもいる。
誰一人、声をかけようとはしない。
しかし、いずれも彼に影響を及ぼすには程遠い。
そのまま、風景のように通り過ぎる――廊下の奥で、ひやりとした気配がわずかに漂う。
蔵馬は自然と歩みを止めた。
「……飛影か」
呼ぶ声は、静かで澄んだものだった。
次の瞬間、暗がりから小柄な影が滑り出てくる。
釣り上がった目が、魔界の黒い炎の残像のように一瞬だけ光った。
「……。」
それは返答とも、挨拶ともつかない。
飛影はいつものように、無駄を削ぎ落とした存在感でそこに立っていた。
「お前が、この大会に出るとはな」
低く、わずかに訝しむ声音。
「どういう風の吹き回しだ?」
魔界統一トーナメント。勝ち上がった者が、魔界の頂点に立つ。
飛影には、今の蔵馬にそんな野心があるようには見えなかった。
その視線には――旧知の仲としての理解と、戦闘者としての探りが同居していた。
蔵馬は肩の力を抜かず、淡々と答えた。
「魔界を統べるものに、なるつもりです」
「……くだらん冗談は聞かん」
彼らしい返答に、蔵馬はふっと息を漏らした。
「オレも、一度幽助と戦ってみたかったんでね」
「……それだけか?」
「想像に任せます」
薄い笑みは浮かばない。
飛影の探るような眼差しを、蔵馬は涼しい瞳で静かに受け止めた。
その奥にある意志は、決して覗かせない。
ただ、その沈黙の質が、裏にある意図を際立たせていた。
妖気がわずかに立ち込める。
やがて飛影は鼻を鳴らし、一歩近づいた。
「オレと当たったら──今のお前の全力で来い。手加減など考えるな」
「もちろん。そのつもりだ」
返答は穏やかだが、その双眸の奥で何かが揺れる。
飛影はそれを見逃してはいない。
「……教育係をしているからと、言い訳はするなよ」
飛影なりの気遣いが小さく含んだ言葉。
魔の世界に生きるものとして、仲間として、彼が認めるものへ向ける独特の不器用さ。
蔵馬はふっと笑みをこぼした。
「戦いに、葵を持ち出すことはしないさ」
「そんな腰抜けなら、その場で容赦なく殺す」
断言する声は、刃のように鋭い。
しかしそこにあるのは残酷さではなく、強者としての純度の高さだった。
やがて黒い影は、蔵馬の脇を歩み去っていく。足音はほとんど響かない。
すれ違いざま、低く一言。
「……どうやら、あいつは変わりないようだな」
その言葉の意味を、蔵馬は理解していた。皆まで言う必要はない。それだけで十分伝わる。
彼は振り返らずに答えた。
「……ああ」
わずかな呼気が、薄暗い廊下に溶けた。
その声には表情が乗っていない。
二人だけが共有する覚悟が、言葉のない領域で交わっていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
飛影の足音が闇に吸い込まれていく。
その最後の気配が消えると、廊下には無機質な静寂だけが残った。
蔵馬は立ち止まったまま、わずかに視線を落とした。
床に走る亀裂の線を追うことはなく、そこにある暗がりを静かに見つめる。
遠くで、観客席の轟きが薄く反響していた。
けれど、この一角だけは別世界のように静かだ。
冷えた石壁がひやりと背後から温度を奪い、魔界特有の乾いた空気が、肌に細い刃のように触れる。
ふ、とひとつ、息を吐く。
ほとんど音にならないほどの微かなものだった。
歩き出す気配は、すぐには訪れなかった。
代わりに、廊下の奥から淡い光が差し込み、蔵馬の横顔に細い陰影を落とす。
その光が、ほんの一瞬だけ彼の目の奥に揺れる何かを照らす。
蔵馬はゆっくりと顔を上げた。
視線の先には――誰もいない。
ただ無表情な石の通路が、終わりなく伸びているだけ。
静かに、自分の存在すら消してしまうような足取りで、彼は再び歩き出した。
その背に影がひとつ伸びる。
光に揺れ、深く、細く。
それでも──蔵馬の歩みは、止まらなかった。
静寂の中を、まっすぐ前へ。
それが、今の彼の選んだ答えだった。
お読みいただきありがとうございます。
来週もこちらの短編をアップして、本編更新に戻ります。
やはり飛影と蔵馬の話は、書いていて面白いです。