アカシヤー蔵馬に咲いた花ー 短編   作:hazeleye

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時系列は本編5章後となります。


短編11 名前のない感情

時系列は5章後の短編

 

東の窓から差し込む午後の光が、レースのカーテンを淡く透かして部屋に落ちていた。

蔵馬の部屋には、読書後の静けさと、まだ温度を残す紅茶の香りが混ざり合っていた。

白いローテーブルの上には、読み終えたばかりの本が二冊、角を揃えるように重ねられている。

 

葵は、膝の上に置かれた一冊の表紙を指の腹でそっと撫でていた。

窓からの光が、彼女の髪を透かす。

象牙色を基調に、淡い桃色が溶け込んだその髪は、風もないのに揺れているように見える。

前触れもなくぽつりと、彼に向かって言葉を送る。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「この本の中に、『名前のない感情』っていう表現が出てきたの」

 

彼は椅子に座ったまま、ゆっくりと彼女を見る。

紺色の制服姿が、改めて目に入った。

この部屋で、それを見るのは今日が初めてだった。

 

「名前のない感情、か」

 

声音は穏やかで、いつも通り理知的。

彼女の言葉をただ受け取る様子だった。

葵は触れている本に視線を落とし、話を続ける。

 

「ええ。言葉にはできないけれど、確かに存在する気持ち。誰かのために、そっと祈るような感情や、見返りを求めないのに、なぜか満たされる想いってあると思うの」

 

デスクの上のカップに手を伸ばしかけ、蔵馬は途中で止めた。

そして口元へ指を添え、考える仕草をとる。

視線は彼女の座る方に向けられているが、 言葉はあえて発さない。

返答ではなく、間を作ることで答えるような彼の癖が、さりげなく現れる。

 

彼の作った沈黙が、部屋に満ちる。

遠くで車の走る音がして、風に揺れた木の葉が、かすかな音を運んでくる。

 

葵の髪が、光を受けて一房だけ浮き上がる。

花びらのようだ、と蔵馬は思い――その感覚を、今は意識の奥へ収めた。

そして思考を立ち上げる。

 

(……確かに、あるだろうな)

 

言葉にしないままに、手の奥で口元にわずかな表情が現れる。

それは、長い時をかけて慎重に扱ってきた、ある感情の名残だった。

 

例えば、理由もなく隣にいたいと思うこと。

彼女の声を思い出すだけで、呼吸のリズムがわずかに変動すること。

手を伸ばさなくても、触れたように感じてしまう瞬間。

 

それは欲望とは違う。

所有でも、執着でもない。

 

もっと静かで、もっと深い――

名を与えた途端、形を失ってしまいそうなもの。

 

(まだ、この感情に名前をつけなくてもいい……)

 

判断は、冷静だった。

彼は感情を否定しない。ただ、扱い方を誤らないよう、距離を測っている。

 

 

そのとき、葵がふっと笑った。

 

「名前がないままの方が、守られる感情もあるかもしれないわね」

 

水面に小石を落としたような軽い響きが、沈黙をしなやかに破る。

蔵馬は一瞬、視線を伏せる。核心に触れられた気がした。

 

「……君は、時々すごいことを、何気なく言う」

 

「そうかしら?」

 

彼女はくすりと笑い、あどけない眼差しで蔵馬を見上げた。

計算や探りはなく、ただ感じたままを差し出してくる。 それが、どんな精密な理論よりも、深く内側に届く。

 

彼は息をひとつ、静かに吐いた。

理性と感情の境界線を、無意識に確かめるように。

 

――だが、これも悪くない。

そう判断している自分に気づき、少しおかしくなる。

表情は変えないまま、目元だけが、ほんの少し和らいだ。

 

(これが、君が与えてくれる感覚か……)

 

『名前のない感情』

 

それは、葵という存在そのものに近い。

触れた瞬間、世界の色合いが変わるような。

 

しばらくして、蔵馬は小さく微笑んだ。

言葉にせず、その想いを胸に収めたまま。

 

 

窓の外では、午後の光が少しずつ傾きはじめていた。

時間は確かに進んでいるのに、この部屋だけが時の制約を超えたように静まり返っていた。

 

葵は紅茶をひと口含んだ。

カップを持ち上げる指の動き、喉を通る一瞬の間。

その何気ない仕草に、蔵馬の視線は自然と引き寄せられる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

――また、だ。

自覚する前に、見てしまっている。

 

(……こんなふうに、相手の動きを追うことは、今までなかったな)

 

思考は短く、感情に深入りしない。

けれど胸の奥で、柔らかな違和感が広がっている。

 

誰かを知ろうとすることが、こんなにも穏やかで、深く、時に淡い痛みを伴うものだとは知らなかった。

彼女の言葉、息遣い、一瞬の間。

それらが少しずつ、花びらが落ちてくるように蔵馬の内側に浸透していく。

 

名づけられた形はない。だが確かに、ここにある。

 

「名前がないことで、守られることもある……。そういう感情も、あるだろうね」

 

奥行きのある優しさと、包容力を帯びた声が広がる。

葵は顔を上げ、花開く表情を彼に向けた。

窓から差し込む光がその笑顔を縁取り、部屋の空気が一段やわらぐ。

 

蔵馬の脳裏に、ふと一つの言葉が浮かぶ。

 

――名を持たぬ想いほど、深く根を張る。

知識の出どころは思い出せない。けれど今は、それで充分だった。

 

言葉にしなくても、目の前の人はその気配を受け取る。

だから今は、このままでいい。

名づける前の段階で、もう少しだけ育ててみる。

 

 

「……葵」

 

呼んだ瞬間、自分でもわずかに驚く――この男が、無意識だった。

いつもより少しだけ距離を近づけて、声が響いてしまっていた。

紅茶の薄い湯気のゆらぎの中で、葵は彼を見返した。

 

「なあに?」

 

その問いに送る言葉は、喉の奥で止まった。

蔵馬は視線を外さず、ただ静かに彼女を見る。

まっすぐで、いつもより温度を伴った視線。言葉にならない伝達。

 

(……君がいると、世界の輪郭が変わっていく)

 

その感覚は、自分でも説明のしようがない。

 

沈黙が、ふたりの間に落ちる。

長すぎず、短すぎず。

返す言葉は喉元まで出ていたはずなのに、音にならない。

舌先に残っているのは、彼女の名の余韻だけだった。

 

(……呼んだだけ、なんて。言えるわけないじゃないか……)

 

意味のない呼びかけを、この男はしないはずだった。

ましてや、自分にとって意味を持ちはじめた名を。

 

蔵馬は視線を少し逸らし、かすかに笑った。

自分自身を制するような、わずかな苦みを含んだ表情。

 

「いや……」

 

 

【挿絵表示】

 

 

一呼吸置く。

彼の座っている椅子が、小さく音を立てた。

 

「なんでもないよ」

 

その言葉は、淡く香る紅茶の湯気に紛れて、消えた。

葵は何も問わず、ただ小さく頷く。視線を外し、またカップに口をつける。

 

――それでいい。

適当な言葉を並べ上げることなど、造作もない。しかし今は、これがよかった。

 

(……言葉にしなくても、伝わっているはずだ)

 

理解ではなく、感覚として。葵はそう世界を受け取る。

 

蔵馬は椅子にもたれ、静かに息を整えた。

言葉にならない余韻のなか、名前のないままの感情は、まだ、ここにあった。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

レースのカーテン越しに射し込む光が、オレンジ色に変わりはじめた。

窓辺では、葵がクッションに腰を下ろし、膝の上で本を開いている。

ページをめくる指先は軽く、紙の擦れる音は小さく、呼吸のようにゆるやかで。

読んでいるというより、文字の隙間を漂っているようだった。

 

蔵馬は少し離れた椅子に腰を掛け、指先で閉じかけの本を支えていた。

視線は本に落ちている――はずだった。

 

カーテンが風に揺れた。

その拍子に、光が彼女の髪に落ちる。

白に近い色が一瞬きらめき、淡く反射して消えた。

 

ただ、それだけのこと。

なのに、自然と目を奪われ、戻れなくなる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

(……きれいだな)

 

胸の奥に浮かんだ言葉が、そのまま喉の奥を突き上げる。

意識するより早く、口唇がかすかに震えた。

 

「……あ」

 

音が続く寸前で、蔵馬は息を止めた。

指先にわずかに力が入り、本の端を押さえた。

 

――今、完全に無意識だった。

それは彼女のはじまりの音。たった一度呼ぶだけで、心の扉を開け放つ力を持ってしまう。

越えてしまえば、もう戻れない。

 

(まだ、だ……)

 

判断は早かった。感情より先に、理性が線を引く。

だけど、心は静かにその準備を始めている。

 

葵が顔を上げる。

呼ばれたわけでもないのに、視線が正確に彼を捉える。

 

「……どうしたの?」

 

その瞳は、柔らかく透明で。胸が淡く痛む。

蔵馬は一瞬、答えを探すように視線を伏せる。

言葉は喉元まで来ていた。ただ、呼びたいだけの音。

 

「いや……」

 

先ほど発した声より、低く押し込められていた。

 

「なんでもないよ」

 

返しの奥に、葵はなにかが触れた音を聞いた気がした。

 

「知人がいたように見えたんだが……気のせいだった」

 

そう言って、彼は窓の外を指す。

柔らかな仕草。けれど、この男に似つかわしくない言動だった。

 

「……そう」

 

それだけ言って、彼女はまた本に視線を落とす。

 

視線を窓の外へ目を向けたまま、蔵馬は思考を整える。

名を与えるのは、想いが育ってからでいい。

今はまだ、その手前にある静かで、曖昧な場所に留まることを選ぶ。

 

それでも、喉元には確かに残っている。声にしなかった一音の感触。

 

(……君の名は、こんなにも……痛みになるのか)

 

それは淡く甘い刺激。

胸の奥で、音だけが静かに繰り返される。

 

葵――ただそれだけ。

 

声にはしない。

今はまだ、その名に触れないこの距離がちょうどいい。

触れれば壊れてしまいそうな、薄い膜のようなやわさ。

 

胸の奥が、じわりと熱を帯びる。

呼吸が、わずかに浅くなるのを自覚して、蔵馬は気づかれぬよう息を整えた。

 

戦場であれば、相手の動きも、癖も、次の一手も――冷静に読み切れる。

感情に振り回されることなど、あり得なかった。

 

それなのに。

彼女がページを閉じる、その指先の動き一つで思考が緩み――微細に感情が立ち上がろうとする。

 

(……これは、想定外だな)

 

妖狐として生きた数千年の記憶を探っても、この感覚は見当たらない。

熱をはらんだ痛み。

失うことへの予感と、触れたい衝動が、同時に胸にある。

 

――制御を失うわけにはいかない。

 

そう自分に言い聞かせながら、蔵馬の眼差しは窓の外に置かれたままだった。

 

夕暮れの光が街路樹の輪郭を曖昧にし、空気に薄い金色を溶かしている。

しかし次の瞬間、その景色の向こうに、自然と彼女の面影が重なる。

微笑む口唇の形、声の温度、指先の柔らかな動き。

 

「……。」

 

言葉は、出なかった。代わりに、深く息を吸う。

胸の奥で疼くそれを、観察する。

 

その痛みは、彼の輪郭を蝕むものではない。

むしろ――人間らしく生きていると、告げてくる。

 

目を伏せると、長い睫毛が影を落とした。

名づけられない感情が、確かにここにある。それを、誰よりも彼自身が理解している。

 

栞を挟み、葵は静かに本を閉じた。膝の上で両手を組み、少し首を傾げる。

光を透かした横顔が、ふいにこちらを向いた。

 

「……先ほどの沈黙、誰かと話しているみたいだったわ」

 

軽やかな声は、蔵馬の奥深くに届く。

彼はわずかに視線を落とした。答えを探すというより、そのまま置くために。

窓から吹き抜ける風が、彼の長い髪をそっと持ち上げていた。

 

「私が感じたことだから、気にしないで」

 

彼女はふわりと微笑む。その無邪気さの奥にある、澄んだ直感。

蔵馬は、その鋭さを知っている。しかし、今は触れない。

 

「……そうか」

 

口元に手を添え、その中でふっと柔らかく息を吐いた。

 

 

葵は窓の外へ視線を戻す。

今日の風は、どこか柔らかい。

季節がゆっくりと、春へと動き始めている。

 

静けさの中、二人の間に言葉はなく、淡い余韻が揺れていた。

声にしなかった名前が、今もなお、胸の奥で静かに呼吸していることを――

蔵馬だけが、知っていた。

 




2週連続で短編更新しました。
次週よりアカシヤ本編14章の更新となります。
引き続き、お読みいただければ嬉しいです。
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