1周年企画なので、挿絵多め。最近書き下ろしたものですが、書いていて楽しかったです。
AIさんが蔵馬の画像も頑張って作ってくれるようになり、小出ししていければと思っています。
皆さんの中の原作の蔵馬像があるので、ほどほどに。
雨の匂いがする室内。
東の窓の外では濡れた街灯が淡く滲み、レースのカーテン越しに、夜の色がゆっくりと部屋へ沈んでくる。
葵は窓辺に立って、人間界の夜と雨を眺めていた。
蔵馬の部屋を訪れて早2時間。雨は一向に止む気配がない。
依頼品をわたしてすぐに帰ろうとしたところ、予想外の大雨。
濡れることが平気な彼女は、窓を開けて外に出ようとしたところで呼び止められた。
「病み上がりで、無理は禁物だ。雨宿りしていくといい」
先日負傷して回復したばかりの彼女を気遣うのは、建前上で――この男の本音は別のところにあった。
蔵馬は椅子に座り、開いた本へ目を落としていた。
知的好奇心を満たすには十分の内容、しかし紙の上の文字は半分ほどしか頭に入ってこない。滑るように脳内を抜けていく。
そして左側。窓辺に立つ彼女の気配に、神経が、五感が向く。
(……無意識に近いな)
彼にしては、長く視線を葵に留まらせている。もちろん自分でもそれに気づいていた。
しかし気づきながらも、そのままでいることを許している。
――今夜は、そんな自分に正直でいてもいいだろう。
彼女が、【見られることを意識しない】性質なのをいいことに……。
葵との時間が重なるたびに、かつて体験したことのない人間としての感情が立ち上がる。
その感情の波の端をつかみ、ある程度流れながらも彼は決して溺れない。
むしろ――
自分は今どう反応するのか。
この感情は、どこまで自分を変えるのか。
を静かに観てしまう。
目の前の人と同様に、自分自身も観察対象となる。
(……どうしようもないな)
一度視線を活字に戻すと、彼は内心で息を一つこぼした。
入れ違いで、今度は彼女がふいに振り返った。
「蔵馬」
呼ばれた声は、軽いのに逃げ場がないような純度を持っていた。
蔵馬が視線を向けるより先に、葵は少し身を乗り出し、まっすぐ彼を覗き込んだ。
「もしかして、何か私に言いたいことがあるのかしら?」
不意に近づいた距離に、蔵馬の指先が本の端で止まる。保っていた境界を、彼女はこうやって簡単に超えてくる。
息までは乱れない。だが、胸の奥がわずかに波を立てて揺れる。
(……こちらの気配を、見ていたのか)
彼女の瞳は、何かを試すというより、感じとったものを確かめるように澄んでいた。
その無邪気さが、かえって厄介だった。
【見られることを意識しない】性質だが、直感型のこの人は、見られていることに気づいていた。
「どうして、そう思うんだ?」
声も表情も、いつも通り穏やかだった。
それを受けて、葵は小さく首をかしげる。
「先ほどから、私を見る回数が多い気がするの」
蔵馬は一瞬だけ目を伏せた。
否定するには遅く、認めるには早い。
その曖昧さごと、彼はこの変化をどこか楽しんでいるのかもしれない。
「……そうか」
「ええ」
「君の動作を見ていた。怪我の後遺症もないようだね」
「あなたのおかげで、もう治ってるわ」
彼の言葉に、葵は近づけていた距離を戻す。そしてふわっと表情をほころばせた。
ありがとうと、小さな口から言葉が発せられる。
「……。」
しばらく沈黙での会話が続いた。
程よい距離感に戻り、互いの妖気が触れあう感覚。少し温度を伴った呼吸。
手を伸ばせば容易に捕まえられるのに、蔵馬の中にその選択は浮かばない。
窓ガラスに当たる雨音が、やや強く響く。
「あら。それだけかしら?」
沈黙を軽快に破ったその言葉は、彼の奥を刺激する。甘い疼きに近い、揺れる想いを生む。
蔵馬は息をひとつ漏らした。
困らせている自覚は、もちろん彼女にはない。それでも、確実にこちらを揺らしてくる。
(……面白いな)
奥から立ち上がるのは、苛立ちや焦りではない。
静かに興味が深くなる。
「君はどう思う?」
「……そうねぇ」
葵はふっと微笑んで少し考え始めた。正確には、考える仕草をして言葉を選んでいる。
彼女の中で、考える前にもう直感が答えを出しているだろうから。
象牙色の髪が肩先で揺れ、その奥から淡い花の香りがした。
蔵馬は本を閉じた。小さく乾いた音が鳴る。
彼が立ち上がろうとした時――
バリバリッ!
窓の外に白い閃光が走ると同時に、天地に轟く雷鳴が落ちる。
部屋の明かりが無くなり、辺りは暗闇に包まれる。星の光のない夜は、室内を照らさない。
葵が視線を送っていた方向にあった彼の気配は――消えていた。
彼女は静かに部屋を見渡す。ぼんやりと家具とカーテンが分かる程度の照度。
続けて、空が光るが男の姿は探せなかった。雷鳴が、足元に長く響く。
「……蔵馬」
(……。)
夜目が聞く蔵馬は、彼女の姿がよく見える。
対して、彼女は暗闇に慣れるまで少し時間を要する。
わずかに葵の足が前に出る。
ふと彼女は、自分のすぐ横の暗黒を見た。
「ここにいたのね」
声をかけると同時に、彼の温度が現れる。
蔵馬はふっと息をこぼす。
胸の内にあるものを言語化する前の、やんわりとした助走。彼の
闇から現れた彼の顔は、微笑んでいた。少しいつもと違う、繊細な色で。
「……君は、自分がどれだけ人を動かしているか、わかっていないのかもしれない」
突然の言葉に、葵は不思議そうに彼を見上げる。視界がこの暗闇に順応してくる。
目の前の男に、ふわっと笑いかけた。遠くで、再び稲妻が光った。
「あら、それはお互い様なんじゃないかしら?」
その言葉に、蔵馬は口を閉ざした。それは意味の是非に対してではない。
彼の言葉に対して、返したことに大きな意味を持っていたから。
こうやって、葵は時に自分の一歩先を行く。しかし後ろ向きな感情はない。
むしろ、その先を見てみたいと思う。
――どこまで気づくのか。
――どこで止まるのか。
そして、自分はそのたびにどう揺れるのか。
「……否定はしないよ」
ややあって、蔵馬はそう答えた。
葵は特別な意図はなく、いつも穏やかな表情で目を細める。
まるで勝敗のつかない遊びを、ひとつ終えたみたいに。
その顔を見て、蔵馬は思う。
――翻弄されているのは、確かに自分だ。
だが、わかっていてそれを受け入れているのもまた、自分だった。
(この人は、わざとではないのだろうな)
だからこそ厄介で、だからこそ目を離せない。
蔵馬はゆっくりと距離を詰めた。そして、彼女の手から本をそっと受け取った。
指先が触れる。
葵が、ほんの少しだけ瞬きをした。
それと同時に、部屋に明かりが戻ってきた。
「……続きは、また今度聞かせてもらうよ」
「続き?」
明るくなった室内に、彼女は数度瞬きを繰り返す。
蔵馬はわずかに顔を寄せて、澄んだ双眸をのぞき込んだ。
「君の瞳に、オレがどのように見えているのか」
葵は少し考えるように視線を上げ、それから彼に向って微笑んだ。
「たぶん、あなた自身が思っているより、ずっと面白いわよ」
その一言に、蔵馬は目を細める。
(……やはり、君は侮れない)
その感覚は、胸の奥をひそかに揺らす。
彼は、もう一度だけ彼女を見る。翻弄されながら、なおそれを見届けている。
その余裕さえ、彼女の前では少しずつ形を変えていく。
夜が静かに更ける。
その静けさの中で、確かに何かが動いていた。
雨は上がっていた。
短編もお読みいただき、ありがとうございます。
5/20は予定通り、本編14章の続きを更新します。