午後から降り続いた雨は、いつの間にか止んでいた。
東の窓の向こう、濡れた街の橙色の灯りが、時折ゆらりと揺れているのが、レースのカーテン越しに見える。
時計の針は、夜の8時を指している。
それほど遅い時間ではないのに、部屋には静かな眠りの気配が漂っていた。
ベッドの縁。
そこに座った葵は、いつの間にかこっくり、こっくりと舟を漕ぎ始めていた。
長い睫毛が伏せられ、細い肩がわずかに揺れる。
一輪の花が、静かに風に揺れているようだった。
(……珍しいな)
その姿を、蔵馬は少し離れた場所から静かに見つめていた。
手元には、魔界から取り寄せた品の包み。
中身を確認する手をふと止め、彼女の気配に意識が向いていた。
図書館の静かな片隅で、本のページをめくる途中でうとうとと眠り込む姿なら知っている。
けれど、自分の傍で、こうして気を許して眠り始めるとは。
(よほど疲れていたのか……それとも)
蔵馬の口唇に、ふっと笑みが浮かんだ。
関係が深まるにつれ、こうして隙を見せてくれる場面が増えてきた。
彼女にとって、自分が安全地帯になっていることを再認識して、体のどこかが音を立てる。
温度を含んだ彼の視線。
その奥には、抑えきれない感情と、ほんの少しのいたずら心が潜んでいた。
(さて……。どうしたものかな…)
花のようなこの人を、このまま眺めていたい。
でも、せっかく会えたのにすぐにこれだ。少し相手をしてほしいと、思わずにはいられない自分もいる。
蔵馬は包みをそっと棚に収めて、部屋の灯りを落とした。
暗がりにすぐ順応する妖狐の力を秘めた瞳に、ぼんやりとスタンドライトの明かりが浮かぶ。
その薄明かりの中、本棚から読みかけの一冊を取り出し、ベッドに腰を下ろした。
――スプリングが、ほんの少しきしむ音。
隣の葵に、その気配は届かない。
首を傾け、相変わらずゆっくりと舟を漕ぐように揺れる彼女。
小さく動く白い髪が、わずかな光を受けてほんのりと淡く輝いている。
(本当に……花のようだな)
その寝顔を見て、隠しきれない想いが溢れる。
このまま眠らせておくべきか、少しだけ起こしてみるか。
理性と男心の間でさまよいながら、蔵馬は静かに名を呼ぶ。
「……葵」
中性的で艶のある声。
「ん……」
葵は、ほとんど寝言のように応えるだけ。
細い肩が小さく揺れている。子どものように無防備で、心の壁がどこにもない。
蔵馬は静かに苦笑し、そっと身を寄せる。
彼女の耳元へ顔を近づけ、わざと声を落として囁いた。
「そんなに隙だらけだと、他の妖怪に襲われるよ?」
ゆっくりと紡がれる抑揚のある声に、びくりっと小さな肩が跳ねた。
はっと目を開けた葵は、夢と現実の境目にいるような表情で辺りを見回す。
寝ぼけた瞳が何かを探して、ようやく間近にある彼の視線と出会った。
「………蔵馬?」
掠れた声は、まだ眠りの余韻をまとったまま。
「寝不足だった?」
彼はそう尋ねながら、相変わらず涼しげな顔で彼女を覗き込む。
お互いの髪が触れそうな距離。
彼の瞳の奥には、言葉にしない労わりの色と、魔性の色が同時に淡く輝く。
「……ええ、少し」
そう答える声も、まだ現実から遠い。
虚ろな光を宿したままの瞳で、彼女は静かに目の前の男を見上げる。
「ここは、安心する?」
「……そうね…。安心するわ。蔵馬は、前に、頼ってもいいって言ってくれたから」
小さく呟いた彼女に、蔵馬は目を細めた。
もう少し遊び心で追い詰めたいところだったが、この人の素直に自分を信じる様子と、慎ましい甘えに、そんな気も失せてしまう。
薔薇の棘をすべて抜かれたようだった。
(……やれやれ。葵は、オレを扱うのがうまいな)
蔵馬は予定していた行動を変更した。
今日は彼女の傍にいて、静かに労わりたい――その流れに、しばらく身をおくことを選択した。
そっと腕を伸ばして葵の肩を包み込む。
驚かせないように、静かに、迷いのない動作で。
「………それじゃあ」
蔵馬は、細い肩を抱き寄せ、そのまま自分の膝の上へと導いた。
まだ夢うつつの葵は、視界がゆらりとうごめき、されるがままに従う。
軽く、ふわりとした重みが彼の膝に沈む。
トンと、かすかな音。
「ここで、寝たらいいよ」
囁く声は、柔らかく優しい。
それに応えるように、葵はゆっくりとまぶたを持ち上げる。
デニムの感触と蔵馬の体温、静かに心をくすぐる涼やかな匂いに更にほどけていく。
葵の大きな瞳が虚ろな光を映し、ぼんやりと彼を見上げる。
その視線の先には、深い双眸で彼女を抱きしめる蔵馬がいた。
表情を緩めながら、花色の滑らかな髪を触れる。
「こうしている時は、隙のある君でいていいから……」
「蔵馬は……眠らないの?」
葵は疑問に思ったことを、素直に口にした。
「……うん。オレはもう少し、ここで本を読みたいんだ」
そう言って、彼は右手に持った本を見せた。
葵はふわりと微笑んで、体の力を抜いて彼の膝に身を預けた。
「あなたの膝の上は、温かいわね……」
ぽつりと零れた呟き。
ほんのりと漂う声が、蔵馬の胸の奥をくすぐった。
(優しい匂い……。落ち着くわ…)
象牙色の髪が彼の脚に流れ、甘い花の香りを運んでくる。
懐かしく、どこか儚い匂い。
しばらくして、か細い寝息が耳元に届く。
花が夜の静けさの中でそっと息をしている。そんな錯覚すら覚えるほどだった。
蔵馬は左手を伸ばし、そっと彼女の額に触れた。
随分とひんやりとした感触に、わずかに指先が反応する。
(……冷たい…?)
窓の外も室内も、寒さを感じる空気ではない。
何気なく触れたはずなのに、その冷たさから胸に違和感という波がたつ。
夜の花が、朝日が昇るまでじっと蕾を閉じているようだが――。
本を脇に置くと、蔵馬は彼女の全身を観察した。
体に透けているところはないか、密かに怪我をしていないか、どこか患っていないか。
この人は、自分の体の変化に気づきにくいから。
(……考えすぎか…)
いつもより彼女の肌が冷たいだけ。けれど、不安はすぐには消えない。
葵は肩を小さく丸めている。
その体に、蔵馬はそっとベージュのブランケットを掛け、包み込んだ。
部屋には静けさが満ちている。
壁掛け時計の秒針の音が、やけにくっきりと耳に届く。
(……葵は、花そのものだな)
自然と、そんな言葉が立ち上がる。
花も眠る。昼は光を浴び、夜には静かに、根から命を吸い上げる。
葵の眠りも同じかもしれないと、根拠のない考えが脳裏をかすめた。
遠くで濡れた木々が風を受けて葉を揺らす音がして、思考はそこで止まる。
蔵馬は再び本を手に取り、ゆっくりとページをめくった。
膝の上の葵は、かすかな寝息を立てたまま、微動だにしない。
その体温と重みを確かめながら、言葉の海に意識の片割れを沈めていった。
――残りは、本の活字よりも、彼女の静かな呼吸のほうに耳を傾けながら。
本なんて、今はそれほど重要じゃない。
ページを開きはするが、左脳的に言語を理解する機能はあまり働かず、右脳で膝の上にいる彼女を感じることが優先される。
葵の寝息が、花のように小さく揺れていた。
花は夜に育つ。
眠りが彼女の命を支えているのなら、己はこうしてあればいい。
そんな想いを胸に沈めて、蔵馬は活字を追うことを再開した。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
葵の温もりと重みに意識を預けながら、ふと、時間の流れに耳を澄ませる。
時計の針が、静かに進んでいる音。
その音に気づいたときには、いつの間にか9時を過ぎていた。
薄明かりのもと、蔵馬がそっと指先で触れていた葵の頬が、ようやくほんのりと温かさを取り戻している。
(やっと……戻ったな)
彼は静かに本を閉じて、ローテーブルの上に置いた。
柔らかな音とともにページが合わさり、部屋の静寂が深くなる。
視線を落とすと、膝に眠る葵の寝顔がある。
冷たかった頬にほんのりと赤みがさし、穏やかな寝息が耳に心地よい。
透明感のある肌は、どこかこの世のものとは思えない、微かな気配。
花びらのように、触れれば散ってしまうのではないかと思うほど。
けれど、彼にとって好ましい手触りだった。
そのかすかな重みと熱が、確かに彼の膝に存在している。
(よく、寝ているな……)
今日の彼女は、いつも以上に疲れているようだった。
魔界での暮らしは聞いているが、自ら進んで普段の様子を話すことはほとんどない。
自分の知らないところで、何かを抱えているように感じることもある。
それさえも彼女の一部として受け止め見守っているが、胸の奥に、言葉にならない小さな疑問が時々芽生える。
彼の深い眼差しの中で、葵は眠ったまま微かに身じろぎした。
(……このままでも悪くないが)
蔵馬はふっと短く息を吐くと、ブランケットを少しずらした。
彼女の腕を片方ずつ丁寧に持ち上げながら、ゆっくりと紺色の籠手を外した。
白い腕があらわになる。
――それでも葵は起きない。
次いで、そっと両腕を彼女の体の下に差し入れる。驚くほど軽やかで、彼の腕の中にすっぽりと収まる。
そのまま静かに立ち上がり、ベッドの中心へと運ぶ。
足音すら立てず、空気の揺らぎさえ抑えるように、そっと布団をめくる。
そして葵を横たえる。
結い紐を外すと、白い髪が枕にふわりと広がり、薄い口唇からほっと息が漏れた。
「……。」
一瞬芽生えた欲求を胸の奥底に閉じ込めるように、蔵馬はベッドからおりた。
手早く着替えを済ませて、灯りを落とす。
青白い夜の光の中、彼の双眸が葵を見つめて煌めく。
そしてそっと隣に身を滑り込ませる。
伸ばした腕で葵の肩を抱き寄せ、背中に自分の手を重ねる。
ゆっくりとした鼓動が、手のひらに響く。
心地よい振動に、蔵馬の心臓が同じリズムを刻むようだった。
手で、肌で、胸で、全身で彼女の生を確認する。
(……可愛いな)
思わず零れた密かな独り言。
蔵馬は、ふっと静かに目元を緩めた。
幼い無防備さと、女性らしさが、絶妙に同居するこの寝顔。
それを独り占めしているという充足感――人間らしい経験だった。
蔵馬は、他の誰にも聞かせたことのない声で囁く。
「……おやすみ、葵」
(夢の中でも、君を探してしまうかもしれない……)
それは、ほんの戯言のようで。心の底からこぼれた想い。
静かな息づかいとともに、言葉を閉じる。そして彼女を胸の中に引き寄せた。
葵は気づく様子もなく、ただ安心して眠り続ける。
(何度でも、君が望むなら……この手で護ろう)
あとどれだけ共にいられるか、保証はない。
それは、葵の儚さも蔵馬の妖怪としての戦う性も含めて。
いずれ手放すときが来るとしても、それまではこの一秒を共にありたい。
指先に感じる柔らかな髪の感触。胸に触れる、か細い寝息。
その確かなぬくもりを感じながら、蔵馬は静かに目を閉じた。
時計の針が静かに進む。
二人だけの、深く、長い夜が静かに降りていく。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
かすかな朝の気配の中で、葵が小さく身じろぎした。
微かな寝息が止まる。まぶたの奥で、ゆっくりと意識の光が動きはじめる。
(……ここは……?)
そっと目が開いた。
見慣れた天井、やわらかな香り。
温かい――首の下と肩に感じる心地よい熱源。
次第に思い出す。
昨夜、蔵馬の部屋に来て、夜のうちに帰るつもりだったことを。
「……あれ……?」
小さく声を漏らしながら、上半身をゆっくり起こす。
しなやかな象牙色の髪が肩から胸元に流れ落ち、首筋に触れた。
目の前には、朝の柔らかな光を帯びた蔵馬の姿があった。
布団の上に体を預け、彼女の方に顔を向けている。
(……蔵馬)
起こさないように、ベッドから降りて窓から出ていこうと思っていたときだった。
気配が変わった。
彼は、静かに薄く目を開いた。
深い湖の底のような瞳が葵を映す。そして、静かに微笑んだ。
「……おはよう。ずいぶんと、気持ちよさそうに寝てたね」
飄々と、いつもと変わらぬ軽やかさをたたえた面立ち。
けれど、その奥には柔かい温度が滲んでいる。
葵はぼんやりと彼を見つめる。
まだ夢の続きかと思うほど、少し呆然とした表情で。
「……私……帰るつもりだったのに……。あのまま寝てしまったのね」
ぽつりとこぼれる言葉。
自分でも信じられないというように、まぶたを二、三度ゆっくりと瞬く。
蔵馬はふっと息を吐いた。
「あんなによく寝てたから、起こすこともできなかったよ」
少しからかうようでいて、優しい声音。
葵は目を伏せて、蔵馬が予想しないことを呟いた。
「昨日、飛影に……依頼品を渡しに行く予定だったの」
その言葉に、一瞬、彼は目をわずかに細めた。すぐにいつもの表情に戻り、淡々と答えた。
「……なんだ。それを気にしていたのか」
「寝てしまって、忘れてたの……」
「……まあ、飛影なら、山の上で一晩くらい平気だろう」
「……え?」
「フ。冗談だよ。彼なら心配いらないよ。この後行くといい」
答えながら、蔵馬は静かに上体を起こす。そして改めて葵を観る。
彼の言葉に少し驚きながらも、今後の行動を考えている表情は平常通り。
顔色、呼吸、妖気の状態など――昨夜より安定している。
彼に抜かりはない。
「ありがとう。そうするわ」
葵はベッドから降りようと体を動かすと、視界の端に揺れる自分の髪。
ようやく髪を下ろしていることに気づく。
部屋全体を見渡して、結い紐を探す。
彼の枕元近くに置かれているのを発見し、手を伸ばした。
そこで蔵馬は動く。その腕を引き寄せ、彼女の体を胸に収めた。
葵は小さく息をのみながらも、すぐに体を預けた。
しばらく柔らかい温度と、お互いの香りを深く感じる。
朝の穏やかな時間が流れていく。
やがて彼は口を開いた。
「いつでも……君が来たいときに、ここに来たらいいよ」
それを合図に、葵の視線が上がる。深い双眸と出会い、彼女は頷きながら微笑んだ。
「……ええ」
AI画像生成で籠手を描くと画質が下がるので断念中。
書いてて楽しかった回です。
次回より、アカシヤ本編の更新に戻ります。15章突入です。