マイペースに進めております。
次回は本編16章の予定です。温かい目でお待ちいただければ幸いです。
時系列は12章あたり。
気づけば蔵馬は、葵を自室の壁際へと導いていた。
――無意識だった。
足音はほとんど響かず、影のような動きだった。
少し冷えた宵闇の空気の中で、彼の指がするりと葵の指へ絡みつく。
絡め取るというより、滑らかに馴染むような仕草。
やがてその手を持ち上げ、壁へと触れさせる。
『どこにも逃がさない』
言葉はないのに、彼の行動が、瞳が雄弁に物語っていた。
そこに潜むのは愛ゆえの欲望。そして静かで繊細な優しさ。触れれば、壊れてしまいそうなほどに。
間近にある葵の瞳を、蔵馬は射るように見下ろした。
深い湖の底の光を宿したその眼差しは、いつもと変わらない冷静さを装っていた。
でも奥底では……確かに、熱が潜んでいる。燃え盛り、抑えきれぬもの。
「……葵」
低く、吐息に混じる声。
耳の奥をくすぐるその響きは甘やかで、切なく、そして抗えない熱を含んでいた。
声を発するだけで、胸を焦がすような危うさが深まる。
葵はその声にわずかに肩を震わせ、そして導かれるように瞼を閉じた。
それは、合図。ただの沈黙が、彼女の答えだった。
その小さな承諾に、蔵馬は息を呑む。
彼の中のどこかが揺れて、音もなく胸の奥がほどけていく。
その合図で、彼は一段境界を超えた。
花びらのように柔らかな口唇へ、彼は吸い寄せられるように触れた。
その感触はあまりに細やかで、触れた途端、長きにわたって抑えていた堰が静かに切れる。内側から押し寄せるのは、止めようのない激流。
最初の口づけは慎重で、薄氷を踏むように柔らかい。
だが、時間とともに熱が増していく。
舌先が葵の口唇をなぞり、その柔らかな輪郭を確かめるように触れた。
彼女が小さく声を漏らし、体がわずかに震えたのを感じたとき。
蔵馬は、普段なら抑える欲へ、いつもより大きく行動権を渡した。
動きが変わった。冷静な熱から、明確な熱へ。
口唇を吸い、ついばみ、絡め──そのすべてに、彼の抑えきれない、飢えるような想いがにじむ。
もっと欲しい。もっと深く触れたい。
それは誠実かつ、燃えるような渇望。心の奥底から、ただ一人を求めるもの。
葵の足が小さく揺らぎ、体の重心が崩れた瞬間。
蔵馬は即座に左手で腰を抱き寄せ、支えた。
その腕の力には、彼女をこの胸から離すまいとする、剥き出しの熱が宿っていた。
「……っ……あ……」
小さな吐息が漏れる。その音が彼の耳に届いた瞬間、蔵馬の呼吸も乱れ始める。
口唇を一度離すと、葵の足元から力が抜ける。
──床に触れる寸前、彼はその身を抱きとめるようにして包み込んだ。
酔芙蓉の香りが鼻先をかすめ、甘く残酷なまでに彼の本能を揺さぶる。
そのまま、彼女を支えながら、再び口唇を重ねる。
今度はさらに深く、甘く、炎が静かに燃え広がるような熱。
彼の舌が彼女の中に入り込み、探るように、確かめるように動く。
獲物を逃さぬ妖狐の本能を思わせる攻め。
普段の穏やかさとは違う、彼の一つの側面。
妖しくも品のある好戦的な愛情が、惜しげもなく葵に与えられていく。
どれほどそうしていただろう。
ようやく、蔵馬は名残惜しげに葵の上唇を吸い、ゆるやかに口づけをほどいた。
夜の静けさが戻る。
吐息だけが彼の部屋に響き、ひんやりとした壁に淡く反射する。
蔵馬の呼吸は乱れていた。目の奥に宿るのは、渇望と驚き、そして彼女を自分の欲で飲み込んでいないかの確認だった。
葵を抱く腕の温度が、そのまま彼の揺らぎを伝えていた。
口唇が離れた瞬間、葵の胸は大きく上下していた。
自分の呼吸音と鼓動が、やけに大きく聞こえる。頬は熱を帯び、指先まで痺れるように震えていた。
(こんなふうに、強く求められるなんて……)
初めてだった。驚きや戸惑いもある。けれど、恐れはなかった。
彼が抱く熱は、ただの衝動ではない。葵はそれを直感でわかっていた。
彼の中にある愛ゆえの欲望と、妖狐としての本能。
その多面性のはざまで揺れながらも、彼女に向けられた想いは、偽りなくまっすぐだった。
その激しさに、まだ生まれて間もない心は追いつかない。
経験のない身体反応に、どう応えればいいのか分からない。
けれど、拒む理由もまた見つからなかった。
彼の瞳に映る自分を見てしまえば、それだけで答えは決まってしまう。
怖さよりも、安堵があった。
圧倒されながらも、不思議と胸の奥は静かに温かく満たされていく。
「……く、蔵馬……」
かすれた声が自然に零れ落ちる。
目の前の男を呼ぶ声に、自分でも驚いた。まるですがるような、甘えるような響き。
こんな自分を、初めて知った。
彼の腕に包まれながら、葵は悟る。
――これは、試されているんじゃない。
ただ、彼が彼である証を、全身で示されているのだと。
そして、その証を恐れることなく体験すること。
それが、今の自分にできることだと感じた。
少しずつ冷静になった蔵馬は、興奮と熱を冷ましていた。
目の前の葵は、浅く震える呼吸を整えながら、夢の途中に迷い込んだような瞳で彼を見上げていた。
その瞳の奥には、彼が与えた淡い熱を宿している。
ほんの先ほどまで触れていた口唇は、熟れた果実のように赤く染まり、わずかに腫れて艶を帯びていた。その姿が、彼の体を締めつける。
(……やりすぎだ)
その思いは冷や水のように、胸の奥底に浸透していく。
欲望に任せた自分の振る舞いが、彼女の心を怯えさせはしなかったか。
その不安が、鉛のように重く沈む。
「……すまない、葵。止まらなかった……」
吐息の混じる声はかすれ、普段の彼には似つかわしくないほど弱さを感じた。
葵は瞬きをひとつしてから、ふっと微笑んだ。そして小さく首を振る。
「……ええ。少し驚いたわ」
その一言に、蔵馬の張り詰めていた心は、解かれた糸のように緩んだ。
胸に広がるのは、穏やかな温度。
彼女を傷つけたくはない。
それでも、どうしても、この手で抱き寄せ、触れずにはいられなかった。
――抗いがたく、美しく、そして何よりも欲してしまう存在だから。
蔵馬は、まだ腕の中にある葵の体を、そっと引き寄せたまま、動かなかった。
この余韻に息を潜めなければ、今見ている光景も、感じている温もりも、すべて霧散してしまうかのようで。
二人の間に沈黙が続く。
互いの呼吸音だけが静かに重なり、まだ熱の残る空間を静かに満たしていた。
蔵馬は葵の髪に頬を寄せる。微かに甘く、どこか懐かしい花の香り。
夜気で少し冷えたその髪は、指の間にさらさらと流れ落ち、柔らかな手触りが心の奥の硬さをひとつずつ溶かしていく。
手先でその髪をそっとすくい取り、途切れることなく撫で続けていた。
葵を……傷つけたくはなかったのに。
その思いがふと甦り、彼はゆっくりと腕をほどく。
距離を取り切ることはできなくて、蔵馬は彼女の顔を両手で包み込む。
葵は何も言わず、ただ静かに彼を見つめ返した。
――この人は、それでも変わらない。
蔵馬は視線を伏せ、そっと彼女の口唇に目を落とす。
先ほどまで、自分が熱に浮かされたように求め続けた場所。
わずかに赤みを増し、触れれば再び痛むかもしれないほど繊細に見えた。
「……ごめん、葵」
静かに、もう一度だけ告げる。
謝罪の中に、どうしても止めることができなかった渇望が内包している。
葵のまつ毛がわずかに揺れ、その目は彼を受け止め続けていた。
言葉以上の答えとなって、彼の胸に深く沁みていく。
(……オレは、これほどまでに、葵を……)