本編をある程度読み進めてから読むと、蔵馬の内面理解が進むと思います。
照明を落とした室内。
レースのカーテンの向こうに、夜風とともにそっと揺れるたおやかな影。
指先でカーテンを押しやると、淡い月光の中に、静かに立つ葵の姿があった。
「こんばんは、蔵馬」
軽く首を傾げて微笑む彼女の声は、夜の静けさによく馴染んで柔らかく響く。
その一声だけで、彼の部屋に清らかな気配と共に、ひそやかな温度の変化が生まれる。
「……いらっしゃい」
彼もまた穏やかに応じる。
東の窓は、それは彼にとって、閉ざすべき境界ではない。
彼女に開かれた、通い路。時々、黒い友人も土足で出入りする。
鍵をかける必要はない。
葵は足袋型スニーカーを脱ぐと、軽やかに窓枠をまたぐ。
その所作は、何度もこの部屋を訪れていることもあって、迷いなく自然だった。
フローリングの床に敷かれた柔らかなカーペットが、彼女の足音を吸い込んだ。
そして部屋の空気が、ふんわりと変わった。
どこか懐かしい、少し甘く落ち着く花の香り。
魔界の気でもなく、人間界の気でもない。
葵という存在だけが持つ、無垢な「
蔵馬は目を細め、胸の奥でその変化を受け取っていた。
彼女は窓の近くの本棚に目を向ける。
整然と並ぶ人間界の文学書、西洋・東洋医学書、宗教学、哲学、歴史など。
その一冊一冊を指先でたどるように、視線が静かに滑っていく。
葵も何度か読ませてもらっていた。
「やっぱり……落ち着くわ。この部屋」
葵はふわりと微笑み、懐から小さな包みを取り出して、彼の依頼品を手渡した。
それは、よろず屋で頼んでいた魔界の薬草数種類。
受け取る指先が一瞬だけ触れ合う。
その瞬間、淡いぬくもりが月光色に染まって彼の皮膚に残った。
窓から注ぐ光は、レースのカーテンを透かして床に柔らかく模様を描いている。
言葉がなくても、二人の間には穏やかな空気が流れる。
時の川のように、たゆたうように、緩やかに。
「今夜は……ゆっくりしていける?」
思わず漏れた問い。自分の口から出たことに、蔵馬自身がわずかに驚いていた。
誰かを引きとめるなど、滅多に言わない言葉。
彼女の意志に委ねる問いかけの中には、彼の胸の内に芽吹いた小さな願望が含まれている。
(もう少し、ここにいてほしい……)
曖昧だが確実な『特別感』が、彼の中で育ちつつある。
それを認めることに、まだ少しの戸惑いと、心地よい興味があった。
葵は目を細め、月明かりの中で小さく頷いた。
「ええ。しばらく、ここにいたいと思って」
その一言に、蔵馬の胸の奥で何かがほどけていく。
彼が長い間感じることのなかった、柔らかな安心。
戦いの中にも、計算の中にもなかった、優しい満ち足りた感覚。
葵はふわりと微笑み、いつものように白いローテーブルの前へと歩み寄る。
その傍ら、二つ置かれたクッションのひとつに腰を下ろした。
彼女が座ると、その小柄な体を、ふかりとしたクッションが優しく受け止める。
「あなたに、聞きたいことがあったの」
蔵馬は、自然と視線を向ける。
彼女の瞳は曇りのない、星空のような深さ。
その奥で、葵は何かにそっと触れようとしているのに気づく。
彼の本能は、緩く身構えた。その豊かな感性を受け止める礼儀のように。
「蔵馬は……ひとりでいる時、何を考えてるの?」
彼は一瞬、返事を忘れたように黙り込んだ。
(……そんなこと、誰かに聞かれたのは、いつ以来だろう)
机の上の開いたままの本に視線を落とし、ページの文字が霞む。
薄く息を吐いた。
返す言葉を探している自分に気づく。
「……君らしい質問だな」
やんわりと苦笑しながら窓際を離れる。
ローテーブルの向こう、葵の正面に静かに腰を下ろした。
ふわりと漂う彼女の花のような香り。少し甘く、どこか懐かしくて、心が丸くなっていく。
「ひとりでいる時か……」
視線を落とし、床に描かれたカーテンを透かしてできた淡い光の模様を見つめた。
「昔は、いつも先のことを考えていた。生き残るために、次はどんな手を打つべきか……」
いつもより低く、静かな声。
ほんのりと影を帯びて、かつての妖狐としての生を思い返しているのが葵にもわかる。
しかしその顔に苦しさはなく、淡い距離感の中で、悠久の思い出を確かめているだけのようでもあった。
「今は……違うな。そんなに急いで何かを求めることも、なくなった。何も考えず、ただ時が流れるままに身を任せる……。そんな時間が増えた」
今宵のような穏やかな口調。
人間として、南野秀一として生きる今だからこそ生まれた言葉だった。
「そういうときは、ぼんやりとしているの?…ふふ。あなたがそうしている姿、ちょっと想像つかないわ」
葵の口唇がやわらかく動く。彼の心の輪郭にそっと触れるように。
蔵馬は目を細め、小さく笑った。
「ぼんやりしていることも、時々ある。でも、もう少し言うと、考えるより、感じる時間が増えたってことだね」
「感じる……のね」
葵は彼を見つめたまま、そっと頷いた。
「それは、あなたの傍に、家族のように誰かがいるから、できるようになったのかしら?」
彼女の問いかけに、蔵馬は一瞬だけ目を伏せた。
そのわずかな沈黙が、何より雄弁だった。
「……そうかもしれないな」
胸の奥底からゆっくりと浮かび上がってきた、誤魔化しのない言葉。
人間に憑依融合して、家族というものを知り、愛情を受け取ることを学んだ。
全て一人でことをなしてきた蔵馬にとって、心の距離が近い存在と共にあることは、思考の領域を超えて感情の器を広げることになった。
目の前の花のような微笑みに、蔵馬は心のどこかでまたひとつ、長く閉ざしていた扉がわずかに軋む音を聞いた。
(こんな自分もいたんだな……)
戸惑いも、喜びも、ほんの微かに混じって胸の中を巡る。
彼女の隣にいるだけで、こうして素直な言葉がこぼれる自分に、驚いていた。
葵はそっと彼の顔を覗き込むように、視線を送った。
月の光と同じく澄んだ瞳が、純粋な好奇心で輝き、蔵馬を映している。
淡い橙色の照明の中、彼女はまた問いを重ねた。
そう、彼の予想だにしないことを。
「ねえ…蔵馬。どうして人って、大切なものほど隠そうとするのかしら?」
蔵馬の表情が、かすかに揺れる。内面はその比じゃない。
問いかけは自分に対してではない。一般的にはどうかと尋ねている。
しかし、彼は自分に言われたように感じてしまう。
相手が純粋で、透明な鏡のような存在だから。
心のどこか深い場所に、そっと針を落とされたような痛みが走る。
自然と視線が、カーテン越しの夜空に向かう。
「………。」
言葉がしばし途切れる。
どんなに取り繕っても、今夜だけは隠せない気がした。
(……どうして、だろうな)
自分でもすぐに答えの出ない問いだった。
単純に言えば、答えはもう出てる。複雑に言うと、もう少し腹に落としこみたい。
国を上げる野心を貫くために、盗賊は魔界で最もポピュラーな選択肢だった。
蔵馬の妖狐としての本能と、植物を操る能力は相性が良かった。
盗賊として、妖狐として、誰よりも「隠し物」を暴き、奪うことで生きてきた。
それなのに、自分の内にある大切なものほど、固く、深く、誰にも触れさせたくない。
本当に大事なものを隠すことは、彼の本能であり防衛だった。
その矛盾のようにも見える生き方を、葵は透明な感性で見透かしているようだった。
一度だけ短く息を吐く。
そして、遠い記憶の底から、ようやく言葉を掘り起こす。
「失うのが……怖いんだろうな」
静かに、低く、胸の奥から零れる声。
それは言い訳ではなく、事実を認める色を持っていた。
「見せれば、壊れるかもしれない。汚れるかもしれない。だから隠す。……本当に、大事なものほど」
途切れる言葉。
けれどその先は言わなくても、彼の心に映る景色が読み取れた。
過去、戦い、孤独、そして、人間としての生。
葵は黙って、その言葉を受け止めていた。蔵馬の声、言葉を超えた領域にある感情の揺れも。
彼女の目は、淡い照明の中でも底が見えるように透明で、深く、優しい。
何も問い返さず、責めず、ただ彼を穏やかに見つめている。
その視線が、蔵馬の言葉の続きを引き出した。
「でも……」
彼はふっと微かに笑った。
苦いような、どこか温かな深い双眸が、葵を見つめた。
「隠していても、見つける人がいるんだ。君みたいに……」
彼は口元に手を置いて、愛しさも含めた感情の揺れを隠す。
(……どうしてだろうな。君の前だと)
思いがけず、本音が零れていく。
それを止める気に……今夜は、不思議とならなかった。
声に出さなくても、彼女は感じ取る。
形にしなくても、その気配をそっと拾ってしまう。
(……もう、隠し通すことは、できないのかもしれない)
そんな予感が、静かに芽吹いていた。
奇妙なほど自然に、それが初めから定められていたかのように。
葵が、ふっと微笑んだ。
そして、蔵馬の意識の外側からするりと入ってくるような、予想もしなかった言葉を落とした。
「隠していても、見つけるなんて。まるで盗賊のあなたと同じね」
「……っ」
蔵馬は小さく息を止めた。軽く、肩の力が抜けた。
どこか苦笑いにも似た微かな息が、喉の奥でほどけた。
完全に一本取られた。
自分が長い時をかけて極めたもの。そして見せないように、悟られないように、何重にも編み込んできた「本音」という名の隠し場所。
それを彼女は、あっさりと見つけてしまった。
(皮肉だな………)
そしてなんて、優しい逆転だろう。
怒りも、照れも、困惑もない。
胸の奥に湧いたのは、不思議な心地よさ。
『あなたは隠しているものを見つけるのが得意なのに、自分の大切なものは……』
そう言われた気がした。
批判や嘲りではなく、『蔵馬らしさ』をそのまま受け止める棘のない声。
ただ、優しく、事実だけを告げている。
ほんの一瞬、静寂が降りた。
けれどそれは気まずさでも、拒絶でもない。
月の光に包まれたような、透きとおった心地よい「間」。
(この人は……オレの矛盾のような防衛さえも、受け止めてくれるんだな)
蔵馬は、ふっと微笑んだ。
ほんの少し、目を伏せ、呼吸を整えるようにしてから、静かに言葉を継いだ。
「……本当に、見つけるのが上手だな。君は」
それは認めたくないような、でもどこか誇らしい敗北宣言。
盗賊として、そして人としての蔵馬が、彼女の眼差しに心を許しかけている。
そんな、かすかな予感を秘めた言葉だった。
胸の奥に、ふわりと淡い波が立つ。
不意に、葵の次の言葉を待つ自分に気づいた。
どんな色で、どんな音で、自分に触れてくれるのか。
「……それじゃあ、私は、これからもここに来るわ」
潤いのある声が、蔵馬の体に降りたつ。
「もしいつか、あなたが隠さなくてもいいと選ぶ日が来たら。そのときの蔵馬を……私は知りたい」
その言葉が、今夜の柔らかい月の光のように胸に沁みた。
温かくて、切なくて、傷にそっと触れる絹のように。
それは「今のあなたでもいい」、「でも、きっと変わると信じている」という余白のある優しい予告だった。
蔵馬は深い眼差しを葵に向けた。
胸の奥で、小さな音がした気がする。
それは長く閉ざしていた扉の、かすかな軋み。
「……うん。いつでも、ここに来てくれたらいい…」
静かに、言葉がこぼれた。
隠さなくてもいい場所。
その扉の隙間から、夜の光が細く差し込んでいた。
(……隠さなくてもいい、か。いつか、本当に…)
蔵馬の心に、そっと月光が満ちていく。
この後、二人は優しい沈黙の中、しばらく共にあった。
ハーメルンで作品を投稿し始めてから、短編を思いついて少しずつ書き進めています。
本編のあの頃、こんなこともあったんだと自身が振り返れるのが、楽しみでもあります。
幽遊白書好きの方、蔵馬好きの方に届いていれば嬉しいです。
当方のオリジナルキャラ、葵も応援していただけると喜びます。