アカシヤー蔵馬に咲いた花ー 短編   作:hazeleye

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時系列は4章あたり。
女子二人の、息抜きのような緩い霊界の旅をご覧ください。


葵とぼたんの霊界探訪記 前編

霊界案内人のぼたんは、明るい桃色の着物を身につけ、鮮やかな水色の長い髪を頭の高い位置で一つに縛っている。表情はいつも明るく、人懐っこい笑顔が印象的で、人間界でいうところの女子高生の見た目に見える年齢だ。

以前彼女は、枉鵬の指示で毒性の強い魔界植物の調達を葵に依頼していた。

その結果、葵は霊界で重傷を負った。

もちろん、ぼたんは枉鵬の陰謀を知らず、利用されただけだった。

 

傷が癒え、再び霊界の地に足を踏み入れた葵を待ち受けていたのは、ぼたんの涙ながらの懇願だった。

 

「どうしても、どうしても償いをさせておくれよ〜!」

 

ぼたんの必死な声に、葵は柔らかく微笑んだ。

その微笑みは、悲しみや痛みなどのネガティブな感情がすでに彼女の胸にないことを物語っていた。

 

「それなら、まだ行ったことのない霊界の場所を案内してほしいわ」

 

その言葉に、ぼたんはぱっと顔を輝かせ、両手を高く挙げて喜んだ。

 

「まっかせて!いいとこ、たくさん知ってるんだから!」 

 

後日、ぼたんが提案してきたのは、葵がまだ足を踏み入れたことのない霊界の隠れた名所を巡る日帰り観光だった。

これまで、霊界は彼女にとって任務と知的探求の場であり、その広大な景色を体験する機会はなかった。

 

「ふふ。霊界を観光するなんて、なんだか新鮮。楽しみだわ」

 

葵の足取りは軽く、いつもの任務の時とは違って心の余白に静かな風が吹いていた。

二人はやがて、淡く光る霊界の門をくぐり、広がる風景の中へと歩み出した。

 

 

最初の目的地は「忘却の鐘堂(しょうどう)」。

霊界の片隅に、ひっそりと佇む古い堂だった。

空は淡い鈍色(にびいろ)の雲に覆われ、静かな雨がしとしとと降り続いている。

けれどこの雨は、重さも冷たさもなく、霊気のように肌をかすめるだけだった。

 

「ここの雨はね、あんまり濡れないんだよ。気づくと服も乾いてるから」

 

ぼたんの声に、葵は微笑みながら頷く。

二人は傘をささず、しっとりとした空気の中、石畳を歩いていく。

足元を流れる雨水は、小さな川のように道をつくり、そこに映り込むのは、葵の象牙と桃色の髪とぼたんの鮮やかな水色の髪。

風が吹き、ふたつの色が淡く揺れていた。

 

 

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鐘堂へ続く緩やかな坂道には、霊界特有の美しい花々が咲き乱れていた。

その色も香りも、生前の感情の名残から生まれたものだという。

 

ある場所に咲くのは、別れの余韻を写し取った儚い薄紅の花。

その花びらは雨に濡れ、今にも溶けてしまいそうに繊細だった。

別の場所では、祈りのように小さく震える青い草花が、風にそっとそよぎ、雨粒がその葉に柔らかく弾けていた。

 

 

「葵ー。ここ、ちょっと足元に気をつけてねー」

 

先を行くぼたんが、振り返って声をかける。

その先には苔むした小さな窪み。うっかり踏み外せば滑ってしまいそうだった。

 

「わかったわ」

葵はこくりと頷き、ゆっくりと歩みを進めた。

一つ一つの花、一つ一つの石畳の表情、雨粒が水面に描く小さな波紋。

そのすべてを心に刻むように。

 

(普段のしっかり者の印象と違って、なんだか可愛いさね)

 

ぼたんはそんな彼女を眺めて、桃色の着物の袖口で口元を隠して、ふふっと微笑む。

 

やがて、鐘堂にたどり着いた時。

それまでの鈍色の空に、微かな光が差し込んだ。

雲の切れ間から、淡い陽光がこぼれ落ち、雨上がりの霊界を優しく照らす。

そして、風に乗って、遥か遠くから、かすかな音が聞こえてきた。

それは低く深く、そしてどこか懐かしい響きを持つ、鐘の音だった。

 

「……この音は?」

 

葵の問いに、ぼたんは堂の奥にある古びた鐘を指さした。

 

 

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「あれが『忘却の鐘』さ。生きとし生けるものの記憶の奥に、そっと寄り添ってくれる鐘なんだよ」

 

その音色を聞いたからといって、何もかも忘れるわけではない。

忘れたいと強く願った者にだけ、ほんの少し、記憶の輪郭を、やさしく撫でるようにしてくれる。

 

「生前の苦しい記憶、辛い思い出って色々あるだろ?。それを無理に消し去るんじゃなくて、その角を丸めて、和らげてくれるような慈悲深い鐘なんだよ」

 

ぼたんが説明している間も、鐘堂の傍らには、この世から解放された霊体たちが、次々と鐘の傍に向かっては、順番に手を合わせて祈っている。

 

この世を去ってなお、忘れたいことがある。その事実に、葵は静かに向き合っていた。

 

「試してみるかい?」

 

ぼたんの問いに、葵はしばらく黙り込み、その透き通るような瞳を鐘堂の古い(はり)に向けた。そして、ゆっくりと首を横に振った。

 

「私は、まだ生まれて間もないから。忘れるほどのものもないの」

 

彼女の声は、穏やかでありながら、確固たる意志に満ちていた。

 

「私が出逢ったもの、風や、音、言葉、誰か、感情。それがどんなに痛みを伴っていても、全部、私が感じたことを忘れずにいたいわ」

 

「相変わらず悟ったように言うんだね。ま、葵らしいさね」

 

ぼたんは肩をすくめ、どこか安心したように微笑んだ。

 

「じゃあ、せっかくだから鐘の側まで行ってみようか。音の揺らぎだけでも、感じてみなよ!」

 

葵はぼたんの後ろをついていく。

鐘の少し離れた所に、小さな石の長椅子があった。

雨に濡れていたが、乾いて陽のあたる部分もあり、ふたりはそこに並んで腰を下ろした。

 

言葉もなく、ただ霊界の空を見上げながら耳を澄ませる。

 

遠く、そして近く。

重く、厳かで、そして優しく。

 

霊気を帯びた鐘の音は、まるで幻聴のように空間に広がり、聞く者の心に深く染み渡っていく。

その響きは、彼女の中にあるすべての記憶を、痛みも喜びも、苦しみも光も、「そのままでいい」と、そっと囁いてくれる、そんな温かな音色だった。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢ 

 

 

忘却の鐘堂を後にした葵とぼたんは、雨上がりのしっとりとした細道を歩いていた。

空気は湿り気を含み、ひんやりとした冷気が肌にまとわりつく。

霊界特有の静謐な気配。世界そのものが深く眠っているような、何とも言えない沈黙が二人を包んでいる。

 

道の脇からは、ふわりと金木犀にも似た淡い香りが立ち上り、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。

石畳は雨に濡れ、ほのかに光を帯びて足元に広がっていた。

歩くたび、二人の足音は柔らかく吸い込まれ、その余韻が静かな空間に消えていく。

 

「ねえ、ぼたん」

 

葵が立ち止まった。その瞳は、霧の奥に隠れる景色をじっと見つめている。

見えないものを感じ取ろうとするかのように。

 

「ん? なんだい?」

 

「この霊界って……まるで誰かの思い出でできているみたいね」

 

その言葉に、ぼたんは目を丸くし、そしてふっと笑った。

 

「へぇ、あんたは面白いことを言うんだねぇ」

 

「コエンマにも、同じように言われたわ」

 

葵が見つめていた霧がゆっくりと晴れていく。

その向こうに現れたのは、人間界の古都を思わせる佇まい。黒瓦の屋根、細やかな木格子、美しい漆喰壁の一軒の茶屋。

入り口には、藤の花を模した暖簾が優雅に掛けられ、風にひらひらと舞っていた。

 

 

「ここが二つ目の場所、『うつしよ亭』だよ!」

 

ぼたんが両手を広げ、弾むような声で茶屋を紹介した。

 

「ここはね、現世と霊界のあいだに、ぽっかりと浮かぶ茶屋なんだ。だから『現世(うつしよ)』っていうの。いろんな霊体が、ここに記憶をほどきに来るんだよ」

 

古びた引き戸をくぐると、外のひんやりとした霊気とは対照的に、ふわりと温かな空気が肌を包み込んだ。

茶香炉からは、甘く、ほろ苦い香りが漂い、鼻腔をくすぐる。

 

葵はゆっくりと廊下を歩き、座敷に足を踏み入れる。

磨き上げられた床板のつややかな光、やわらかな座布団の感触。

どれも懐かしく感じる。

 

「ここ、暖かいわ……」

 

葵は、体中に広がる温もりに、小さく息を吐いた。

 

「でしょ? おすすめはね、生前好きだった味の茶菓子。自分で思い浮かべると、それが出てくるの」

 

「まだ生きてるけど、私にも出てくるのかしら?」

 

「誰かの記憶が手伝ってくれるから大丈夫!」

 

ぼたんが漆塗りのお盆を差し出す。

葵は静かに目を閉じ、まだ形にならない『懐かしさ』に心を委ねた。

すると。

お盆の上に、ふわりと色とりどりの小さな金平糖が現れた。

桃色、澄んだ黄色、淡い白、みずみずしい緑……まるで宝石のように、光を柔らかく反射している。

葵はぱっと顔を輝かせた。

ぼたんに促されるままに、彼女はそれを口に入れた。

 

「……これ、初めて食べたのに、なんだか懐かしい」

 

指先でひとつつまみ、光に透かす。

その透明な小さな結晶の中に、誰かの想いが宿っているような気がした。

 

「あんたは、感受性がとても素直なんだねぇ」

 

ぼたんがそっと茶をすすりながら言った。

葵もまた、湯気立つ茶碗を手に取り、香りを胸いっぱいに吸い込む。

温かさが、ゆるりと心の奥まで染みていく。

 

「ねえ、ぼたん」

 

再び、葵が問いかける。

 

「なに?」

 

「このうつしよ亭は、訪れたものが記憶をほどきに来るって言ってたわよね。それは、心の奥の、まだ名前をつけられなかった想いが、そっと湯気になって……空に還っていくように感じるわ」

 

ぼたんが小さく頷こうとしたその時。

茶屋の奥、煤けた戸の向こうから、墨色の着物をまとった一人の年配の女性が、ゆらりと現れた。

彼女はこの空間そのものに溶け込んでいるかのようだった。

 

女性は何も言わず、葵の隣にそっと座る。

口元に微笑みを浮かべると、やさしい声で言った。

 

「あなた……少しだけ人間みたいね」

 

「そうかしら?」

 

葵は、瞬きを繰り返しながらも、その言葉にどこか親しみを感じた。

 

「あなたは……『誰かを大切に想った心』を知っている。どんなに妖の顔をしていても、人のように温かい香りがするわ」

 

その言葉が、葵の胸にやさしく、深く沁み込んでいく。

それは、彼女が蔵馬との出会いによって知った、新たな感情の輪郭をなぞるようだった。

先日負傷して、彼が介抱してくれた時の彼の言葉が耳に残っている。

 

「特別な用事がなくても、来てくれていいよ。もっと…気軽に」

 

この言葉の後に生まれた、名もなき想いの感情に、そっと触れるものだった。

 

(……あ、そうだわ)

 

彼の顔を思い出したとき、また別の言葉もよみがえった。

葵は懐からサクラガイの容器を取り出し、中身を見つめる。

先日蔵馬からもらった練薬だった。

 

「それは何だい?ずいぶんとすごい色だねぇ」

 

ぼたんが目をしぱしぱさせながら、覗き込む。

 

「お守りよ」

 

葵はふわっと笑って、練薬を指に取り、そっと口に含んだ。

 

 

 

その日、葵はうつしよ亭で三杯の茶を飲んだ。

 

ひとつは、芽吹き始めた温かい自分の心のために。

ひとつは、金平糖に宿っていた、かつての誰かの温かい記憶とともに。

そして、もうひとつは、遠く離れた場所にいる、かの人を想って。

 

最後の茶を飲み干したときも、ほんのりとした甘さと、胸の奥に灯った温かな光は消えずに残っていた。

 

「ありがとう、ぼたん」

 

葵は、心からの感謝を込めて言った。

 

「え? どうしたんだい?急に」

 

ぼたんは、突然の言葉に目を丸くする。

 

「案内してくれてよかった。ここで過ごした時間は、たぶん私の中で、ずっと灯りになると思うの」

 

ぼたんが「へへ」と照れくさそうに笑い、藤の花を模した暖簾をくぐって外へ出た。

その明るく柔らかい後ろ姿を、葵はゆっくりと追いかける。

 

霊界の旅は、まだ続く。その足取りはもう、単なる観光ではなかった。

それはどこか、懐かしき誰かの心のなかを、そして自分自身の心の奥をたどる旅となっていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 




ぼたんは私の好きなキャラクターです。葵とは対照的な性格で、二人のやりとりは微笑ましく書いていて楽しめました。

霊界にこんな世界があるかも?という想像で、書いています。
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