アカシヤー蔵馬に咲いた花ー 短編   作:hazeleye

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葵とぼたんの霊界探訪記 後編

うつしよ亭を後にし、葵とぼたんは、雨に濡れた石畳をゆっくりと歩いていた。

辺りには、夕暮れの静かな帳が降り始めていた。

霊界特有の時の色。それは人間界の茜とも群青とも違う、淡く澄んだ藍色。

空一面が、まるで透明な絹を重ねたような滑らかなグラデーションに染まりつつあった。

 

その色彩に包まれながら、葵の心にもまた、ひとつの深い静けさが広がっていく。

見上げれば、天の高みに浮かぶ光の帯が、霊界の空に揺らめいていた。

どこまでも遠く、限りなく近い、不思議な感覚。

 

「最後に、もう一か所だけ案内したいところがあるんだ」

 

ぼたんが足を止め、柔らかな声で振り返った。

その声音には、それまでの明るさとは違う、どこか特別な、慈しむような響きがこもっていた。

 

「この旅で、きっと一番静かな場所だよ。だけど……もしかしたら、一番深くて、一番優しいかもしれない」

 

導かれるように歩みを進めた二人は、やがて冥府の端に辿り着く。

そこは、魂たちの世界と霊界の境界に位置する「冥府の見晴らし台」。

別名、月見台だった。

人間界の月を、最も近くで見ることができる、霊界でも特別とされる場所。

 

眼下には、遥かに広がる冥府の地形。

静謐な闇に沈む湖は、まるで漆黒の鏡のように月の光を映し、星々の粒が水面に散りばめられた宝石のように瞬いている。

遠く、起伏する大地の輪郭も、月の黄色の光に浮かび上がっていた。

 

冥府とは、魂の記憶と感情が漂い、浄化され、そして普遍的な意識が交錯する、静かで深遠な領域だった。

 

「この冥府の見晴台はね、ずっと夜のままなんだよ」

 

ぼたんの声が、月明かりの中に溶ける。

 

「……美しいわね」

 

そこにある月光は、全てを凍てつかせる冷たさではなく、万物を優しく包み込むような慈愛を帯びていた。

 

見晴らし台には、古びた石造りの欄干(らんかん)が設けられ、縁側のように広がっていた。葵はそっとそこに立ち、目の前に広がる広大な景色に息を呑む。

 

「……なんて静けさ。音が聞こえないのに、何かに包まれているようだわ」

 

その声さえ、すぐに空気に吸い込まれていく。

風も霊気も、ここではほとんど感じない。

ただ、巨大な月の光だけがこの場を満たし、魂たちの囁きが微かに流れているようだった。

 

「そう。ここは魂の夢が通り過ぎる場所なんだよ」

 

ぼたんは少し遠く、冥府の彼方を見つめながら穏やかに続ける。

 

「忘れられない記憶とか、残してきた気持ちとか……そんな想いの強いものが、夢のかたちになって、ここを流れていくの。生きているものも死んだものも、人間も、動物も、妖怪も。どれも優しい色をしているんだ」

 

彼女は、見晴らし台の隅に置かれた古びた望遠鏡を指差した。

精巧な細工が施され、長い年月を経てなお、温かさを宿すそれは、霊界の特製品。

 

「これ、覗いたものにだけ夢の流れを見ることができる望遠鏡なんだ。試しに覗いてみなよ」

 

葵は、そっと望遠鏡の前に立ち、接眼レンズに目を当てた。

 

視界の奥。

冥府の深い闇に、ちらちらと光の粒が舞っていた。

それは星ではなく、まるで誰かの想いが結晶化したもののよう。

小さく震え、揺らめき、意志を持ったようにゆっくりと流れていく。

 

(どれもきれいね……)

 

そのときだった。

ふわりと視界の奥から、一つの夢が浮かび上がった。

花びらのように淡い光を纏い、手のひらほどの大きさの輝く塊。

それは、ほかの光の粒とは違い、まるで葵の心に引き寄せられるように、ふわり、ふわりと近づいてくる。

 

はっとして、葵はレンズから目を離した。

望遠鏡の前、目の前にぽっと白い光が浮かんでいる。

 

「……これは……?」

 

葵は無意識に手を伸ばしかけたが、その指先が触れる寸前で動きを止める。

そっとぼたんの方へ視線を向けた。

 

「触れても大丈夫だよ」

 

高い位置で結んだ水色の髪を揺らしながら、ぼたんは微笑む。

 

「ご縁があったんだろうね。その夢は、葵にしか見えない。きっと……何か意味があるんだよ」

 

ぼたんの言葉に、葵は躊躇なく、夢の光にそっと触れた。

 

 

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瞬間、世界が、音もなく静かに切り替わった。

月の光、冥府の景色、見晴らし台……全てが、柔らかな波紋となって遠ざかっていく。

 

代わりに、あたたかく、懐かしく、どこか切ない風景が葵の目の前に広がっていった。

 

 

夢の中。

静かな夕暮れ。

空は茜色に染まり、柔らかな光が町並みを包み込んでいた。

その光は、懐かしく、温かく、でも、どこか胸の奥を締め付けるような寂しさを含んでいる。

 

見知った玄関先。

そこに、一人の少年が立っていた。

制服姿の中学生。まだ幼さを残した顔立ちの少年。

 

それは、南野秀一、すなわち蔵馬の姿だった。

彼の瞳は、どこか遠くを見ていた。

戸惑いと驚き、そして言葉にできない静かな揺れが、幼い表情の奥にひそんでいる。

 

家の中から、かすかな声が漏れ聞こえてくる。

電話口で話す母、志保利の声。涙を押し殺しながら、誰かに礼を述べていた。

 

「……はい。はい……本当に……ありがとうございました……」

 

その声は微かに震え、喉の奥で詰まりながら、それでも言葉を紡いでいく。

しなやかで、決して折れない人、彼がこの世で唯一「母」と呼べる存在だった。

 

(……母さん……)

 

数日前、彼の人間としての父親が急逝した。突然の事故だったという。

母親は、その悲しみを奥底に押し込め、気丈に振る舞っていた。

通夜、葬儀、親戚への挨拶、役所や保険の手続き。

その全てを誰の手も借りずに、静かにこなした。

 

そして今日。

学校から帰ってきた彼を、いつもと変わらない微笑みで迎えた。

その微笑みの奥に隠された何かに、まだ人間としては未熟な感性が気づいてしまう。

 

 

その夜。

少年は自分の部屋で、目を閉じて眠ったふりをしていた。

耳は、居間の方から聞こえてくる微かな音に向いている。

 

……くぐもった嗚咽。

押し殺すような震えた息。

小さな、か細い泣き声。

母が、誰にも見えない場所で、ひとり肩を震わせて泣いている。

 

それは、目を閉じていても、光景がつぶさに思い浮かぶ。

数千年生きた妖怪として、数えきれない死を見届け、無数の別れを超えてきた彼にとって、初めて味わう感覚だった。

 

冷めていたはずの心が、胸の奥でゆっくりと熱くなる。

焼けるような、苦しく、不快なほどの熱。

 

(どうしてだ……)

 

この痛みは何だ。

なぜ、こんなにも…。

 

理屈では説明できない。

消そうとしても消えない。

 

母の震える背中の気配だけが、鮮烈に、胸に焼き付いていく。

それが、どうしてこんなにも…。

 

妖怪としての冷たい理性が問いかける。

けれどその問いに、少年の心は答えを出せなかった。

 

(……これが、人間の心なのか)

 

 

染みついた魔界の血と冷たさ。

けれど、この一人の人間の、静かな涙の方が。

なぜか、すべてを凌駕して胸を締めつける。

 

暗闇の中で、少年、蔵馬はただ立ち尽くしていた。

言葉もなく、動くこともなく、その小さな背中を、見つめていた。

 

妖怪としての冷ややかな理性と、人間の子として芽生え始めた温かな感情のあいだで、彼の心は、密やかに揺れ続けていた。

 

その横顔には、まだ幼い少年のあどけなさと、数千年の妖怪としての冷徹さ。

二つの世界に立つものの、交わることのない光と影。

 

この痛みが、彼の歩む未来を変えていく。

そのことを、この時の蔵馬自身はまだ知らなかった。

 

 

夢の世界。

淡く揺れる光の粒が、ゆっくりと空間に溶けていく。

その光に包まれながら、葵はふと足を止めた。

 

次に目の前に広がったのは、春の陽だまり。

温かな風が頬を撫で、淡い桜色の光景がゆっくりと広がっていく。

満開の桜が空を埋め、花びらがはらはらと舞い落ちる。

どこか遠くで鳥たちのさえずりが響き、人々の笑い声がやわらかく風に乗って流れてきた。

 

その穏やかな光景の中に、ひとりの小さな少年がいた。

 

さらりとしたつややかな髪。澄んだ瞳。

その面差しには、間違いなく今の蔵馬、南野秀一の面影が宿っている。

彼が、まだ人間としての年月を幼く過ごしていた頃の姿だった。

 

「秀一、迷子にならないようにね」

 

ふんわりと母親の声がした。

やわらかく、包み込むような口調。

その横には、背の高い父親が立っている。

少し照れくさそうに笑いながら、三人で仲良く動物園のゲートをくぐっていく姿は、何気ない「幸せ」と呼べるものだった。

 

ふれあい広場に入ると、不思議な光景が目の前に広がった。

 

秀一の足元に、跳ねる白いうさぎ。その袖を引っぱるヤギ。

子犬がその膝の上に丸まって、尻尾を振っている。

 

「なんでこんなに来るの?」

 

高い声で問いかける秀一。

周りの子どもたちが「いいなぁ!」、「ずるい!」と声を上げ、親たちもくすくすと微笑んで見守る。

 

彼の母親は口元に手を当て、目を細めて笑い、父親は「まるで動物使いだな」と、どこか嬉しそうに呟いた。

 

その瞬間。

秀一はふと振り返り、二人の姿をじっと見つめた。

並んで座る両親。

言葉は交わさずとも、その間には、静かに流れる何か温かいもの。

 

(人間とは、こういうものか……)

 

少年の胸の奥に、ゆっくりと温かな何かが広がっていく。

それは、妖怪の理屈では計れない、人間らしい感情の芽吹きだったのかもしれない。

 

やがて帰り道。

父の肩車で、視界が少し高くなる。

彼の見慣れた世界が、ほんの少しだけ広がった。

母はその隣を歩き、ふと春の空を仰ぎ見て微笑む。

 

「今日は……楽しかったわね」

 

「ああ」

 

父が短く応え、その声に合わせるように、母も微笑む。

家族三人、あたたかな空気の中を歩く。

空はやわらかな茜色に染まり、風がそっと髪を撫でていく。

桜の花びらが、光に透けながら舞い落ち、世界をそっと包み込んだ。

 

その一日。

きっとそれは、蔵馬……南野秀一にとって、心のどこかに今もそっと残る、大切な記憶。

何でもない春の日。

それでも、かけがえのない春の日の一瞬。

 

 

ふわり。

夢の景色が、やわらかくほどけていく。

光の粒となり、空へ、冥府の夜空へ還っていく。

 

 

そして葵は、霊界の「冥府の見晴らし台」に立っていた。

静かに空を仰ぎ、胸の奥に、あの夢の感触をそっと仕舞い込む。

それが、確かに彼の心の中に存在していた「一日」であることを、彼女は感じ取っていた。

 

(あなたは……悲しみも、柔らかくて優しい日も……人間として知ったのね)

 

そよぐ風に乗って、どこからか桜の花びらが舞い、一枚ふわりと彼女の象牙色の髪にとまった。

月明かりが、静かにその姿を照らす。

 

葵は、しばらくその場から動くことができなかった。

冷たい石畳の感触を足裏に感じながら、ただじっと、夜空に浮かぶ大きな月を見上げていた。

 

胸の奥が、不思議な温かさで満たされている。

それは痛みではなかった。悲しみでも、寂しさでもない。

言葉にできない、「尊さ」と呼べる何か。

 

蔵馬の記憶。

彼の、少し遠い日常のかけら。

ほんの少しだけ、その世界に触れた気がする。

 

ふいに、傍らからやさしい声が響いた。

 

「……葵? どうだった?」

 

振り返れば、ぼたんが心配そうに首を傾げて立っている。

その瞳は、霊界案内人としての役目を超えた、友人としての温もりをたたえていた。

 

「ええ。とても……とても、尊い夢を見せてもらったわ」

 

葵は、胸元にそっと手を置く。

その小さな手のひらに、微かな光が宿っているような気がして。

 

「ありがとう、ぼたん。今日という日は、私にとって……きっと忘れられない一日になるわ」

 

その声には、静かな確信があった。

 

会わなくても、遠く離れていても。

彼の記憶は、夢は、間違いなく自分に届いた。

 

大きな満月が、淡い光を落としている。

見晴らし台に立つ二人の影を、優しく包むように、今日この瞬間を祝福するかのように。

 

「こっちこそ、楽しかったよ!」

 

ぼたんがぱっと明るい笑顔を見せ、軽く手を振る。

 

「なんだか、初心を思い出しちまったさ。最初に、霊界案内人として働いたときの気持ちに戻った感じだよ」

 

ふわりと空気が揺れ、ぼたんが(かい)に乗って軽やかに踵を返す。

 

「じゃ、またいつか!今度はさ、あたしのおすすめスイーツと、霊界特製「地獄ラーメン」でも案内するから!覚悟しといてね~!」

 

その声とともに、ぼたんの姿は淡い霧と光の中に溶けていく。

やがて静寂に吸い込まれた。

 

葵は、その背中を見送りながら、ほんの少し微笑んだ。

冷たい空気が頬を撫でる中、心は不思議と温かかった。

 

視線を再び夜空に戻す。

月が静かに、深く、光を湛えていた。

 

 

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人間界へ。蔵馬のもとへ。葵はその歩みを静かに踏み出していた。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

静かな夜だった。

窓の外には、真円の月が冴え冴えと輝き、淡い光が部屋の中にそっと差し込んでいる。

 

蔵馬は、その窓辺に静かに佇んでいた。

白いシャツの胸元に、冬の夜気がやさしく触れる。

ふと目を上げ、月を仰ぐ。

その瞳に映る光は、月よりも遠いどこかを見つめているようだった。

 

 

近づいてくる気配。

まだ屋根の向こう。

けれど、その気配を彼はとっくに感じ取っていた。

やわらかな足音。ためらいがちに、でもしっかりと近づいてくる。

 

やがて、その気配は開いた窓の前で止まる。

 

「蔵馬」

 

小さな息のような声。

彼はふっと微笑んだ。その頬を月の光が優しくなぞり、横顔に静かな気配が落ちる。

 

「いらっしゃい。……いい夜だよ」

 

いつもと変わらぬ穏やかな声音。

だがその奥に、人知れず微かに揺れるものがある。

名もまだない感情。芽吹いたばかりの、壊れやすい何か。

 

葵は小さく頷いて、部屋に一歩だけ足を踏み入れる。

 

「今日は、ぼたんに……霊界のいろんなところを案内してもらったの」

 

 

【挿絵表示】

 

 

彼女はそう言いながら、そっと蔵馬の隣、窓辺に並んで立った。

二人の間に流れる沈黙は、慣れ親しんだ二人の空気。

月光のように、静かに心を満たしていく。

 

「霊界を見てきて……」

 

葵がふと、彼の横顔を見上げた。

 

「今までよりも、あなたのことが……もっと知りたくなった」

 

その言葉に、蔵馬の胸の奥が揺れた。

淡い驚きと、ほんの微かな痛み。そして、切なさに似た温もり。

 

(君は、夢を見たのだろう……。 あの冥府の月見台で……)

 

心のどこかが、そう囁く。

彼女が見たのはきっと、自分の「遠い日の断片」。

けれど葵は、そのことに触れない。問わない。探ろうともしない。

 

「……そうか」

 

蔵馬は、そっと微笑んで葵に視線を送った。

そして、彼女の髪にひとひら。季節外れの桜の花びらがとまっているのに気づく。

 

(……君が、もしオレの記憶に触れたのだとしても。まだ何も、聞かないでいてくれるんだね……)

 

窓の向こう。

静かな満月が、変わらずそこにある。

その光は、葵の頬をやさしく照らし、彼女の眼差しを淡く染めていた。

 

 

「それなら……またいつでも来てくれたらいい」

 

その言葉は、夜のしじまに溶けて消えた。

彼自身、ようやく気づき始めた、まだ名もつけぬ想いの静かな告白のように。

 

今はまだ、その想いに触れることはしない。触れれば、きっと壊れる。

それくらい繊細で大切なもの。

だから、胸の奥にそっとしまう。

葵は微笑んだ。

 

「……ありがとう」

 

 

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その声もまた、月光の糸のようにやさしく降りた。

満月の光が、二つの影を重ねるように床に落ちる。

 

蔵馬は目を伏せた。

隣に立つ彼女の、小さな気配を、心の奥でそっと確かめる。

 

(……君が、オレに「もっと知りたい」と言ってくれるなら……)

 

恋は、ゆっくりと、誰にも気づかれぬほど静かに芽吹いてゆく。

まだ名前を持たぬままで。

 




次回より、本編のアカシヤに戻ります。9章はシリアス展開の中、蔵馬と葵が愛を学んでいきます。今後とも、アカシヤ本編と短編をよろしくお願いいたします。

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