洞窟を抜けた先に広がる草原は、雲間から覗く初夏の午後の光を浴びて、柔らかく輝いていた。
遠くの地平線はかすかに揺らぎ、草の海が風に撫でられて波打つ。
空は高く、幾筋もの白い雲がゆるやかに漂っていた。
ついさきほどまで、特有の暗い空の魔界にいたことが嘘のように、ここは静かで、あまりにも穏やかだった。
人間界に戻ってから、蔵馬は妖狐の姿を解き、人間の姿で草原に立っている。
風が横切り、長い髪を流れるようにたなびかせながら、遥かな地平を見据えていた。
その静けさを破るように、低い声が背後から響いた。
「……どういうつもりだ、蔵馬」
振り返らずとも、誰の声かはわかっている。蔵馬からすれば予想通りの反応だった。
黒衣の袖が草をかすかに擦り、飛影の放つ苛立ちを帯びた妖気が空気を震わせる。
その紅い眼は怒りに燃え、刃のように鋭く蔵馬の背を射抜いていた。
彼はつい先ほどまで深い眠りに囚われていた。黒龍波を放った反動で、魔界にいる間ずっと冬眠に近い状態にあった。そして目を覚ますと、自分が人間界の草原に横たえられていると知り、激しい怒りを覚えた。
「なぜオレを人間界に連れてきた?」
低く噛みしめるような声。
蔵馬は草原の端、入魔洞窟の出口近くに腰を下ろした。
光を帯びた草が影を揺らし、彼の膝にかすかに触れている。
飛影の怒気を正面から受けても、表情に揺らぎはない。
その深い瞳には、風景を静かに映す余裕があった。
「君が怒るのも、当然だ」
静かに言葉を落とす。草原を渡る風に紛れるほど穏やかな声。
「だがあの時、黒龍波を2発撃った代償で、深い眠りに落ちた君を、あのまま魔界に放置すれば……どうなるかはわかるだろう。だから人間界へ運んだ。あの場にいた全員の一致の判断で、オレも同意見だった」
飛影の目がさらに細められる。
怒りの奥で、わずかに理を認めざるを得ない葛藤が揺れていた。
「フンっ。勝手な真似を……」
吐き捨てるような声。その背後で草がざわめき、風になびいた。
蔵馬はふっと笑みを浮かべる。挑発ではなく、彼の激しさを受け止めた上での柔らかな余裕だった。
そして、ふと思い出したように傍らの荷に手を伸ばした。
「そうでした……これを渡すのを忘れてたよ」
そう言って、黒光りするビデオテープを取り出す。
陽光を浴びて鈍く反射するその姿に、飛影の眼が一瞬見開かれた。
「……黒の章か」
飛影の紅い眼が大きく見開かれた。
驚きと警戒とが交じり合い、その視線はテープに吸い寄せられる。
戦いの前に、幽助から「こっそり渡してもいい」と言われたことを思い出した。
「幽助から預かった。君に渡してほしいと、頼まれてね」
黒い表面を指先で軽く弾きながら、蔵馬は差し出す。
その小さな一本の中に、人間界、霊界、魔界を揺るがすだけの秘密が封じられている。盗賊にとっては、宝にも等しいものだ。
飛影はしばし沈黙した。草のざわめきと遠くの鳥の声だけが響く。
やがて、彼の肩から長い息が零れる。怒りの炎は徐々に鎮火し、赤い瞳の光だけが鋭く残った。
「……ちっ」
彼は黒の章を受け取った。その動作は慎重で、刃を扱うように手の中でその重量を確かめる。そして低く言葉を吐いた。
「相変わらず、用意周到だな」
口の端がわずかに吊り上がる。笑みと呼ぶには淡いが、敵意を和らげた証だった。
蔵馬は目を細め、静かに応じる。
「オレではなく、幽助の提案です」
草原を吹き抜ける風が、互いの間に落ち着いた沈黙を運んでくる。
飛影はテープを手玉のように転がし、視線を伏せて言った。
「……お前がオレに黒の章をわたすようにしたのは、幽助の一存じゃないだろ?」
「……想像に任せます」
蔵馬は微笑みながら返す。
飛影は目を閉じ、静かに息を吐く。黒龍破の余熱がまだ残る体から、ようやく苛立ちが抜けていく。
「……やはり、お前は食えない奴だ」
「褒め言葉と受け取っておくよ」
空は高く、白雲が流れる。
こうして、飛影の怒りは静かに鎮められ、霊界の極秘たる一本のテープが、盗賊二人の沈黙の中に存在していた。