それは暗黒武術会をひと月後に控えた頃のこと。
人間界の林の奥深く。
昼の光が木々の葉を透かし、地面にまだら模様の影を落としていた。
その光と影の狭間に、葵の姿があった。
自然に溶け込むように立つ彼女の両手には、簡素な麻袋に包まれた依頼品。
差し出されたその包みを、目の前の小柄な影。飛影が無言で受け取る。
彼女の髪には、どこかの枝に触れた拍子だろうか、鮮やかな緑の葉や、細い枝がいくつも絡まっていた。
飛影は無表情のまま、ちらりとその頭を一瞥する。
そして手元の袋を確認するように軽く持ち直した。
「お前、このあと、どこへ行くつもりだ?」
低く投げられた問いに、葵は普段と変わらない微笑みを向けた。
「蔵馬のところに、依頼品を届けに行くわ」
飛影はふっと視線をそらし、「……なら、いい」とだけ返す。
どうやら、頭の枝葉については、
余計なことを言わないところも彼らしい。
踵を返し、林の奥へと歩み出そうとしたその背に、透きとおる声が追いかける。
「飛影。なにか、いいことがあったの?」
ぴたりと足が止まる。
林の奥で鳥が一羽鳴き、風が枝をわずかに揺らした。
飛影は無言のまま振り向かず、短く吐き出す。
「……別に、何もない」
声は低く、僅かに硬くなった。
実は先日、長らく行方知れずだった妹・雪菜の所在を人間界で突き止めたばかりだった。
飛影の言葉には、彼の心臓を若干震わせるほどの衝撃と、誰にも知られたくない秘めた安堵が隠されている。
それを、この場で目の前の葵に口にするつもりは毛頭なかった。
「妖気が、以前よりも少し柔らかいわ」
葵の瞳が細められ、風に乗るように静かな言葉が落ちる。
飛影の眉がわずかに動いた。
それだけで、彼は林の影の中へ溶け込むように姿を消していく。
残されたのは、風に揺れる葉の音と、まだ髪に枝葉をまとったままの葵の、穏やかな微笑みだった。
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暗黒武術会の激戦の合間、ようやく訪れた束の間の休息。
ホテルの一室は、戦場とは思えないほどの静けさに包まれていた。
窓越しに射し込む午後の光は柔らかく広がり、机の上のグラスに揺れる水面を淡く照らしている。
ソファに腰を下ろした蔵馬は、長い髪を肩に流しながら、ふと目を細めた。
視線の先、窓辺に立つ飛影が腕を組み、影のように動かずにいる。
「……あいつは、余計なことを言わないところがいい」
唐突な一言に、蔵馬は静かに笑った。
彼の言う『あいつ』とは、誰と聞かなくてもすぐわかる。
「それは評価してる、ということでいいのかな」
その声音は軽やかで、目の奥には好奇心の色が忍んでいる。
飛影はしばし無言のまま、やがて吐き捨てるように続けた。
「……武器の調達も、悪くはない。素材の質も上等だった。物資補給源としては、上出来だ」
任務報告のような淡々とした口調だったが、その評価には確かな満足感が含まれていた。
「そうか、それは良かった。どうやら葵は、目利きのある古道具屋とつながりがあるらしい。手際もいいし、裏道の品にも強い」
飛影は軽く鼻を鳴らし、わずかに目を伏せる。
「たまに……訳のわからんことを言うがな」
その言葉の響きには、明らかに不快感が混じっていたが、同時にどこか諦めや、僅かな困惑も感じられる。
蔵馬口元が、ほんの少し楽しげに緩んだ。
「へぇ。飛影が困惑するほどの『訳のわからんこと』とやらを、オレにも聞かせてくれませんか?」
問いは柔らかに投げられたが、その奥には鋭い探針のような探りが潜んでいる。
「……思い出したくもない」
飛影の答えは、予想通り素っ気ない。
しかしその瞳が、一瞬だけ不自然に泳いだことを、蔵馬は見逃さなかった。
彼の脳裏には、過去の葵の予期せぬ言動がいくつも浮かぶ。
「葵は、時々こちらが思いもしないような的確さで、鋭く言い当てることがありますよ。驚かされます。まるで……相手の心の奥底を見透かすように」
中性的で静かな声の余韻が室内に溶ける。
飛影は応じず、窓の外へと視線を逸らした。
眉間に落ちた影が、言葉にならない心の動きを物語っている。
蔵馬はくすりと小さく笑った。
「……あなたも、それを味わった口ですか?」
「……。」
飛影は何も言わず、ただ眉をしかめた。
その沈黙自体が答えだった。
蔵馬はその様子に、目を細めた。
飛影の沈黙の中に浮かぶ微かな感情の揺れを感じ取りながらも、それ以上は追及しなかった。
そして、あえて別の話題をさらりと差し込んだ。
「そういえば、さっき雪菜ちゃんに会いましたよ」
その名が落ちた途端、飛影の肩が、わずかに動いた。
視線は変わらず窓の外を向いたままだ。
蔵馬という男は、葵との会話をまるで盗み聞きしていたかのように、この話題を持ち出してきた。
飛影が彼女から、その『訳のわからんこと』を言われた時、気配を消してその場にいたのか、それとも直感でただからかっているだけか。
蔵馬の場合、どちらの可能性も大いにあり得た。
「……フン。くだらん」
飛影は低く吐き捨てた。
次の瞬間、窓が小さく音を立てて開く。
冷たい風が一陣吹き込み、カーテンを揺らす。
蔵馬が視線を向けると、飛影の姿はすでにそこにはなかった。
残された静寂の中で、蔵馬はグラスの水を口に含み、喉を湿らせる。
目を伏せた横顔に浮かぶのは、会話の余韻とも、人知れずの想いともわからない影だった。
蔵馬と飛影のやりとりは、原作の頃から面白いと思っています。
妖怪には年齢差か関係なく、強さという信頼関係が魔界のシンプルなルールなのかもしれません。こういう関係も素敵だと思います。
次回更新は、本編となります。
12章も佳境に入っています。蔵馬が魔界との行き来をしている期間がそれなりにあるので、13章まで魔界編となっています。
アカシヤ本編はこちら:https://syosetu.org/novel/375741/