本編をかなり書き進めた後に直感的に創作したもの。
葵が恋に気づく瞬間、そんな彼女を受静かにけ止める蔵馬の優しい時間をお楽しみください。
時系列は、7章終了後にあたります。
暗黒武術会が終わって、1週間後の夕暮れ時。
葵は、図書館の窓際の自習スペースで、いつものように静かにページをめくっていた。
閉館間近の館内は、人もまばら。本の紙が擦れる音だけが淡く響いている。
彼女の視線はふと、本の向こう、窓の外へ移った。
街路には、帰宅を急ぐ人々のざわめきが溢れていた。
ビルの谷間に沈みかけた陽が、歩道を長く照らす。
街灯がひとつ、またひとつと灯りはじめ、オレンジ色の柔らかな光が、影を長く伸ばし始めた。
(人間界では、今が帰宅時間ね)
しばらく、ぼんやりと人や車の流れを見ていた。
それは一瞬だった。
葵の目が、ある一点で、止まった。
制服の背中に、夕陽に透けて揺れている少し癖のある長い髪。
細身で整った体つき。
纏う静かな空気は、周囲の喧騒とは一線を画し、その中性的な佇まいは、見る者を引き込む不思議な美しさを放っていた。
(……蔵馬)
名前を思い浮かべた瞬間、胸の奥に不意の振動が走った。
音にすれば、ほんの小さな「トン」という響き。
けれどそれは、確かに心のどこかを揺らした。
(……なに?この感じ)
それは、痛みでも驚きでもなく、これまで感じたことのない感覚だった。
何かが、優しく弾けて、温かく体中に広がっていくような。
感覚に気を取られていると、目で追っていた彼の姿が、ゆっくりと人の波にまぎれて遠ざかっていく。
蔵馬の姿が、まるで遠くの星のように見えた。
気づけば葵の足は、勝手に動いていた。
読んでいる途中の本をそのまま閉じて、リュックを手に取り、無言のまま返却カウンターをすり抜けていく。
何も考えていなかった。
ただ、視界の中にある背中を見失いたくなくて、足を早めた。
図書館を出ると、人波の中をすり抜けるように走りだした。
夕方の冷たい風が頬を撫でても気づかない、周囲のざわめきも耳に入らなかった。
ただ、見えなくなったその背中だけを追いかけた。
広い背中のすぐ後ろまで来たとき、葵は無意識のうちに右手を伸ばしていた。
その名前を呼ぶことさえ、忘れて。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
蔵馬は背後から近づく微かな気配で、葵が近くにいることを察知していた。
普段の彼女の落ち着いた足取りとは違う、少し乱れた、迷いのない足音。
不思議と、彼に語りかけるようだった。
その行動を背中で見守りながら、蔵馬は歩く速度を少し落とした。
(走ってくるのは、珍しいな……。よっぽど、何か言いたいことがあるんだな)
ふっと心の中で微笑み、目を伏せた。
彼にとって、葵の予測不可能な言動は、新鮮な驚きと喜びをもたらすものだった。
今度は、またどんな唐突な言葉で、自分の心を揺さぶるのだろう。
そんな想像が、静かに膨らんだ。
その時、右腕にそっと伝わる温もり。
少し驚いて振り返ると、葵が同じような顔で見上げていた。
深い瞳同士が静かに出会う。
淡いオレンジ色の光の中、周囲の喧騒が遠のき、時が止まったような瞬間だった。
蔵馬は、その瞳の奥に宿る戸惑いと、それを上回る純粋な何かを読み取った。
ふっと目を細めて、柔らかく微笑む。彼女にだけ向ける顔。
そして透明感のある柔らかい声で言った。
「葵」
その声は、彼女が思い描いていたよりもずっと優しくて、深かった。
「君が来るのを、待っていた」とでも言うような、包み込む響きだった。
たった三文字の中に、たくさんの想いが込められていた。
不意に、葵の胸の奥がふわっと熱を持った。
言葉にならない切ない気持ちが、今にも溢れそうになる。
けれど、それを先に包んでくれたのは彼の方だった。
蔵馬は、葵の手をそっと自分の手の中に包み込んだ。
花びらに触れるような、静かな動作で。
優しくて、深い想いが伝わる。
葵は、頬が温かくなるのを感じた。
夕方の太陽が、その赤みを優しく隠してくれていたおかげで、きっと目の前の男からは見えないだろう。
嬉しさと、そして胸に満ちた新しい感情に、彼女はふわっと花が開くような柔らかな笑みを返した。
「やっと……追いついたわ」
葵の声がかすかに震えた。
それは冷たさではなく、内側から湧き上がった熱のためだった。
「……うん。君なら、追いついてくると思ってたよ」
(言いたいことよりも、もっと深い何かがあったんだな……)
蔵馬は静かに、その深い瞳で葵を抱きしめた。
言葉を超えた先の包容と受容。
彼には、葵の行動の意味が伝わっていた。
そして彼女も、蔵馬の想いを受け取った。
人が行き交う中、二人の周りの時間がゆっくりと流れていた。
太陽がゆっくりと西の空に傾き、彼らの影を長く、一つに伸ばしていく
「……帰ろうか」
「ええ」
葵は迷うことなく頷いた。
蔵馬はゆっくりと手を離した。隣に並びながら、二人は歩き出す。
もちろん、人間界に葵の帰る家はない。
けれど、彼はわかっていて、「帰ろうか」という言葉を使った。
彼女もその意図をわかっていた。
(あなたは、向かう場所が同じと思ってくれているのね……。嬉しいわ)
その日。
葵は、自分の中で何かが変わったことを知った。
蔵馬に触れたとき。
その声を聞いたとき。
胸に広がった感情が、初めてかけがえのない『名前』を持った気がした。
(……私は、この人に恋をしている)
その気づきに、葵は静かに目を伏せ、微笑んだ。
歩幅を合わせて進む彼の横顔が、そっと、温かく胸に刻まれていく。
右の指先に残る蔵馬の体温。
まだそれを感じていたくて、葵は手を握った。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
静かな夜の気配が街を包んでいた。
窓の外、遠くに灯るオレンジ色の街灯が、薄くレースのカーテン越しに揺れている。
部屋は静かで、ただ時計の針が時を刻む音が、彼の思考の隙間を縫うように響いていた。
蔵馬はベッドの端に腰を下ろし、手のひらを静かに見つめる。
その手が、数日前の夜、彼女の髪に触れ、背に回され、指先にまで想いが伝わったあの瞬間を、まだ体が鮮明に覚えている。
(……何度、目を閉じても思い出す)
彼女が自分の隣で眠りについたあの夜。 その温かさは、ぬくもり以上のものだった。
口唇に触れた柔らかな感触。
言葉を交わさず、ただ互いの呼吸と心の音を聞いていた数時間。
「踏み越えなかった」という事実より、「踏み越える必要がなかった」と思えたことが、何よりも自分を揺さぶった。
(欲望がないわけでは……。けれど、それよりも、大切なものがあった)
妖狐だった頃の自分なら、きっとこの感情を弱さと捉えたかもしれない。
けれど今は違う。 人として生き、出逢い、名を呼び合うようになった時間が、知らず知らずに蔵馬の内側を変えていた。
(……あの人を、失いたくない)
それは恋だと、はっきりとわかっている。 けれど、この想いを簡単に「好きだ」と口にすることが、ためらわれる。
好きという言葉では足りない。軽くしてしまいそうで。
愛しているでは、まだ少し遠くて。
葵の眼差しを思い出す。
あの瞳は、いつも余白を残して、自分をまっすぐに映し出す。
「信じる」という言葉を、簡単に口にしない彼女が、それでも信じてくれたこと。
それが、自分のなかで過去すら塗り替えてしまった。
(君が見ているのは……オレの、どこだろう)
彼女の前では、強さも知性も意味をなさないようだ。
なにも取り繕わずにいても、不思議と見透かされているようで、それでも、怖くない。
むしろ、そこにいる時、どこか安らげる自分がいる。
(どこという場所じゃない……。葵は蔵馬というオレを、全体性で見ている)
蔵馬はゆっくりと立ち上がり、窓のそばへ歩み寄った。
カーテンを音もなく開けて、夜空を見上げる。
風が梢を揺らしていた。 澄んだ月が、静かに空に浮かんでいる。
(……こんなにも、月が綺麗だと感じたのは、いつ以来だろう)
ふ、と短く息を吐く。 その吐息に、まだ残っている彼女の余韻。
一晩ともに過ごした記憶は、決して夢や幻じゃなかったと、体のどこかが覚えている。
(……オレは、もう、後戻りできない)
そう思った。 それは恐れや戸惑いではなく、覚悟のようなものだった。
護りたい存在がいるというのは、こんなにも心を強くする。
ゆっくりでいい。 大切なものほど、急がずに、静かに、慈しみ育てたい。
(今夜は……君の温もりを、思い出してもいいだろう)
そう呟き、レースのカーテンをゆっくりと閉じた。
わずかに残る月の光が、そのまま彼の背を照らす。
時計の針が、夜の深まりを告げる。
灯りのない部屋の中、蔵馬はしばらく背に月華の輝きを浴びていた。
静かな月夜と、あの一夜の思い出が、深く、優しく、彼を包んでいった。
次週はもう一つ短編をアップして、その後から13章がスタートします。
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