これは蔵馬と葵が出逢って半年経った頃の話。
まだ恋までに発展しない距離感。
その中においても、葵という存在は、蔵馬にとって何かを静かに揺らす、コントロール不能な花だった。
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生物部の課外活動で郊外の農村を訪れたのは、梅雨明け前の蒸し暑い午後だった。
部の名目は「里山の植生調査」。
実際は、顧問の教師が現地の農家と交わした季節の顔見せのようなものだったらしい。
なんとなく興味をもち、蔵馬は参加したが、他の部員たちは早々に畑の端に集まって、アイスの話をしていた。
部員たちに動く様子がないことを察知すると、彼は空気に溶け込むように一人で田畑の道を歩いた。
輪の中から蔵馬ーー南野秀一が外れていくことに、誰も気が付かない。
空は低く、まだ梅雨の雲が尾を引いている。
日照りの合間、地表から立ち昇る湿った熱気が、少しだけ風に流されている。
そんなときだった。
田んぼのあぜ道に、ひときわ目立つ背の高い花がすっと立っていた。
白と淡い桃色。細い茎を真っ直ぐに伸ばし、空に向かって咲いている。
茎の上部にはまだ開いていない青い蕾、花の根本には落ちた花弁。
上から下へと、花の時間が流れているようだった。
(……タチアオイか)
蔵馬は足を止めて、少し離れたところからその花をしばらく眺めた。
能力上この花の知識は知っていたが、こうして静かに対面するのは初めてだったかもしれない。
葵を思い出した。
「私、自分がどの花から生まれたのかはよくわからないの」
そう穏やかに話す姿だった。
彼女の名前、おそらく漢字一字の「葵」だろう。これはタチアオイを表す。
まだ知り合って間もない。ただ、どこか気になる存在だった。
言葉や表情の端々に、時折ふっと立ち昇る気配のようなものが記憶に残る。
見た目の印象もあるだろう。
白く透けるような肌、象牙色に桃色がさしたような髪の色、真っ直ぐに物事を見据える眼差し。
この花の生き様にも似ている。
蔵馬はタチアオイに近づこうとは思わなかった。
花びらに触れたり、匂いを嗅いだり、その構造をゆったりと観察するよりも、少し遠くからその姿を眺めているのが今はちょうど良い。
梅雨時期に生き生きと育つその花のあるがままは、気高く美しい。
花が望むように、「ただある」。
ふっと彼の口元が緩む。
(彼女も………ああやって、上に向かって咲くのかもしれない)
タチアオイは、夏の空を追うように上へ、上へと咲いていくという。
一番上の花が咲き終わると、梅雨が明けると言われている。
葵が何かを目指して咲いていくような姿が、一瞬、彼の脳裏に重なった。
(……いや、違うな)
何かを目指して咲くのではなく、きっと咲こうとする意志そのものが、葵なのだろう。
妖怪として生まれたばかりの彼女は、これからどのように花開いていくのか。
数千年生きている蔵馬にさえも、予想ができるようで未知数。
葵の存在が、一時的な好奇心から興味へと変わりつつあることを、彼は内面で自覚していた。
鮮やかな花を見ていると、優れた聴覚が遠くの部員たちの声をひろう。
途端に人間としての現実が顕在化する。
(戻るか……)
そう思いながら、最後にもう一度、その花を振り返った。
湿った風がゆるやかに吹いた。
タチアオイの細長い茎がしなり、光の中で花が揺れた。
まるで一瞬、何かを返してくれたような気がして、蔵馬は人知れず小さく笑った。
(……面白い想像だ)
彼は歩き出した。
心のどこかにその花の影が、葵の姿と重なって静かに残っていた。
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夏休みに入った頃のこと。
蔵馬は最寄りの図書館に立ち寄った。
これといってはっきりとした目的はなかったが、予感はあった。
こういう時の直感は本能から来るもので、確実性がある。
足を運ばないという選択肢もあったが、本能は向かうことをすでに決めている。
ゆえに抗えないもので。
案の定、葵はそこにいた。
夕暮れ間近の図書館。
高い窓から差し込む西陽が、薄く色づいた木の床に長い影を落としている。
自習スペースの一角にある、静かなテーブルに座る二人。
蔵馬の前には一冊の本。
だがページは半ばで止まり、指先は紙をめくるでもなく、ただそっと添えられていた。
視線の先ーー斜め向かい、数冊重ねた本の向こうに、花のような人がいる。
白に近い髪に桃色が混ざる髪、空気に溶け込むような淡い気配、花のような香り。
その存在は、数か月前に郊外で見たタチアオイの花を、自然と思い起こさせた。
彼の静かな視線に気づいたのか、葵は本を読むのを中断して、ふっと彼を見つめた。
しばらく目で会話が続く。そしてー。
「蔵馬。人間界での暮らしは、好き?」
何気なくすっと落ちた言葉。
一体彼女はどこからこの言葉を紡ぐのだろう。
図書館の静けさに、日の光が差し込むようだった。
蔵馬はわずかに眉を動かし、指先が本を短く滑る。
言葉を探すように、一度視線を窓の外に向けた。
(そんなふうに、誰かに正面から問われるのは……久しぶりだな)
暮れかけた空に、夕陽が淡く広がっていた。
人間界での日々。母と過ごす時間。学校で交わす他愛ない会話、交差点で感じる夏の気配。
それらがいつのまにか当たり前になっていることに、改めて気づかされる。
「……穏やかだと思うよ」
いつも通りの中性的で整った声。 だが抑揚の少ない、どこか曖昧な影が潜む。
それを彼自身が感じ取っていた。
今の言葉は、適切だっただろうか。
言葉を終えてから、彼は視線を戻した。
「蔵馬は……この先もずっと、人間界で生きていくの?」
葵がさらに問いかけた。
声はやわらかく、彼女の瞳もまた他意はなく彼を見つめている。
その問いに、蔵馬はすぐに答えなかった。
目を伏せ、わずかに息を整える。
言葉を探したが、表面に浮かんできたのはありふれたもの。
「……どちらとも言えないな」
低く落ち着いた声。 いつもと変わらぬ穏やかな返答。
だがその瞬間、胸の奥で何か小さく響く音を、感じ取っていた。
(違うな……)
答えはすでに出ている。
本当は、もうずっと前から。
けれど、その確かさを口にしてしまうのが、今はできなかった。
妖狐だった彼は、霊界のハンターにより瀕死の重傷を負った後、この体、南野秀一に憑依融合した。
妖力がある程度回復したら、人間として生きてきた家を出るつもりだった。
しかし何度試みても、できなかった。
その重みを、もうきっと手放せないだろう。
だから「どちらとも言えない」と、言葉を選んだ。
けれど、彼の中に潜む微かな揺らぎを、葵は見逃さなかった。
「嘘の目じゃないわ」
ふっと微笑みながら、言葉が生まれた。
その笑みは、優しくまっすぐに――核心を突いていた。
「でも……言葉が少し違う気がするの」
蔵馬の指が、本の上でごくわずかに震える。
思わず息をのむ。その小さな変化を隠すように、合わせていた視線を下げる。
ふと、思考が霧に包まれるような感覚にとらわれる。
(……やっぱり、君は面白いな)
理屈も、言葉も、ここでは意味をなさない。
この人には、そういうものが通じない。 いや、通じないのではなく、不要なのだ。
それが、ときに居心地悪く、ときに心地良いという矛盾をはらんでいる。
「そうか……」
ゆっくりと声を落とす。
ふと視線をあげると、葵の瞳が夕陽を映していた。
その透明な光が、まるで何もかもを見透かしているようで、蔵馬は思わず目を細めた。
そして、小さく笑った。
ほんのかすかに。
この人と、もう少し話してみよう。
言葉では語れない何かを、探してみたいと思った。
人間としての時間。
それは妖狐として生きた幾千年よりも、たった十数年で深く、静かに、彼が思っている以上に根づいてしまっている。
この一時を、「かけがえのないもの」と口にするにはまだ早い。
(言葉にならないな……)
そんなとき、ふとこぼれるような言葉が生じた。
「……君は、不思議だ」
窓から射す夕陽が、彼の頬に淡く影を落としていた。
葵の横顔にも、やわらかな金の光がかかっている。
「どうしてそんなふうに、心の奥を見るんだろうね……」
クールな反面好戦的なこの男にしては、珍しい言葉を口にした。
これは敗北宣言に等しい。
葵はふっと微笑んだ。
本の上に置いた両手を軽く組み、そのまま視線を逸らさない。
「なんとなく、そう感じただけよ。あなたの目は、嘘をつかない」
透明で揺るぎない声は、空間を震わせる。
そして彼の心を揺らす。
「『どちらとも言えない』というのは……きっと、何かを背負っているような。決めているのに、まだ迷いがぬぐい切れていない状態だから、敢えて断定しなかったと感じたわ」
その瞬間、トンッと胸の奥に、小さな音が響いた気がした。
その白い指先で、心臓に直接触れられるようだった。
何かがゆっくりと崩れ、そして静かに融けていく感覚。
(……見抜かれている)
ただの観察じゃない。
この人は、幾重にも重なった心の奥の柔らかいところに、迷いなく手を伸ばしてくる。
図書館の時計の針が、かすかに時を刻む。
自習スペースの周囲には人影もなく、ページをめくる音さえ届かない。
「お見逸れした」
ふっと口元を緩め、蔵馬は呟いた。
その声音はどこか、あきらめにも似た優しさを帯びていた。
葵は何も言わず、ただ彼の瞳を見つめていた。
その瞳は深い湖のように底がない。広くて深くて、静寂の中で何かを語る。
そしてまた、静かにページをめくる音が戻る。
重なる沈黙の中で、二人だけの、ほかの誰にも触れられない時間がそっと流れていった。
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夜の気配が街を包みはじめていた。
図書館を出たあと、蔵馬は、あえて遠回りの道を選んで歩いていた。
住宅街の細道。
電灯に照らされた舗道に、夕方の名残りがまだ少しだけ滲んでいる。
(……嘘の目じゃない、けれど言葉が違う、か)
彼女のあの言葉が、まだ胸の内側で残響のようにくすぶっていた。
淡々とした声なのに、まるで心の芯を見透かすようだった。
妖怪として生きてきた長い長い間、打破する脅威の対象として観察されることは星の数ほどあった。
しかし、目の前のまだ赤子同然の齢の妖怪は違う。
透明な眼差しで、蔵馬という存在そのものを観ている。
彼女の問いかけに、大きな意図はない。
純度の高い無防備な姿勢は、まるでこの男を翻弄するかのようだった。
それに気づいていながらも、蔵馬は逆らわない己をそのままにしている。
(君は……どうして、そんなにも真っすぐなんだ)
誰にも話したことのない本音。
自分の中で封印していた重みを、彼女は簡単に見つけてしまう。
純粋な鏡のように返ってくる。
風が吹く。
夜の匂いが、やんわりと、少し伸びた彼の髪を揺らす。
どこかの庭先から、クチナシの甘い香りが時間差で微かに漂ってきた。
魔界で培った鋭さ、そして盗賊としての観察眼。
相手の心の綻びから、隠そうとする思いを暴くことは容易だった。
しかし今、自分が見抜かれる側に立っている。
それが、不快ではないどころか、奇妙で爽快だった。
(……油断、だな)
ふっと口唇がゆるむ。
それは、生き延びるための防壁がいつのまにか綻びはじめていることへの、自嘲に似た感情だった。
(人間としての蔵馬と、魔界での蔵馬。……どちらも自分だと、思っていたが)
図書館の静けさの中で、彼女の眼差しを受け止めたとき。
その境界線が、ほんの少し曖昧になっていた。
(君の前では、どちらのオレも及ばないのかもしれないな……)
『嘘の目じゃないわ。でも……言葉が違う気がするの』
純粋無垢な瞳でそれを告げられた時、蔵馬は心のどこかがざわめくのを抑えきれなかった。
彼女の存在が自分の中で、ただの妖怪の知人という位置を超えはじめていること。
それだけは、もう否定できそうもない。
夜空を見上げる。 雲の切れ間から、月がのぞいていた。
澄んだ光が、静かに彼の輪郭を照らす。
(……君のような存在に、出会ってしまった)
どこか遠くの時代に置き去りにした何かを、そっと拾い上げられたような気がした。
蔵馬は歩を止め、肩越しに振り返る。
もう見えないはずの図書館の方角に、ひとときだけ目を向ける。
(……次に会うとき、君はまた何を見抜くだろう)
期待と不安を超えた感情が、胸の奥にあることを知った。
そしてまた、静かに歩き出した。
夜の舗道に、しなやかな彼の足音がひとつ、淡く響いていた。
出会って間もないころの蔵馬と葵の距離感。
書いていてこちらも懐かしい気持ちになりました。
次回より、本編13章となります。かなり長い章となっていますが、お楽しみいただければ嬉しいです。