消えた航跡――特設艦娘の名のもとに――   作:白水つかさ

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リョウコ(呉基地「寮母」)

「連絡を取らせていただいた、白水ツカサです」

「どうも、リョウコです。――取材なんてされたことないから、緊張しちゃう」

 

 にぎやかな喫茶店で、ふっくらとした丸顔の女性と名乗り合い、私は少しだけ意外の感を覚えていた。

 

 (クレ)基地で寮母として特設艦娘たちの生活を支えていた、リョウコという女性。

 その職名と仕事内容から、当時すでに母と呼ばれておかしくない年齢であった、つまり三枝や板東のように現在は六十歳前後だろうと勝手に想像していた。

 だが目の前の女性は色白で若々しく、当の特設艦娘たちと同世代に見えた。

 北関東の――シズが寝台列車〈北斗星(ホクトセイ)〉で通り過ぎたかもしれない市の給食センターで働いていると聞いたから、少なくとも引退するような年齢でないことは予想できたのだが。

 

「呉基地で、寮母をなさっていたと伺いましたが――」

 

 まず水を向けてみると、リョウコはからりと笑った。

 

「いやいや、そんな大したもんじゃないわよ。どっちかって言うと、特設艦娘のなりそこない」

「……え?」

「補欠、なんて言ったら、かっこよくなりすぎるもの。適性検査ではそれなりの数字が出て、訓練を受けたけど、最後までなれなかった口」

 

 その声に暗さはなく、私は腑に落ちたようには感じた。

 適性検査を受ける世代だったのなら、実際の特設艦娘たちと同じくらいの歳のころで当然だ。

 テーブルの上で、毎日の調理場での仕事のためか少し荒れた、だがきめ細かい肌の指を組み合わせ、リョウコは芯のある口調で続けた。

 

「なれなかったにも、いろいろあるのよ。体力や瞬発力の不足から、艤装を起動させられない、海には立てたけどうまく動けなかった、まで。

 あたしの場合は――どうしても駄目だった。艤装を纏うと、拒絶反応っていうのか、目眩と吐き気と発熱とその他もろもろ」

 

 彼女は苦笑する。それでも、目は伏せていない。

 

「詐病と思われても無理はないけどさ……それでも、どうしようもなかった」

「いえ、志願して訓練を受けられたことに、敬意を表します。ましてその後も、呉に留まられたのでしょう」

「本気で言ってくれてるのは分かる。ありがとう」

 

 これもまっすぐに、リョウコが応じてくれた。

 彼女自身が口にしたとおり、さまざまな理由で特設艦娘になれなかった女性は多いのだろう。

 もちろん私を含め、適性がなかった場合は言うまでもない。

 シズやサナエの語る記憶を思い返しても、リョウコに対する優しい感謝が感じられた。

 

「後悔はもちろんあるけど、特設艦娘の子たちも、自衛官の人たちも、気遣ってくれたから。いや、子たちって言っても、私より年上の人もわりといたけどさ。

 でも、アカネはあたしよりだいぶ若かったのに」

「アカネさん――ですか」

「うん。艦娘〈大和(ヤマト)〉を知ってるからか、最初の戦いを経験したからか、黙って隣にいてくれるだけで、ずいぶん楽になった」

 

 アカネの言葉の中に彼女の名は直接的にはなかったが――あるいはそれも、彼女の気遣いだったのかもしれない。

 そんなことを思いながら、リョウコの話を聞く。

 

 


 

 

 だから、寮母なんて大したものじゃないのよ。

 部活でレギュラーになれなかった子が、グランド整備とか道具の片づけとかやってるようなもの。

 もちろん基地には後方要員の自衛官はいたし、女性隊員だっていたけど、少しでも特設艦娘に近い立場や経験の人をつけてあげようっていう配慮だったんでしょうねえ。

 

 あたしは高校出て、何年も食堂で働いてたからね。一人暮らしもしてたし。

 だから料理も掃除も洗濯も、慣れたものだった。

 ……艤装を扱うより、よっぽど。

 

 まあ、上からしたら、あたしみたいな「なりそこない」であっても、ほんとに人が足りなくなったときのために、ベンチメンバーとしてキープしておきたいって思惑もあったんでしょ。

 そんな日が来なくてよかったけど。

 吐き気を乗り越えて海に立ったら大活躍なんて――そんな夢物語は、ないの。

 

 

 わかるのよ。自分がそっち側には行けないって。

 

 適性検査の数字は出ていたし、体力とか反射神経も、ほら、この腕を見てよ。

 当時はもっとすごかったんだから。

 でも……ね。

 もっとこう、芯があるって言うのかな。

 

 アカネ。

 レイカ。

 ミズキ。

 トワ。

 

 わたしよりずっと年下の子たちが、私よりずっと前から、特設戦艦として海に立っていたんだから。

 その凛とした背中を見たら、あたしなんてダメだって。

 もちろん、サナエさんとリナも、シズたちも、ナルセさんも。

 

 あたしは、同じところに立てないのが分かる。

 無理をしたって迷惑をかけるだけ。

 でも、叱咤されてるのとも違う。

 上が期待してることとは別に、あたしはあたしに期待してることがあった。

 それがみんなの期待と、同じだったことを願うばかりよ。

 

 なにかって?

 そりゃ、まあ、料理しかないでしょ。

 あとはこの太い腕でアオイをお布団から引っ張り出すことかな。

 ホントにあの子は朝起きてこなくて……一回物干し台までかついでいって、布団を干すみたいに手すりに両腕をひっかけておいたら、そのまま暢気に寝てたもの。

 

 ……でも、ね。

 そんなアオイも、出撃の朝だけはちゃんと起きてきた。どうしてなんだろうね?

 

 深海棲艦の大艦隊が接近しています、とかいうなら、試合や入試の朝みたいに――って、とても比較にはならないけど――緊張して目覚めるのは分かる。

 でもそうじゃなくて、いつ襲撃されるか分からない、切れ目のない警戒の第一歩なだけでしょ。

 試合の朝って言うなら、護衛の最中に上空を偵察機が飛んだとか、ソナーに潜水艦の感があったとか、そういうときのほうがまだ近い、はず。

 想像しかできないけど。

 

 だけど、出撃の朝を切れ目だと思ってくれてたなら……それは、寮を家だと感じてくれていたことなのかもしれない。

 だとしたら、ちょっとは捨てたものじゃなかったのかもしれないね、あたしの料理も。

 「戻ってきたら、からあげ一個おまけしてあげるから」なんてさ。

 

 

 ――取り合いになったら、今日は幸運。

 

 冷めていく食事を見るのは辛いものよ。

 それでも、作り続けちゃう。何日も、何日も。

 ノゾミの部屋は、電気も消せなかった。

 シズが港で仲間を待っていたときも、あたしは料理を温めてた。

 食べられることのなかった、アオイとマリアのぶんも。

 

 何皿の料理を捨てたか、覚えてないし、数えたくもない。

 ずっと行動をともにしてきた仲間を失った彼女たちに比べたら、悲しむ権利もないけれど、どこかで、毎日、失い続けていく。

 それが海に立てなかったあたしの宿命で、責任で、役割。

 代わりに戦えたらなんて思えないから、せめて、自分にできることをした。

 

 どんな夢を見るか分かる?

 当時は見なかった。いい夢も、悪い夢も。

 疲れてたのもあるだろうけど、無意識に心に蓋をしてたんでしょうね。

 悪い夢なんて見たくないし、いい夢なら、覚めたときがよけいに辛いし。

 

 それで今は――食事が綺麗になくなる夢?

 そうね、惜しい。

 

 知った顔がふっと帰ってくるのよ。なぜだか、いまの学校に。

 それであたしは焦るんだ……やばい、一食ぶん足りない、って。

 実際には学校でひとりやふたりは休んでるから、余りがあって当然なんだけど、夢の中ではいつもちょうど。

 さあて、どうしようかって腕まくりしたところで、目が覚める。

 

 目が覚めると、布団の中で笑っちゃうの。

 「ああ、あたし、やっぱり特設艦娘にはなれなかったわ」って。

 夢でくらい、あたしが深海棲艦をぎったんぎったんにしたっていいと思わない?

 ま、そうは言ったって、現実になってほしいのは、給食が足りなくなる夢だけど。

 だから何度も見るんだろうけど……ね。

 

 


 

 

 リョウコは息をつき、そっと、目尻を拭った。

 外から、帰宅を促す夕方のメロディが遠く聞こえた。

 

「ちょっと前だったら、そろそろ夕食の支度をしないといけなかったんだけど」

「すみません、お時間がないようでしたら」

「いや、子供はだいぶ大きくなったから、まだ大丈夫よ。あのときの私より、とは言わないけど――多くの特設艦娘の子たちより、もうずっと大きくなっちゃったのね。そりゃあたしも老けるわけだ」

 

 窓の外に視線を送って、リョウコがつぶやく。

 最後の部分は冗談めかしたものだったが、いちおう否定しておく。

 

「いえいえ、そんなことは。基地でも、寮母さんというより、お姉さんのような存在だったのでしょう」

 

 リョウコは明るく笑ったが、そのあとで、ふと真顔になって考え込んだ。

 

「そう……でも、ないかもね。いくら途中まで特設艦娘の訓練を受けてた、自衛官より近い立場の女子って言っても、やっぱりあの子たちとは違う。

 いくら顧問やコーチの面倒見がよくても、それだけで部活はまとまらないでしょ? ましてあたしは、顧問の先生どころか給食のおばさんだったわけだし」

 

 そう言われると、経験のない私は否定できない。

 よく部活の例えを使う――自身か、それとも子供さんの経験か――リョウコと違い、私は運動部の経験も多くはないが、耳学問と文化部からの類推程度で反応してみる。

 

「みなさん、懐かしがっておられましたが……ただ、そう仰るのであれば、特設艦娘のなかにキャプテンのような存在がいたということでしょうか」

「そう、そういうこと。まあ、キャプテンって言うよりは――」

「――委員長?」

 

 その単語は、自然と私の唇を滑り出ていた。

 リョウコはうなずき、言葉を続ける。

 どことなく悲しげな、遠くを見る目をしながら。

 

 


 

 

 うん、トワ。

 

 海に立った子たちのなかで、特別に年上ってわけでもない、どころかかなり若いほうだったんだけどね。

 ――十五歳よ?

 なのにというか、だからこそというか、真面目で、肩に力が入ってて、正しくあろうと思い詰めてて、そのくせどこか抜けてて。

 レイカが委員長オブ委員長って言ってたのも分かる。

 

 でも、必要なのよ。

 そういう子が、あの子たち自身のなかに。

 食べたらちゃんと片付けましょう、消灯時刻を守りましょう、人と会ったら挨拶をしましょう。そういうことを言ってくれる子が。

 

 まだ小さくても――ああ、でも、そっか。最初の特設艦娘のひとりだからね。

 その意味じゃ、アカネやレイカ以外はみんな委員長の後輩とは言えるかもしれないし。

 シズたちは年齢も下だから、トワがほんとにいいお姉さんしてたけど、年上の人に対しても“先輩”ではあったのよね。

 

 聞くかどうかはまた別よ?

 夜通し騒いでた子なんて何人もいたもの。

 けど、誰もそういうことを言わないのと、トワがああ言ってるけど今日は聞かないことにするのは、やっぱり違うから。

 

 

 だからみんな、トワのことが好きだった。

 けど本人だけは気づいてなくて、自分のやってることが正しいのかどうか、ずっと悩んでるところもあって。

 

 だから、かな。

 あたしにケーキの作り方を聞きに来たトワは、すごく嬉しそうだった。

 レイカとちょっとだけ打ち解けたかもしれない、って。

 レイカのほうは、ぶうぶう言いながらもずっと前からトワのことを認めてたと思うんだけど、そこで悩んじゃうのがトワだから。

 

「口止め料として、ケーキを作らないといけないんです」

 

 って言うから、あたしはぽかんとしたわ。

 いや、トワがにこにこしてたし、レイカの人となりだってよく知ってるから、カツアゲされてるんじゃないことは分かるけど……説明を聞いて、よけいにあんぐり。

 

 ハルのピンチを見過ごせないのは正義感の強いトワらしいけど、同時に真面目な子でもあるから、人を痛めつけるなんて想像だってできないのに。

 歯茎をものさしでぐりぐりするとかいう恐ろしいことを口にして――かあっとなってただけにしても――それをちょっと照れたように大人に教えてくれるなんて、さ。

 いや、ほんと、実行に移してなくてよかったとは思うけど。

 

「言いふらされたくなかったらケーキを作れ、って。勢いでうなずいちゃいましたけど、作ったことなんてなくて……リョウコさん、どうしましょう」

 

 そう言われて、お菓子作りの本を二人でめくって。

 「無難にいちごショートかな」「それは……無理、です。やったことないです」なんて言い合って。

 結局、簡単に作れるヨーグルトケーキにしようって決めたのよ。

 温めたヨーグルトにゼラチンを混ぜて、フルーツとかも入れて、型に流し込むだけでできるから。

 作り方からしたらゼリーだけど、ホールサイズだからか、その本にはケーキで載ってたの。

 

「これで一週間後、レイカをあっと言わせてやれますね」

 

 そう言って、トワが笑ってたのを今でも思い出す。

 今日はもう遅いし材料も揃えてないから、一週間後に海上護衛任務から戻ってきたら作ります、って。

 ちゃんと一週間後と余裕をもたせたんです、って胸を張ってるのがなんだかおかしかった。

 

 翌朝早くにトワは出撃した。

 助言するとしたらあたしだろうと目をつけて、レイカが何度も探りを入れに来たけど、笑ってなにも喋らなかった。

 レイカ、かえって嬉しそうにしてたわよ。

 「絶対やばい、黒焦げだ」とか騒いでたけど、楽しみで待ちきれない感じだった。

 ハルにも「おまえも一蓮托生だからな」って。

 真面目な委員長が、焼かないヨーグルトケーキでちょっとズルをしたら、ふたりはどんな顔をするか。あたしまでわくわくしてた。

 

 

 ――でも、あの子は帰らなかった。

 

 出撃の朝は、静かだった。

 いつものトワだったよ。

 胸を張って、背筋を伸ばして。

 「遅くなりそうだったら、材料を揃えるのお願いしていいですか?」ってあたしに耳打ちしたことだけが、いつもと違ってた。

 あたしも、任せときなって笑って、いつものように手を振った。

 

 でも、なんか胸騒ぎがしたんだ。

 予感なんて、信じないほうなんだけど――あの時は、どうしても。

 

 戻るはずの日の夕方になって、報せが来た。

 『トワ、未帰還』。

 

 魚雷、四発。

 脚も止まりかけてたのに、腕で這うようにして、最後の一発まで受けきったって。

 

 速力を上げて輸送船との間に割り込んだっていうから、はじめから気づいていたのは確か。

 でも、迷ったのか、迷わなかったのか、それさえもう分からない。

 最後に何を思ったのか、思う時間もなかったのか、それさえもう分からない。

 

 

 すぐ広まった。

 

 レイカは何も言わなくて、絶対に顔を見せようとしなかった。

 アカネは、目を真っ赤にしてた。

 ハルが大泣きしてたのも覚えてる。

 シズたちは、そのときはまだ六人いて、みんなで泣いてた。

 リンが泣くのを見たのは、それが最後。

 

 みんな……トワのこと、好きだったんだよ。

 いなくなってはじめて気づいた、なんてことはなくても、改めて気づかされることはある。

 

 ……聞いてない?

 

 そっか。

 みんな、最後は言いたくなかったんでしょうね。

 怒られるのはわたしでいいわ。へまで海に立てなかったあたしの、もうひとつのへまってところ。

 いまさらになって、ね。

 

 へまなあたしは泣けなかった。

 後悔の涙を流せるのは、自分の行動でなにかを変えられる可能性があった子だけ。

 あたしはただ、トワの死が、そしていままでとこれからのあの子たちの死が、あたしに向かって来る魚雷を防いだからでだけはありえないことに安堵して、そして絶望してた。

 夢を見なくなったのは、その日から。

 

 

 お菓子の本、まだ取ってあるの。しおりを挟んだページ、フルーツごろごろヨーグルトケーキ。

 あれから二度と(ひら)けてないんだけど。

 

 ――変かな?

 

 


 

 

 私はショックを受けた、と書くべきなのだろうが――そうではなかった。

 

 トワがこの世にいないかもしれないという感覚は、うっすらとあった。

 ただ、目を背けていただけで。

 あのときレイカに聞けなかったのも、そのこと。

 ハルがトワの話をしたあとに目尻を拭ったのも、笑いすぎたからではなかったのだろう。

 

 そしてハルが「恐ろしい拷問魔(トワ)にだけは遭遇しないように気を付けたまえよ」と言ったのも、私がはじめに思ったような、痛い目に遭わないようにという冗談めかした警告ではない。

 乱暴な唐変木(レイカ)には遭遇して構わないわけだから。

 ――死なないように、という、言葉だった。

 

 しばらく、レコーダーは、沈黙だけを記録していた。

 そしてリョウコが、静かに口を開いた。

 

「ときどき思うの。トワは正しい子。あの子たちのなかに、そういう子は絶対に必要だった。

 けどあの日、正しさを少し揺らしていたらどうだったのかって。そりゃ大変よ出撃前だけど徹夜してでもケーキ作らないと、そう言ってたらどうだったのか……って」

 

 また、沈黙。ためらった末に――私は言った。

 

「変わらなかったと思います」

 

 リョウコも、その言葉は予想していたようで、黙ってうなずいた。

 それは絶望と似ているが、少し違うもの。

 

「トワさんの正しさは、揺らがなかったでしょうから」

「――そう、ね。トワはトワ。もしそうしてたら、あの日寝不足で送り出してなければどうだったのかって思うあたしがいるだけか。夢は夢、海の彼方の蜃気楼」

 

――――――――――

 

 リョウコと別れてすぐ、ふたりに電話した。

 

 レイカは「戻ってくるかもしれないだろ」と言ったが、声に力はなかった。

 それでも、彼女らしく言った。

「家出しただけだろ。真面目な委員長に限って、ワルにひっかかって駆け落ちとかするからな。……そうだろう?」

 そしてあの日の記憶を、まるで人捜しの手がかりを提供するように、教えてくれた。

 

 ハルには電話を切られた。

 何度もかけ直して、リョウコも伝言してくれて、ようやくつながった。

 ひとつも口を挟ませないと言わんばかりの切り口上で、あの日の記憶を伝えられ、最後に、「頼む」と言われた。

 書かないでくれと頼まれたのか、書き残すよう頼まれたのか、分からない。

 

 だから、これは。この先は。私の勝手な想像だと、思ってくれていい。

 

 


 

 

 レイカが、ハルの車椅子を押している。

 適当に進んでいるように見えて、その実ずっと先まで目を配って段差やがたつきがないルートを選んでいる。

 トワはふたりの横を、生真面目な表情で歩いている。

 

 雨上がりの夕焼けが、彼女たちの横顔を染めていた。

 

「災難だったな。ま、あんなクソ野郎のことなんか覚えておく価値もねえよ。お茶して忘れようぜ」

「みんながみんな、あなたみたいに無神経の唐変木じゃないんですよ? きちんと報告して公式に処罰してもらうべきです」

 

 大きな丸眼鏡をきらめかせ、頭から湯気を立てているような様子でトワが口を挟む。

 レイカがにやりと笑って、

 

「どの歯を何センチ沈めたか確認して?」

 

 と言うと、トワの顔が真っ赤になる。

 

「だ、だから、あれは口が滑って――」

「いやいや、最高だったぜ? だからみんなにもトワのかっこいいところを教えてやらないと」

「や、やめてくださいっ! なんでもしますから」

「なんでも? ふーん」

 

 洗濯物をこっそり引っ張り出したポメラニアンのような、レイカの悪い笑顔。

 肩をすくめて、それでも本心から居心地が悪いというふうではなく、ハルがつぶやく。

 

「ちょっと、責任を感じるな……」

「そんなことないって。――あー、甘いケーキが食べたい。それも手作りのやつ。ま、お勉強しかしてない委員長には無理だろうけど?」

 

 ちらりと、レイカがトワに流し目をくれる。

 そのときのトワの表情こそ見ものだった。

 悔しそうで、嬉しそうで、そして挑戦的な顔。

 

「いいでしょう、口止め料は手作りケーキですね。出撃から帰ってきたらばっちり作ってあげますから、一週間後、覚悟してなさい」

 

 ぷんすかと歩き去っていくトワ。

 覚悟と言われて、こっそりと、ハルの耳元にレイカがささやく。

 

「なあ、あいつ、大丈夫なのか? 黒焦げケーキとか出されたらおなかいたくなるぞ」

「私に聞かないでよ……でも、まあ、賭けろと言われたら黒焦げかな。意図的にそんないやがらせをする人ではありえないけど、そもそも作ったことがあるかというと、さ」

 

 ハルは目をそらす。それから、くすりと笑った。

 

「ただ、少し意外かな」

「ん? 何がだよ」

「――黒焦げでも食べてあげるんだ。あと、おなかいたくなるって言い方がちょっとかわいい」

「……なっ!?」

 

 レイカは息を呑み、拳を振り上げかけてから、深々とため息をつく。

 それから、上の空でぶつぶつとアイデアらしきものをつぶやきながらすっかり先まで歩いていってしまっているトワに呼びかける。

 

「おーい、トワ! こいつも目撃者だから口止め料がいるぞ」

「ちょ、私を巻き込まないでくれないかな、別に喋らないから――」

「あ、そういえばたしかに――きゃあっ!?」

 

 最後の声は、足下がお留守になっていたうえに振り向いたせいで、なにかに蹴つまづいたトワのもの。

 だが、真っ先に笑い声を立てたのも、当のトワだった。

 三人の少女の笑い声が、雨上がりの夕焼け空に溶けた。

 

 

 一週間後、同じ時間。

 雨は、降り止まなかった。




……と、いうことでした。つかさとしてはあまり言えることはありません。
ツカサたちの今後を見守るばかりです。
次回は8/24(日)、あのとき兄と妹が語った特設艦娘の記録をお届けする予定です。
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