第3話 フェリーと離島
黄色い船体は、夜の
隣の白と青の船とともに、静かに出港の時を待っている。
飛行機ならオンラインチェックインが普及しているけれど、この船はウェブから予約しても窓口で発券してもらうことになる。
釣り人らしき人たちがちらほらといるだけの、静かな客船ターミナルに足を踏み入れ、カウンターへ。
「本日は条件付き出港となります。ご乗船されますか」
窓口の女性に平らかな声で告げられ、私は首をかしげた。
「条件付き……ですか?」
「海況によって、入港できない可能性がございます」
下調べ不足で知らなかったのだが、多くの便が条件付きになるらしい。
だから乗船手続きもオンラインで完結せず、港で当日の状況を聞いてからなのかもしれない。
彼女の波立たない声に、深海棲艦との戦争の最中も、同じように船と乗客を送り出していたのだろうかと、ふと埒もないことを思う。
少なくとも彼女本人があのころ窓口にいたとは思えない年齢に見える、が――それは同時に、もしかしたら、海に立っていたのかもしれない年頃だということ。
けれど、
「だいじょうぶです。よろしくお願いします」
少なくともいまは、気象の問題であって、敵艦に航路を阻まれるようなことはない。
大きな船と整備された港でも、自然を完全にねじふせることはできないという、ただそれだけのこと。
スムーズに発券を受けてから、ひとつ聞いてみる。
「あと、すみません。先に出る船を見ることはできますか?」
「もちろんです。建物の二階からがよく見えますよ。寒いですから、暖かくしてどうぞ」
「ありがとうございます」
業務用ではなさそうな笑顔に見送られ、私は階段を駆け上がった。
――特等室。
取材のひと区切りとなる旅だから、ということもあって、奮発した。
ベッド、シャワーブース、窓際の丸いデスクとチェア。
ホテルのように心地よい空間だけれど、すべてがしっかりと床に固定されていることが、改めて船を実感させてくれる。
岸辺から白い船を見送ってから、自分も船上の人になった。
露天のデッキにも行ってみたいと考えていたが、室内におちつくと、もっとゆっくりしていたいと思いはじめてしまった。
チェアに腰かけ、ロールカーテンを上げて港の景色を眺める。
物思いにふけることさえせず、ただ外に視線を投げてぼうっとしていると、足元がかすかに振動をはじめた。
エンジンに、本格的に火がはいった気配。
「本船は間もなく出港いたします。お客様は――」
船内放送が、やわらかく流れる。
ふと思いたって、室内の灯りを消す。
もちろん、なにもかつての灯火管制のまねごとをしたいわけではない。
ただ、光が窓に反射せず、もっと景色をよく見られるようになるだけ。
舷灯も、デッキの照明も、明るく、堂々と輝いている。
それを可能にした人たちのことを、想う。
景色が、流れだした。
出港。
工場と港と街の光が、ゆっくりとうつろう。
外からの明るさだけに照らされる、あたたかな夜に、私は抱かれていた。
備え付けのポットでお湯を沸かし、緑茶を淹れて、また夜を見る。
いつまででも、座っていられる気がした。
外海に出たあたりで、ロールカーテンを下ろし、シャワーを浴びる。
入浴グッズの入った袋には、船のマスコットキャラクターが描かれていてかわいい。
いまはトラックドライバーをしているもと特設艦娘の女性が、北海道と関東、中部までをつなぐフェリーには、大浴場があると教えてくれたことを思い起こす。
けれど、海で眠れるなんて思わなかった彼女も、海に立てなかった私も、いまでは海で安らぐことができるのはおなじ。
備え付けの浴衣に着替え、ベッドに横たわると、エンジンの心地よい振動が伝わってきた。
掛け布団にくるまり、目を閉じる、けれど。
「……眠れない、ですね」
ぽつりと、つぶやいてみる。
波の揺れのせいかもしれない。
お茶のカフェインのせいかもしれない。
いつもとちがう枕のせいかもしれない。
その、どれのせいでもないのかもしれない。
だからベッドから出て、もういちど、窓ぎわのチェアに腰かける。
ロールカーテンをあらためて上げ、もうなにひとつ灯りのなくなった景色を見るともなく見る。
暗い潮の流れのようにゆっくりと、よどみながら、時間が流れていく。
なにもないことは、解っている。なにもないことを願い、なにかが闇から現れることを恐れる
深く、息をつく。
目をとじる。
どうしてか、わからないけれど――このまま、眠りたいとおもった。
「――おやすみなさい」
また、ひとこと、つぶやく。
目がさめたのは、船内放送でだった。
窓の外は、まだ暗い。
ひとつめの島には、早朝五時に入港する。それを知らせるアナウンス。
デスクにつっぷして眠っていたので身体はあちこちきしんだけれど、不思議と気分はよかった。
お湯を沸かし、こんどはほうじ茶を淹れて、海を見る。
ぼんやりと黒いかたまりが、海から盛りあがってくる。
火山島は、ごつごつと、それでいて木々に覆われてやわらかく、水の領域に
やがてごとんとひとつ大きな振動がきて、フェリーは港にもやわれる。
「お降りのおふたりさま、
穏やかなアナウンスを聞いて、うれしくなった。
待っていられるのは、平和な海のあかしだから。
……まあ、大きく時間を過ぎればいまだって出港するのだろうけど、二度目の放送はなかったから、きっと間に合ったのだとおもう。
一時間後の次の島は、あいにくの「条件付き出航」適用だった。
入港不可。
けれど、帰路に再度入港を試みるという。
私の目的地は次の、最後の島だからではあるかもしれないけれど、これもまた、うれしい。次があるのはいいことだ。
下船までは、まだ二時間以上。今度こそ、ベッドにもぐりこむ。
布団にくるまると、たちまち眠気が私を包んだ。
船は波を蹴立て、
濃い紺の海でもがく
黄色い船体が陽光を跳ねちらして黄金の鎧のように輝き、最大出力で回転するエンジンに駆動される船首が波頭を切り裂く。
足が濡れるのも気にせず砂浜を歩き、市長に挨拶する。
上陸した船客たちが、市民と握手を交わしている。力強い汽笛が鳴る。
――私は苦笑した。夢、だった。
覚めてみれば、定期航路のフェリーが救難のために急行することも、浅い砂浜にのしあげるようなこともありえない。
まだ、海に立ちたかったという思いが心のどこかに残っているのか、機関が揺らす船体が私の心まで波立たせたのかと、笑うしかない。
せいぜい、コップのなかの水のような、ちっぽけな心ではある。
けれど必ずしも、痛みをともなう苦笑ではなかった。
ロールカーテンを下げるのを忘れていたので、いつのまにか、窓の外は明るくなっていた。
いちおう、レースのほうを引いてから、浴衣の前を合わせる。
裸足で歩いて、ドア脇のポットで、三度目のお湯を沸かす。
出港前に買っておいた、朝食のカップスープ。
入港を試みます、という放送があった。
まだ、確定ではないようだが、船はほとんど揺れずに着実に航路を進んでいる。
けっきょく、夜の出港から朝日のもとでの到着まで、いちども部屋の外に出ないことになりそうだ。
朝食バイキングもあるのだけど。
艤装を
「晴れた日にフェリーのデッキに出ると、光と、風と、波の揺れとエンジンの振動が感じられますよね。あんな感じ」
だという。
それでこうして、区切りの旅で似た感覚を体験しようと思ったのだが――到着まで、部屋のなかで過ごすのもよいかと思った。
私が艤装の感覚を知るまえに戦争を終わらせられたことが喜びだと、おなじ女性が言ってくれたから。
私の未練については、また、来ればいい。
この旅の帰りは飛行機にしてあるけれど、いつか別のときに。次があるのはいいことだ。
浴衣から、旅の服に、着替える。
入港する、という放送があった。
緑の島が、海から立ちあがる。よく整備された桟橋が見えてくる。
鞄に、まだ真っ白なページが残る手帳と、ICレコーダー、草稿の束を詰めこんだことを確かめる。
鏡を見て、軽く、両手で頬を叩く。
鋼鉄ではない柔らかな靴を履き、しっかりと紐を締める。
また、歩き出すとき。
私は、外套を纏い、鞄を肩にかけて、入室して以来はじめて、扉を開けた。
消えた航跡を、辿るために。
最終章「再び、記録者の記録」に直接つながる場面です。
かつてと違っていまでは海で眠れるトラックドライバーはシズさん。第1章にも記録がありますが、今の仕事は「シズと瞬」のほうで。最初の特設艦娘はむろんアカネさんです。