第X話 詩の解釈(グランチェスターと天使)
「ドゥー・リーバー・ゴット!」
ここにいる僕は、汗をかいて、気分が悪くて、暑い。
あっちでは、木陰のつめたい水が
熱い肌にそっと触れようとしてるってのに。
気性の激しいドイツのユダヤ人たちが
あたりでビールを飲んでいる。――で、
露が黄金色の朝にやさしく降りている。
ここではチューリップが命令どおりに咲くけれど、
あっちでは手入れされなくたって、生け垣のまわりで、
野の薔薇が風にゆれる。
――――――――――――
「ツカサさん」
名前を呼ばれる。――少しくすぐったい。
「なんですか?」
「グランチェスターの詩をあらためて読んでいて、すこし気になったのです。ベルリンのカフェの部分が」
わたしたちが座っているのは、ベルリンではないが、カフェのテラス席。
グランチェスターの詩は、特設艦娘の記憶を辿る旅の記録の、最初と最後に、日常の象徴として引用したものだ。
そのときはもちろん翻訳したけれど、いまスマートフォンで示されたのは原語のほうだった。
箇所も、引用した部分とは違う。
「"Du lieber Gott!"というところだけ、ドイツ語ですよね」
「カフェでの会話が聞こえてくる描写ですから、ドイツの人たちがドイツ語で話しているのは自然ですけど……私は、訳すときは音のままカタカナにしました。英語話者がこの部分はぱっとは意味をとれないのと同じかなと」
わたしたちも、カフェで会話をしている。
だんだん顔が近づくのが心地よい。
なお意味は英語の"Oh my god"のようなもの、らしいけれど、漏れ聞こえた会話というだけの断片ではある。
「ええ。そして会話しているのは、"Temperamentvoll German Jews"。この形容詞もドイツ語ですが……」
言葉が途中で切れる。
形容詞のほうは、たしかにドイツ語で、「気性の激しい」「情熱的な」くらいの意味合いだ。
どこかでそんな女性に出会った気がする……というのはさておいて、日本語に訳すなかでことばが違うニュアンスを残すなら「エネルギッシュな」と横文字にするか、あるいは、漢語風に「意気衝天の」や「怪気炎を上げる」とするか。
実際には、こだわりすぎるところではないと思って、ふつうの日本語にしたのだけれど。
ただ、気にしているのはその先。
「ドイツのユダヤ人、というところですよね」
「ええ――」
「わかります、けど。でも、この詩は第一次世界大戦の前、ベル・エポックです。アインシュタインやベンヤミン、プラハから来たカフカもカフェにいたかもしれません。それにブルックは仕事の都合でも、もちろん従軍した部隊の移動につれてでもなく、自分で選んでベルリンにいるわけですから」
詩人は後にはドイツに対抗して従軍するし、政治家が私に送ってきた『死者』や、『兵士』のような愛国詩を発表するけれど、グランチェスターは違うのでは、と思った。
もっともそこには、日常として引用した私のひいき目もあるかもしれない。
でも、彼はうなずいてくれた。
「反独感情や民族差別を読みとってしまうのは、『死者』を知っている後世の私たちの誤解ではないかと思います。……思いたい、のかもしれませんけど」
柔らかなほほえみ。私は勢いづいて、少々temperamentvollに続ける。
「ドイツだけではなく、グランチェスター以外のイギリス各地についてもすごいですよ。シェルフォードの人たちは口も心もねじまがっているとか、コートンは名状しがたい犯罪に満ちているとか、妻をセント・アイヴズに行かせるくらいなら撃ってしまうとか」
「誇張法、ですかね。確かに本当であるはずのない大袈裟な言いかたで、どちらの国もおとしめるつもりはなさそうです。が、ひどい嘘をついてはいけませんと、歯茎をぐりぐりされるかもしれません」
誰よりも正しい委員長。その声を知っているのは私ではないことに、少しだけ痛みもおぼえる。
けれど――と、そこで、電話が鳴った。
私は頭を下げてから、スマートフォンを手に取る。
「取り込み中?」
電話口から聞こえてきたのは、temperamentvollそのものである声。
少し前に、特設艦娘とは違う話を聞いた、IT企業の女性社長。
着信表示で名前が分かると確信して名乗りを省略するところも、それでいてちゃんと相手の都合は確認するところも、いかにも彼女らしい。
仮に番号を登録していなかったとしても、聞き間違えることはないだろうし。
「いえ、話を伺う時間はあります」
カフェから追い出されも、置き去りにされもしない。
そう
楽な姿勢で、彼女の話を聞く。
「ありがと。『可逆性』だけど――」
それは、彼女の過去を描いたノンフィクション小説を書いた際に、知ったタイトルだった。
盲目のAI技術者が口にした、天使にただ祈りだけを願う人間の詩。
なぜその詩が引かれたのか、天使とは何なのか、彼女とふたりでいろいろな可能性を考えたのだった。
私は思わず、くすりと笑い声をこぼした。
「ん? なんか変なこと言ったかしら」
「いえ、ちょうど別の詩のことを考えていたところでしたので」
「そりゃまた偶然ね。でも、気分転換になって新しい手が浮かぶかもよ?」
「期待しています」
遠慮なく、けれどこちらの利益も示して、彼女が依頼を投げてくる。
日々のディールの景色が、見えるような気がした。
まずは彼女の話を聞く。
「天使の意味はまあ、確定しないまでもいろんな説明ができたとして。ただ、可逆性ってなに? 人の老いも、天使が老いないことも、人と天使の立場も、ぜんぶ不可逆よね」
タイトルである「可逆性」は、フランス語でReversibilite。
もとに戻せるという意味だが、老いは取り返せないし、入れ替えられるという意味だが、人と天使が立場を替えることもできない。
「死んで天使になるってのはただの言い方にすぎないし」
と彼女が軽く笑いをにじませて言うのは、現在を確認できなかった盲目の技術者が現世にあるのか、あのとき私が一瞬懸念してしまったからだ。
が、彼は生きているとのことだったし、いずれにしても可逆性というタイトルにそんな意味はない。
神学的には、天使と人は違う存在だ。
コーヒーカップに指を当て、すこし考える。
そよ風が吹いて、葉擦れの音がした。
葉に交じるように、言葉を紡ぐ。
「意思だけは可逆である、健康を願うダヴィデになるか祈りを願う詩人になるかだけは選べる、ということでしょうか。天使になにを願うか、それだけは、自由意志で」
「なるほど、ねえ。……まあ、間違った願いを、敗着の一手を、あとで悔やんでも不可逆だけど」
「それは……」
「と、感想戦はおいといて。面白い読み方だとは思うわ」
「ふつうは人間が天使に祈ります。けれど、この詩では人間が天使に
彼女とふたりで考えたときのように、あるいは特設艦娘たちが自らの経験を語ったときのように、口にしながら思いをまとめる。
もう一歩、彼女が踏みこむ。
「どんな祈りを? 人間が天使に祈るのは神に取りなしてもらうことよね。でも、彼我は可逆としても、天使が人間になにを祈るの? 人間は天使を神に取りなすことなんてできないわよ」
「聖母や聖人なら別かもしれませんが、ボードレールは聖人ではないですね」
「でしょ。あのとき彼が詠んだのは、わたしだか世界だかが天使、ってなぞらえだから、祈りも観測と読み替えればよくて、べつに何を祈るってことを気にする必要はなかった。観測ならなんだって観測できるからね。ただ、詩人じしんはどう思ってたのかな、ってこと」
ふと、私を見ている人を見る。
安心する。
詩人が天使に求めたことも、あるいは同じなのかもしれないと思った。
死んだともだちの視線を感じることはないと、辛くないことが辛いと、そうつぶやいた女性のことも、想った。
「祈っているという事実そのもの。観測しているということそのもの。
「……なるほど、ねえ」
「世界に向けて、この人はひとりではないと記す印」
苦悩が、憎しみが、熱病が、老いが、なにひとつ変わらないとしても、
あなたとともに苦しもうとしただけだ、は天使ではなく人の子になるほうだが、近くはある。
つまり、
「――姉妹に。きょうだいに、でしょうか」
最終決戦を前に“旗”にそう記した、美しいひと。
特設艦娘の少女たち、そしてそれだけでなく、艦娘たち。
違っていて、そして同じ海に立った女性たち。
姉妹たちに彼女が捧げたひとことは、祈りでもあったのだろうかと思った。
そして電話越しの彼女も、また違う戦場に立っていたし、今も立っている。
うなずくような気配が、音だけでも感じられた。
「きょうだいって言えば、天使ってほんとの――ってのもなんだけど、わっかのついた天使でいいの? この世界にいる綺麗な人間じゃなくて。永久にかはともかく、その時点で“老いを知らない”“病を知らない”“恨みをもったこともない”は具体の人にも該当しうる表現よね」
「それは、誰か具体の才能あるごきょうだいが念頭に――」
「余計なことを言うとまたメカニカルタークにするわよ」
ライオンの咆哮が、聞こえた気がした。
彼女のオフィスを訪れたときは、出口で余計なおせっかいをしてすぐ逃げようと企んだのを読まれていて、ドアを開かなくするという方法でつかまって人力仕分け作業をさせられたのだった。
もちろん、今回は電話だから、だいじょうぶ。
……だと思うが、念のため、周囲を見まわす。嵐のような美人の姿はない。
それに、もしどこかに隠れていたとしても、今回は同行二人だから大丈夫なはずだ。
きっと。
「それが答えではないですか? ボードレールも、傷ついた人でした」
少しだけ、沈黙がただよった。受話器の向こうで、彼女がオフィスチェアに深く背中を預ける姿が見えるような気がした。
「……はぁ。世界はともかく、具体的なひとりに観測されなくたっていいわよ。おらおらでしとりえぐも、で。あのとき舞台にさせてもらった福島よりもっと北だけど」
「南に、もう少し暖かいところに、住まれているように見えますけどね」
彼女の嘆息。けれど、苦くはない。
諦めに似ていて、少し違うもの。
そして鮮やかに、異なる戦線を指しすすめてくる。
「ところでいまあんたひとり? 具体のだれかがいそうだけど」
こくりと、息を呑む。でも、動揺はなかった。
「――ええ。います」
「ふうん、あっさり認めるじゃない。キョドるかと思ったのに」
それは残念でしたと返して、なんとなく、旧友のように、笑いあう。
あるいは、姉妹のように。
「反撃失敗か。こんど紹介しなさいよ」
「機会がありましたら。でも、インターンか新人だと思って、お手柔らかにお願いします」
「よく言うわ。――じゃあね、邪魔して悪かったわ」
「いえ、楽しかったです。また」
根掘り葉掘りせず、からりと彼女は電話を切った。
カフェのざわめきは電話のまえと変わらないはずだが、とても静かに思えてきた。
電話を鞄にしまい、ぺこりと頭を下げる。
変わらない微笑みが目の前にある。
「すみません、長話で」
「いえ、観測していて飽きませんでした」
「……」
そう言われると、照れる。
私がなにも返せないでいるうちに、もうひとこと。
「どなただったかは分かった気がします。アンティゴネー社の」
「ええ、お察しのとおりです。つかまってひどい目に遭いました」
「楽しそうでしたよ」
「否定はしませんけど……少しくらい、心配してくれてもいいんじゃないですか」
ちょっとだけ、すねてみる。
幸いにして――たぶん、幸いにして、で正しいはずだ――こんど紹介しなさいという彼女の発言は電話越しだから聞こえていなかったはずだし。
けれど、
「天使には、心配ではなく、見ていることが相応しいでしょうから」
さらりと言われて、私は真っ赤になった。Du lieber Gott!
――――――――――――
ぼくが知ってるのは、きみが寝ころんで、
ケンブリッジの空を一日じゅう見上げていられるってこと。
草のなかで花の香りにうとうとして、
すずやかに流れる時を聴いていられること。
やがて時代が溶けあい、ぼやけていくんだ、
グランチェスターで、グランチェスターで……
「委員長」は多くの人の記憶で語られる「トワ」。アカネやシズやレイカやハルやリョウコ、そして「シズと瞬」で。
同行二人のほうはトラックドライバーのシズ。
そして「姉妹に」と旗に記したのはアカネです(書いたことが言及されるのはサラの証言ですが)。
「女性社長」はまえがき記載のとおり、『消えた航跡』ではなく『3月のスフィンクス』の香子です。ツカサと同年なので、海には立てなかった世代。
そして、なんと言えばいいのか……本編完結後にこんなことになっているとは、です。///
そして、あっちでは、縛られない太陽が
一日のおわりに転げるように眠りにつき、
ぼんやりしたいいかげんな星――スリッパを履いた宵の明星――が
起きてくる。
それに、ハズリングフィールドやコートンへ続く牧草地、
そこには「立入禁止」なんてない。
↑最初のエピグラムのすぐ先ですが、末尾に掲げるにはそのさらに先のほうがよさそうだったので、泣く泣くカットしました。ここで供養しておきます。