壁にかかった みどりの瓶が十本
壁にかかった みどりの瓶が十本。
もしも一本 落ちてしまえば
壁にかかった みどりの瓶が九本。
中学校の校門をくぐると、二十年以上前、無理を言って特設艦娘になるための検査を受けた日を思い出した。
あの日と同じように、傾きかけた日が目を射たためかもしれない。
けれど今日は、検査結果を知らされて泣く子供はおらず、部活動の元気な声だけが校庭に響いていた。
もちろん、ここは私の故郷ではない。
北陸の、戦争当時とは名前の変わった市。
学校の名前は当時の市名が残っていて、当時この中学校の教員から特設艦娘として招集され、いまは同じ学校の校長先生をしているサナエという女性に、私は話を聞きに来ていた。
少し緊張しながら受付で名前を書き、校長室に案内される。
扉を開けると、窓から校庭を眺めていた姿が振り返った。
「白水ツカサさん、ね。迷わずに来られた?」
白いものが混じり始めた髪を肩のあたりでふわりと揃え、まなざしは信念を秘めつつもあくまで穏やか。
この学校に通う子供たちは幸せだろうな、と、真っ先に思った。
風貌からも、立場からも、戦争当時に三十歳前後、というところだろう。
やや珍しくはあるが、例がないわけでもないと聞いていた。
そしてすっと伸びた背筋は、私がこれまで会った特設艦娘たちに共通するもの。
「迷わずにというよりは、間違えずに、かしらね。小学校は東西南北で、中学校は第一第二第三。新入生が、僕は東側から来た、なんて話していると、東西冷戦の時代かと思うわよ」
快い声で、サナエが笑う。
大きなデスクの前のソファーに、低い机を挟んで座り、私たちは向かい合った。
「教師として出征されたことには、ご自身も、また周囲も、複雑な思いがあったかと思いますが――」
レイカに言われたこともあり、こちらから水を向けてみる。
波立たないなめらかな口調で、サナエが口を開いた。
教え子を戦場に送るなという声? もちろんあった。
だから、教師として出征したときは、確かにだいぶ複雑な目を向けられたものよ。
生徒の代わりに危険を引き受けることでもあり、避けたい戦争を拡大させることでもあり。
とはいえ私個人としては、特に迷いはなかった。
私にできることがあり、必要とされていた、だから答えたというだけの単純なこと。
実質的な選択の余地は乏しかったと思うけれど、それでも、私としては「自分で選んだ」という気持ちはある。
それに子供と夫のためにも、死ぬつもりはなかった。
意外? でも、自衛官もまた父であり母であり、誰かの子であったのよ。
私もまた、求められた役目を果たしただけ。
ええ、私は〈特設空母〉。
艦娘のなかには〈
あちらは旧日本海軍では「特設空母」と呼ばれたこともある商船改造の軽空母だろうと、正規空母だろうと、はたまた船団護衛を主任務とした艦の顕現である護衛空母であろうとも、すべて乗組員と航空機搭乗員の意思を継いでいた。
だから、搭載機数の多少はあれど、それぞれの定数ぶんは同時に展開できた――艦娘は、ね。
私は、そうではなかった。
ただの、特設艦娘に過ぎなかった。
自分の意識を複数の機体に分けて、空を飛ぶというのは……簡単ではなかった、と言っておくわ。
少なくとも八八艦隊として進水した戦艦であるアカネやレイカ、サラの艤装に水上偵察機や観測機はなかったし――はじめから諦めていたのか、第2次で戦訓からオミットしたのかは聞いていないけれど――、特設空母も、私の知る限りでは私とリナだけだった。
ふたりとも教師だったのは偶然かしら……リナとそれについて話したことはなかったけれど、おそらく偶然ね。
教師は生徒に意識をねじこんで空を飛ばせたりしませんから。
できたら楽だと思うときはありますけどね。
……面白いときは笑ってくれて構いませんよ。
校長になんてなってしまうと、なかなか砕けた話もできなくて。
面白くなかったら、そうね、呪いをかけてみて。来賓の話が延々終わらないときに使いたくなるやつを。
うまくいったら、私にも呪いかたを教えてちょうだい。
ええと、どこまで話したかしら。艦載機?
特設空母と教師の共通点、強いて言えば、担任としてクラスに広く目を配る視野の広さ、学校行事を計画してかつ自分が進めるという立場あたりは関係があるとこじつけられるかもしれないけれど――それなら、学級委員長や生徒会長でもよいのではないかしら。
……素敵な子たちが、たくさんいた。
それよりも、むしろ――失うことに耐えられるかどうか、かもしれない。
教師は否応なく、卒業というかたちで生徒を送り出す。
いっぽう意識を分けた航空機の動きは鈍くて、事前に決めた索敵線に沿って直線的に飛ぶだけ。深海棲艦の艦載機にかかれば、簡単に落とされる。
もし運よく先に気づいて回避機動に入っても、そのあいだ注意を向けられない他の機体はカモもいいところ。
何度“死んだ”か分からない。
月並みな表現で言えば、魂を削ること。
削られたように見えるかしら?
ほら、目を見て。
――冗談よ。面白いときは笑ってくれて構わないと言ったでしょう?
目を見れば心が分かるなんて、私は信じない。
子供の目はきらきらしていた、なんてね。
単に水晶体が若くて透明度が高いだけの話に過ぎない。
やましいところがあれば視線が泳ぐ、呼吸が速くなる、汗が浮かぶ――そんな即物的なことを、目を見れば分かる、と言っているに過ぎない。
誤解しないで、子供が嫌いなわけじゃないから。
あのときも好きだったし、今も好き。
そうじゃなければ続けられないわよ。あんなことも、この仕事もね。
事故で手足を失った人が魂を失うわけではないように、機体を失った私が魂を失ったわけではない、と思っています。
むしろ、次第に覚えるの。切り捨てることを。
輸送船を、子供たちを守るために、自分の一部を切り捨てることを、ね。
その覚えならば、卒業を知る教師は少しだけ早かったのかもしれない。
分かってきた顔ね。
ええ、敵影が確認できれば、それで十分。
あとはその機体は落としてもらって、次を発艦させたほうが早い。
同時に飛ばせる数に限りがあるだけで、特設艦娘としての艤装じたいにはそれなりの機数が備えられているのだから。
いま風に言えば死に戻り?
生徒たちを前にして、現実はゲームじゃありませんよ、って教えるのに、ある意味では都合が悪くて、ある意味ではとても説得力のある体験ね。
彼女に言われたとおり、私は小さくだが、笑い声をあげた。
うまく表現できないのが申し訳ないが、サナエの口調は脅したり怖がらせたりするものではなく、純粋に興味深い体験を説明するという風なものだった。
きっといま校長先生の話を聞く生徒たちも、心から納得するのだろう。
「撃墜“した”ことは?」
だからその言葉は、自然と口をついていた。
柔らかく受け止めるように、サナエがうなずく。
「いい質問ね。“戦争”の話をすると、どうしても被害者の立場を強調しがちになるけれど、あなたの言うとおり。
私たちができたこと、為したことを、しっかりと見つめる必要がある」
冷静な口調で、サナエが言葉を続けた。
ただ、期待に沿えなくて申し訳ないけれど、撃墜したことはないわ。
何しろ深海棲艦は艦娘と同様、多数の機体を一度に制御できる。
最低でも二機いち編隊、通常は四機かそれ以上といった数が相手では、操縦技術や機体の性能以前の問題ね。
もっとも、こちらは自分自身が海に立つことにも意識を割かなければならないから、一対一なら勝てたと言うつもりさえないけれど。
そういうとき?
もちろん逃げた。“わたし”とは違う方向に。
むしろ襲われただけ大成功で、気づかないうちに輸送船の頭上に敵編隊が現れるよりよほど望ましいでしょう。
逃げて行った先で、おそらくヌ級だったと思う、手足の生えた大きな口のような深海棲艦に逆落としできるかと思ったことが一度だけあるけれど――降下に移るかどうかというところであっさり意識が途切れた。
でも、潜水艦なら沈めたことがありますよ。
油断して海上に浮上している潜水艦を、小型の爆弾で一撃。
もしそれは外しても、見つけた場所に駆逐艦の子を誘導すれば、共同撃沈ひとつ。
少なくとも潜水艦が顔を出さなくなれば、輸送船は守られる。
あるいは逆に、駆逐艦のソナーで潜水艦を見つけて、航空機から爆弾を落とすこともあった。
少しだけ、生徒と一緒に理科の実験でもしている気になった。教員免許は中学と高校の理科だったから。
三組――第
のんびりしていて朝なんて全然起きてこないのに、どうしてか爆雷のとても上手な子がいたの。
「アオイさん、ですね」
分かりやすいサナエの説明に、合いの手を入れるようなつもりで私は言った。サナエは、一瞬目を閉じた。
そして瞼を開き、こちらを見た眼からは、何かが欠け落ちていた。
彼女の謂いに沿うならば、それは魂の欠落などではなく、ただ内心の動揺を示す即物的反応だということになるのだろうが――機体を失ったところで自分の魂が削れたとは思わないと言い切った彼女が、何ならば喪失と呼ぶのか、その答えを私は知っていた。
「――どこまで知っているの?」
平坦な声で、サナエが問う。目を、そらせない。
「彼女が、いないこと……」
まるで大きすぎる制服を着た中学一年生に戻ったような気分で、私は答えた。
――そうね。中学生には、できない話もある。
船団護衛は、だいたいの場合において機能した……けれど、敵の数が多すぎて、みんなの爆雷が尽きたときがあった。
そもそも、みんなと言ってももうそのときは三人だけだった――アオイとマリア、シズ。
私の艤装にはまだ艦上爆撃機と対潜爆弾が残っていたけれど、基本的には油断して浮上してきている、あるいはせいぜい急いで潜航しようとしている段階の潜水艦相手にピンポイントで当てるためのもので、深く潜った相手に網をかけるために広い範囲へばらまくには不向き。
船団司令からの命令は明確で、議論の余地はなかった。
アオイは触接を保ち、マリアはその至近で対空警戒。
シズは船団の先頭に立って水面下を、私は船団中央から艦載機を飛ばして海上をそれぞれ警戒する。
私以外は誰も爆雷を持っていないから、潜水艦に対しては丸腰だけど。
……そんな顔をしないで。命令は合理的。
潜水艦がどこへ行ったか分からない、という状況にするわけにはいかない以上、誰かがソナーで居場所を捉えている必要がある。
深海棲艦からしても探知され続けているのは嫌なものでしょうし、こちらの爆雷が切れたと確信できるわけではないはず。
一方で他の敵がいるかもしれないから、船団にも目が必要。
だから、怪我をしたアオイも、マリアも、シズも、私も、そのようにすることがもっとも正しかった。
みんなで逃げようなどという命令があったとすれば、私たちはそのほうに怒りを覚えたでしょうね。
「リョウコさんによろしく」
と、脚に包帯を巻きながら、いつもののんびりした口調でアオイが言った。
リョウコは寮母。どうしても起きてこられないとき、みんなで口裏を合わせてアオイは体調不良なんですとごまかしたことがあるから、そのこと。
「先公、タバコよこせ」
ぶっきらぼうに言ったのはマリア。
一度もそんなことは言わなかったのに、悪ぶって嫌われようとしたのは見え見えだった。
そんなことしたって、別れが辛くないほど嫌いになれるわけがないのに。
「あとで生徒指導室に来なさい、お説教よ」と切り返したら、くしゃっと「馬鹿」って笑われた。
「先生、行くよ」
シズに短く言われて、袖を引かれた。
彼女のほうが、よほど言いたいこともあったでしょうに、軽く手を挙げただけだった。
「――じゃ、またあとで」
シズは振り返らなかった。
私は何度も振り返ってしまって、マリアがアオイの肩を支えている姿が、そのたびに小さくなっていくのを目にした。
けれど、私にはまだ弾があった。
船団を港へ急がせながら、前方を艦載機を飛ばして警戒しながら、アオイとマリアのところへ対潜爆弾を積んだ艦爆を向かわせた。
アオイはしっかりと潜水艦の位置を捉えていた。
彼女の指示するところへ、爆弾を落とした。
さっきも言ったとおり、深く潜った相手に当てられるとは思わなかったし、実際当たらなかったけれど、牽制になればそれでよかった。
それから、艦爆を切り捨てた。
帰艦させる飛行時間は無駄でしかなかったし、着水させるくらいだと全損しないから意識を切り戻せない。
だから海面に全速力で突っ込ませた。
痛みは感じなかったし、急降下の短い間さえ惜しいと思った。
……その短い間に、潜水艦の影が潜望鏡深度に上がってきて、しかも増えているのが“見えて”しまったから、なおのこと。
次の艦爆が着いたときには――もう誰もいなかった。
やみくもに海面すれすれを旋回して、いつしか燃料が切れるのを感じて、それきり。
船団には攻撃はなかった。
ある程度引き離せば、潜水艦では船団に追いつけないから。
港で、夜更けまで、シズと待っていた。
まだ春にはなっていなかったけれど、寒さは感じなかった。
今度は私が、シズの手を引いた。
私は、息が詰まりそうな思いで言った。
「それだけの犠牲が、必要だったのですか」
サナエは目を閉じ、迷わず首を横に振った。
だが、そのあと彼女が語った言葉は、私の単純な思いをたやすく覆すものだった。
「いいえ。必要だったのは、戦うこと。あるいは、存在すること、と言っても同じ」
「……存在?」
「犠牲そのものが必要だったわけではないし、船団司令も、犠牲にしたいと思ったわけではない。むしろ戦力計算だけで言っても、犠牲を出すべきではないでしょう。
――それでも、あの海にアオイとマリアが立っていることは、必要だった」
「……」
「犠牲と存在は、似ているけれど違う」
私はふと、アカネやレイカが、特設艦娘と艦娘について同じように、似ているけれど違う存在だと述べたことを思い出した。
なら今回は、いったいどちらが不気味な模倣なのか、と。
だがもちろん、サナエは同じことを論じているわけではない。
「ひとつ、似ているけれど違うことを挙げれば、補助線になるかしら。学校では、生活態度も評価される、ということを」
かすかに、サナエが笑った。
「時間どおりに席に着く、私語をしない、ノートを取る――それを犠牲と言ったら教育委員会が目を吊り上げて私を爆撃しに来るでしょうけど、少なくとも遊んだり寝たりする時間を犠牲にはしているでしょう。
それは、評価される、必要な犠牲」
私は無理矢理、乾いた笑いを押し出す。
サナエの言いたいことが、少しだけ見えてきた。
「生活態度のほうを、評価してはいけないと言うわけではないのよ。そちらは、いま芽が出なくても将来に大成するかもしれないし、別の教科や分野で成功する助けになるかもしれない。
けれど、戦うこと、存在することは、似ているけれどまったく違う」
「少しだけ……分かる、気がします。将来とか、別のとか、そういう余分な意味は、戦場にはないということでしょうか」
「ええ、未来は関係ない。その瞬間、その場所に存在する誰かが必要とされた、ということ。
それだけであり、それが全てでもある。
そして私たちは、その誰かになる道を自ら選んだ」
ある意味で、彼女の論理は三枝のものと類似していた。
だが、サナエの言葉には特設艦娘たちの名前があり、なにより一人称があった。
それもまた、似ているけれどまったく違うもののひとつかもしれない。
あのときシズが語った内容を、私は思い出した。
「……英雄なんかじゃないとか、あんたたちは捨て駒ですって正面から言ってほしかったとか、シズさんが言っていました」
懐かしそうに、サナエが目を細めた。
「彼女らしい言い方ね。でも、私が言ったことも煎じ詰めれば同じ。艦娘が担えない、特設艦娘の役割を、私たちは果たした。
先ほども言ったとおり、私たちは――少なくとも私は、正しいことをしたと思っている」
「シズさんも……そう思っていたと、私は感じました」
「ええ。英雄扱いは御免だけれど、悲劇のヒロインでもない。あなたが泣いたのは、あるいは傲慢かもしれない」
咎めるような声ではなかったけれど、私は何も言えなかった。
正しさとは何か。あの戦争とは何だったのか。
サナエはその問いに、自らの答えを持っていた。
優しく、サナエが言葉を続ける。
「もちろん、私の考えに過ぎないけれど。シズは泣かせちゃったと恐縮していたし」
私は頭を下げた。
そして――ふと、とても奇妙な考えが浮かんだ。ぽつりとつぶやく。
「煙草を吸われますか?」
あっけにとられたように、サナエが言った。
「いいえ。学校は全面禁煙ですよ」
「でも、あの戦争のころは違ったはずです」
「そうだったわね。でも、なぜ?」
外のグラウンドから、なにかの部活の声が遠く響く。
サナエの目をまっすぐに見つめ、私は言う。
「マリアさんは、あなたに憧れたんじゃないかって」
はじめて、サナエの目が少しだけ揺らいだ。
「あら。あのときから二度と吸えなかったのだけれど、だとしたら、悪いことをしたかしら?」
寂寞として、そしてそんな自分自身を面白がるように、サナエが言う。
正しさと悪さの境界が、ほんの少しだけ曖昧になったような響き。
誰に悪いことをしたというのか、私には分からなかったし、おそらく彼女にもそれだけは答えがないのだろう。
「でも、駄目ですよ。校長先生が煙草を吸っているでは示しがつきません」
サナエの笑顔に、微笑みを返し、そうですね、と、私は言った。
なにか最後の最後で不思議な終わりかたをしたと例によってつかさが驚いています、というか、今回はツカサに完全に上を行かれたような。マリアと煙草のエピソードはシズの記憶でも触れられていましたが。
次回はここ2回の比較次第なのですが、7/15(火)か7/20(日)に。活動報告でお知らせしたいと思いますが、ご意見はお気軽にお寄せください。