ハル(特設艦娘:駆逐棲姫型)
だが、大型模型を中心とした戦艦のゾーンに比べて、艦娘のゾーンは明らかに人が少ないように思えた。
まだ血を流している記憶に触れたいと思う人は、必ずしも多くないのかもしれない。
ナルセの顔と鈍い頭痛を思い出して、少しだけ引き返したくなる。
「――やあ」
ちょうどそこで、声をかけられた。
大和の艤装の前で立ち尽くしていた私に、歩み寄る人。
アルトの声は博物館の静寂を乱さず、沁みる。
いや、彼女が使っているのは車椅子だったが、それは、歩み寄るとしか表現のしようはない。
聾者が手を使うことが、話すことであるのと同じように。
両脚とも膝の上から失われているようだったが、手で車椅子を操り、なめらかに歩く。
「はじめまして、ハル、だ。その顔だと、レイカからは私が“こう”だとは聞いていないのかな? ツカサさん」
ショートカットの髪型のためか、細く華奢な体つきのためか、どこか中性的な雰囲気をもって、いたずらっぽく彼女――ハルが笑う。
私はおずおずとうなずいた。
「え、ええ――」
「逆に、どこまで聞いたのか興味があるな。珍獣とか? 怒らないから言ってごらん」
車椅子だから目線は私よりも下になっているが、ハルの態度には気後れも、さりとて圧迫感もなく、歩くように自然だった。
そのために膝をつくことも忘れ、立ったまま私は答えた。
「ええと……私室につき立ち入り禁止という札を首からぶら下げているような人、と。なので逆に遠慮はいらない、何でも聞いてみたら、だそうです」
あまりといえばあまりな物言いだったが――ハルは真っ白い喉が見えるくらいにのけぞり、大笑いした。
SNSで曖昧な感じで迷いを吐露した私に、まさにそのとおりの言い方でレイカが反応してくれたのだが、彼女の言葉から想像していた人柄とは大いに違い、でもやはりそのとおりだと思った。
あけっぴろげに見え、とっつきにくさは微塵もないが、やはり奥には一線がある。
「なるほど、今の仕事とか、これとかは、答えないかもしれない。でも、確かに、答えないよと答えるだけだ。気分を害しはしないね」
左手を、ひらひらと振る。シンプルな白金のリングが、薬指で光っていた。
「そういうキャラでインタビューの練習をしろ、ってことじゃないかな。それで、何について知りたい?」
「――ありがとうございます。レイカさんにも、同じ問いかけをされました」
「それは心外だな……彼女と私とは正反対だと思うよ」
必ずしもそう思ってはいなさそうな口調と表情で、ハルが言う。
白く細い指で、自らの髪をつまんでみせ、言葉を続ける。
「長い黒髪と短い色素の抜けた髪、すらりとした長身と膝から下のない車椅子暮らし、そして傷だらけになっても戦い抜いた最初の特設戦艦と――深海の特設駆逐艦」
「――え?」
年齢では同い年くらいに見えるが、戦歴は違うのだろうレイカへの素直な敬意に満ちたハルの列挙をほのぼのと聞いていた私は――最後の言葉に、耳を疑った。
片頬で微笑んで、彼女が説明する。
ああ、知らなかったかな?
まあ、あまり大っぴらにはされていないし、レイカは、彼女のことだから、言うも言わないも私にお任せのつもりだったんだろう。……まったくもう。
どこから説明しようか……そうだね、まずは一般論からかな。
深海の特設艦娘と言っても、もちろん深海棲艦がわの勢力というわけじゃない。
特設艦娘とは、艦娘の艤装を模したものを人間が纏う存在と定義できるけど、模した対象が、深海棲艦だということさ。
人間が纏うことに変わりはないから、当然ながら戦う相手は深海棲艦であり、人狼ゲーム風に言うなら人間陣営だよ。
普通の特設艦娘の場合は、鉄やアルミと弾薬で“艦娘の艤装のようなもの”を作ったうえで、“艦娘の顕現のようなこと”をするわけだけど――前者が違う。
艦娘や特設艦娘が撃破して得られた“深海棲艦の艤装そのもの”を纏って、“艦娘の顕現のようなこと”をするんだ。
本来、深海棲艦を倒して得られる資源は加工して艦娘が使うらしいけれど、当の艦娘は沈めばそれきりで、数は減るいっぽうだったから、ね。
だからポイントのひとつは、深海を纏う――深海棲艦の艤装を装備することだけど、もうひとつ忘れてはいけないポイントは、儀式そのものは深海棲艦出現の模倣ではないということだ。
まあ、深海棲艦が顕現する回路は当時もいまも推測すらできていないし、仮に手がかりがあったとしても危険すぎる。
本質的には特設艦娘一般と同じだから、精神汚染とか肉体浸食とかといったアニメみたいなことはない。
と、思うけど、どうかな?
ふふ、冗談さ。
ともあれ私たちは、艦娘顕現の模倣を深海棲艦の残骸を纏って行う、ある種のバグだった。
けれどそのぶん、深海棲艦を混乱させることができて、奇襲や強行偵察といった任務には向いていた。
性能も、同一人物が両方を装備もできない以上あまり比較に意味はないけれど、反応性がよいとは見られていたようだね。
……私は自分が最強じゃなかった、それどころか最強の特設駆逐艦でさえなかったことは、よく分かっているけど。
私は思わず、周囲を見回していた。
人の気配はなく、メモリアルの空間は彼女の言葉を静かに吸い込んでいたけれど。
「それは……公にして、大丈夫なのですか」
「もちろん、別に裏部隊というわけじゃないよ。公刊戦史をよく読めば、駆逐級艤装のタイプA――
さらりと、ハルが答えた。
「そう、ですか……ただ、気になる部分があればいつでも仰ってください」
「気遣いに感謝しよう。幸か不幸か、気にする当事者はそう多くない。普通の特設艦娘よりも、個別性も強いしね」
「由来となる深海棲艦によって、ということでしょうか」
「そういうこと。私の艤装も――なにしろ脚の無い使い手だからね。一品ものだ」
太腿までの脚にかけられた毛布を軽く両手で叩き、軽い口調でハルが言う。
私はまた硬直した。当然、というのもおかしな表現だが、レイカの“勲章”のように、戦傷によって脚を失ったのだと思い込んでいた。
だが、ハルは今の姿で艤装を使っていた、という。
「
私の反応を、というより、自分自身を面白がるような、ハルの口調。
挙げられた名称は、かすかに覚えがあった。
浮遊する深海棲艦、というくらいの、漠然たるイメージが私の頭に浮かぶ。
ハルは、自身の個別の体験へと話を進める。
そう、脚が無く、球体のような艤装で浮かんで移動していた深海棲艦。
やつらは強力になるほど人型に近づくとも言われていたけれど、駆逐艦でありながら人型の姫級だ。
つまりその艤装を得られれば、脚が無い人間に適している。
まさか?
そう、そのまさか――じゃないよ。切られたわけじゃない。
だって、艤装に身体を合わせないといけないなら、輸送ワ級になるためには妊娠するか太るかする羽目になるでしょ?
キミは読んだことないと思うけど、一昔に大嘘の暴露本になりかかってさ。
みんなで訴訟して回収に追い込んだからこっちは楽しかったけど、ま、誰がどう見たって嘘だと分かる話だからね。
でも、私が駆逐棲姫の艤装を使っていたのは本当。
切られたわけじゃないのはさっき言ったけど、じゃあ特設艦娘として負傷したからかというと、それも違う。
どころか、戦争初期に空襲されてとか、家族をかばってとか、そんな因縁すらないんだ。
単に中学のとき、つまり、戦争が始まるより前の事故。それこそ、お話にならない、ってやつ。
で、予想はついてると思うけど、事故については私室につき立ち入り禁止。
あのときはお役所仕事に感謝したね……どう見たって海に立てそうにない私も、一律で検査を受けることになったときは。
そしたら、なんと適合率99.8%だってさ。
検査した人も驚いただろうけど、私だってあっけにとられたよ。ちょっと笑っちゃうくらいにさ。
とはいえ、普通の艤装は脚が無い人間向けには作られていない。
そもそもが原理も分からないまま艦娘を模倣しているから、車椅子風、つまり模倣もとたる艦娘と違う形にして機能させるにはどうすればいいか分からないわけだ。
そして実際、機能させられなかったらしい。
そのせいでしばらく待たされてから、賢そうな人たちに呼ばれた。
深海棲艦の艤装――いや、駆逐棲姫の艤装がある。
これなら、もとが脚の無いつくりだから、きっと動くだろう、ってね。
正直、気味は悪かったよ。
でも、まあ、思った。
どうせ私の脚はもう戻ってこない。
それなら、もう少し、歩いてみてもいいかなって。
それが文字通り、
うんざりしてたんだとは思う。
車椅子となくなった脚をじろじろ見られるのにも、生ぬるい同情に答えていつも同じ話をするのにも。
――いや、今は違うよ、レイカの言うとおりに。だからキミが気にすることはないけれど、それはまた、あとで話す機会があるかもしれない。
感覚は……異質だった。
もちろん私は普通の特設艦娘について実感があるわけじゃないけど、レイカやトワ、アカネが語ってくれたことはあるから。
海に立ちつつ艦橋で風を受ける感覚?
そういうものは、私にはなかった。
使いこなせるようになるまでにも、シズたち駆逐隊よりよほど時間がかかった。
海に立つ、じゃないんだ。――深海にいる。
深海にいて、イメージだけが水面にぽっかり浮かびあがっている、と言えば、少しは伝わるかな。
とはいっても、もちろん、人間や艦娘に危害を加えてくるのは水面のそれだし、そのイメージに砲弾を叩きこめば破壊できるんだから、ただの蜃気楼ともまた違うけれど。
そしてさらに深海棲艦そのものの場合と違って、私は人間で、身体は確かに海の上にある。
私は海に立っていて――座っていて、かもしれないけど――、艤装も水面に浮かんでいて、でも同時に深海にいる。
混乱するよね? 私も混乱した。
それでも、慣れるのに四苦八苦した甲斐はあったと思うよ。
少なくとも、戦術的にはあったとされている。
そして私個人としても……あったと思う。
足が無いほうが適応しやすくて良かったかもしれない、と埒もないことを思えただけでもね。
それから、レイカがキミを送り込んできただけでも――ね。
ハルの視線は、私を通り過ぎていた。きっと、レイカに会えただけでも、と言いかけたのだろう。
光栄です、とお礼を言う。
彼女を思い出すよすがに使ってもらえたのなら、とは、こちらも口にしなかったけれど、お互いに通じたと思う。
「それはそうと、ずっとここで喋っているのも迷惑じゃないかな」
人が多いわけでもなかったが、ハルがそう言う。
その気配りは、車椅子での生活にともなうある種の後天的な本能のようなものかもしれないが、暗さは感じさせなかった。
「メモリアルの横に、カフェがあるそうです」
スマホで調べて、私は言った。ハルがうなずく。
「押しましょうか?」
「押します、じゃないのが、分かってるところだね」
「いえ……」
「大丈夫ではあるけど、車椅子の人間の横をただ歩いていますでは、キミを見る人の目が少々冷たくなりかねない。喜んで力を借りよう」
また、少し斜めに構えた、だが柔らかな言葉。
最後に
移動しながら、話を続けてみる。
「なぜ、深海棲艦の艤装を用いた特設艦娘は少ないのでしょう?
当初、慣れるまでに時間がかかったとのことですが、ずっと違和感があったわけはないでしょうし、精神汚染のような影響はご冗談なのですよね。
深海棲艦を混乱させられるメリットを考えると、もっとご活躍が知られていてもよさそうですが」
ハルは私を振り返り、それから前に向き直って首をかしげた。
大和メモリアルは、性質上とうぜんかもしれないが、バリアフリーが行き届いていて、彼女の体が車椅子の上で跳ねることはほとんどない。
「複合的な理由かな……ひとつひとつは克服できなくもないにせよ、いろいろと課題があった。――いや、そうでもない、か」
言葉にしながら考えをまとめていくような、ハルのつぶやき。
アカネも「長くなりそうですね。いや、ならないかも」と、似たような言い方をしていたと、ふと思い出す。
特設艦娘は戦いながら考える――というほどでもなく、単に、人が過去を振り返るときには似たようなふるまいをするだけかもしれないが。
「まず、いろいろ、のほうを伺っても?」
「そうだね、順を追って話そう。聞き上手になってきたね」
練習しろと言われたこともあって、水を向けてみる。
快く響くアルトで褒められて、いささかくすぐったい。
指を一本一本立てていきながら、ハルが説明した。
「いろいろ、のほうは、並べあげてみれば簡単だ。
異質な感覚のせいで慣熟に時間がかかる、実際の影響はなくても周囲からの視線のせいで不安定になる子もいた、敵を倒さなければ艤装の根幹が得られないから生産・育成の計画が立てづらい、そして……単純に気味が悪いってこと」
「……」
「当時の報道を見れば、外見も重要だということは分かるだろう?」
「そう、ですね」
姫級のような深海棲艦には、凄艶な美しさがあったとも漏れ聞こえるが――いずれにしても、彼女の理路は外見以外の部分も含め明確だった。
海の遠くに見える姉たち、特設艦娘の少女たちの姿に無邪気に憧れた身としては、やや恥じいる思いでうなずく。
「そして、そうでもない、のほうは……ひとつ、どうしても克服できない理由があった、という意味さ。――艦娘は私たちを撃つ」
私は息を呑んだ。
ハルの声に恨みの陰はなく、淡々と乾いているが、それゆえにいっそう重い。
「まあ、そうだよね。普通の特設艦娘なら、似ているけれど違う存在だから混乱する、くらいで済むけれど、深海棲艦は、艦娘にとって明確な敵だ」
「ですが、そういう存在だと説明すれば――」
「もちろん、理性があるからさすがに頭では理解して、鎮守府から基地に殴りこんできたりはしなかったけど、海に出たら艦娘は頭で動くわけじゃない。戦場じゃ何人沈められたやら。
だから生き残った深海棲艦タイプは、生み出された数以上にひどく少ない」
のけぞり、車椅子の背でさかさまになって私と目を合わせ、ハルが薄く笑う。
だがそれは一瞬で、また深く座り直すと、私からは表情が見えなくなる。
問い返す私の声は、少しふるえた。
「艦娘と特設艦娘は接触させないようにしていたと聞いていますが……奇襲や強行偵察といった任務であれば、なおのことです」
「それでも、ね。レイカに聞かなかったかい? 派手に
ハルは肩をすくめた。
いま何を聞いたところで、事実が変わらないのは明らかだが、せめてもという思いで私は尋ねる。
「しかし、特設艦娘どうしは――」
「ああ、それはもちろん。普通の特設艦娘が派手にやって艦娘が来たら以下略だから、限りはあるけどね。それでも可能なところでは共闘したよ、もちろんレイカとも」
と言ったところでハルは前のめりになって顔を押さえ、身をふるわせた。
泣いているのかと私は心配したが、よく見ると違った。
――声もなく、大笑いしている。
「どう、されました?」
「――いや、ちょっとね。違う共闘を思い出した」
振り向いたハルの輝く瞳に、引き込まれる。
私は目をしばたたいた。メモリアルから外に出た、陽光の眩しさのためばかりではない。
「紅茶をおごってくれれば、話してもいい。ケーキだと口止め料だからね」
カフェの入り口で、ハルが笑った。
ケーキがなぜ口止め料なのかは分からないが――もちろん、私に否やはなかった。
私が、
こんな身体だから、ずいぶんとちやほやされてさ。
車椅子を押してくれたり、落としたものを拾ってくれたり。
……けど、正直に言えばイヤだった。
私は自分の行きたいところに行きたかったし、もっとゆっくり景色を眺めたいときも、早くトイレに駆け込みたいときもあった。
どうして脚をなくしたのかとか、そんな身体で訓練してる気持ちはとか、根掘り葉掘りに聞かれるのもうんざりしていた。
――でも、それはいけない自分だと思っていた。
親切には笑顔で答えないといけない、質問にはきちんと返事をしないといけない、それがまだ戦いにも出られず、彼らに助けられてるだけの私にできる唯一のお礼なんだから、と、ね。
そこに至るまでの詳細は省くけれど、つれなくしてしまった基地の男に逆切れされて、車椅子を倒されて雨の地面に突き倒されても、私が応えなかったのが悪いと思って声を上げられなかった。
逆切れって言えるのは、今だからであって、あのときの私は自分のせいだと思ってしまっていたんだ。
深海棲艦の成れ果てはバケモノらしく海の底に沈んでろよ、って血走った目で言われても、ああ、そうなんだな、って思った。
けど、そのとき。そいつの姿が消えた。
レイカに胸倉掴まれて、宙吊りにされてた。
「そんなに沈めたかったらおまえのくさい前歯を歯茎に沈めてやるよ」って、スケバンもいいとこだけれど――当時の私には、とても格好よく見えた。
いや、違うな、今も恰好よいと思ってる。
ちなみにいくらレイカが長身とはいえ、男を宙吊りにできたのは軽艤装、砲塔こそ展開していないものの腕や足の艤装を纏った状態だったからだけど、それはむしろ男にとって幸いだったんじゃないかな。
生身だったら、棒かなにかで思い切り殴りつけてたと思うから。
そういう戦術判断は、幸か不幸か、私たちはみんなできた。
ともあれ男がもがいてるところに――トワが息を切らせて走ってきた。
「ほ、報告しますよ!」って。
ほら、トワは真面目な委員長で、レイカはちょっと不良っぽかったから、いつも角突き合わせててさ。
そのときも邪魔されるんじゃないかって、レイカが睨みをくれた。
そしたら……「どの歯を何センチ沈めたか確認して報告します、さあ早くしてください」。
……うん。トワは何を言ってるか分かってなかった。
怒ってるのと走ってきて息が切れてるのとレイカに睨まれたので真っ赤になってて、小さな手にものさしを握りしめてた。
たまたま持ってたものと状況がごっちゃになって、本当に頭から湯気が立ってるみたいな感じだったよ。
それでも金属の定規を男の口に近づけたものだから、トワが来て一瞬助かったと思ってた男は余計にひどいことになった。
あの綺麗な指で口をこじあけられて、ものさしを歯茎につっこまれる想像をしたんじゃないかな?
いや、そんな恐ろしそうな顔をしないでいい、本気でやろうとしたわけじゃ……あったか。
レイカに――ということは男に――つかつかと近づいていって、「さあ早く」ってまた言ったし。
まさかの共闘、だよ。
男は悲鳴を上げて身をよじっていて、レイカが吹き出して手を離した。
逃げていく男を追う前に、トワが「ちょっと、あの人はハルさんにひどいことをしようとしたんですよ、どうして逃がすんですか」なんて言うから、かわいそうに、ツボにはまって声も出せない状態で笑ってた。
そんな状態でも、車椅子を起こして、私を抱え上げて座り直させてくれる動きだけは、ふたりぴったり息が合ってたのはさすがと言うしかないけど。
「トワさん、確認というのはどうやって?」
「それはもちろんこの定規をさしこんで……あ」
年下の少女に助けてもらって、濡れた服まで拭ってもらっているところに悪いけど、なにしろレイカは息ができなくなってるし。
私が説明せざるを得なかったね。キミはこれから恐ろしい拷問をするぞって言ったんだ、って。
「や、報告……確認……拷問魔……」とかレイカが息も絶え絶えにつぶやいてるから、声だけ聞いたら大惨事だったよ。
――で、さ。笑ってたはずが、なぜだか急に泣けてきた。
なんでこんなことになってるんだ、って。
ふたりは何も聞かなかったし、私が泣きながら話したら何も口を挟まなかった。
この身体でいることが辛いんじゃなくて、この身体に踏み込まれるのが辛いんだっていうことを、私ははじめて自分で分かった。
話すことで自分で気づいていく間じゅう、レイカもトワも何も言わないで、ただ、雨をさえぎってくれていた。
いつのまにか、雨は止んでいた。
それで最後に「やっぱり確認しとくべきだったな……」って、私じゃなくてトワのほうを見ながらレイカが言った。
トワはぷんぷん怒って、処罰は当然ですけど正式な手続きを踏まないといけませんとかなんとか言ってたけど、急にトーンダウンして「でも、ハルさんが掘り返されて辛かったら」って。
ごめん、そこで「歯を掘り返されるともっと辛いと思う」と言ったのは私だ。
レイカも、トワまでも吹き出して、私はもう大丈夫と思ってくれたのか――レイカがトワを絶賛しはじめた。
褒め殺しもいいところで、こんな武勇伝を広められたら委員長は大変だ。
何でもするからやめてくださいって言って、レイカがそれじゃあケーキが食べたいって答えた。
だから――ケーキは口止め料、なのさ。
ハルは――今のハルは――笑いすぎたのか、そこで目尻の涙を拭った。
私は笑っていいものかどうか決めかねていたが、とにかく、腹筋は辛いことになっていた。
紅茶はすっかり空になっている。
「恐ろしい話だろう? 深海棲艦の残骸を救うために、不良と委員長が共闘したとんでもない顛末。それでこんなのができたんだ」
くい、と車椅子の上で背をそらすハル。
「それまで人ごとのように受け入れていたことが、乱暴な唐変木と恐ろしい拷問魔のおかげで、怒っていいんだと思えるようになった――いや、少し違うか」
単語の恐ろしさとは裏腹に、とても優しい響きでトワが言う。
そしてまた、言葉にしながら答えを探している。
「線を引いていいと思えるようになった、が正しいかな。こんな身体だとどうしても立ち入られがちになるし、善意の容喙に怒りはしないけれど――私は私でそこに一線を引いたっていい。
そう、ふたりのおかげで思えるようになった」
「分かります、と言う権利は……私にはありません。少し前にも、踏み込み過ぎて人を傷つけてしまいましたから」
名前や詳細は伏せつつ、ナルセのことを簡潔に説明する。鈍い頭痛。
だが、うなだれる私の目の前で、白く細い指が、机にひとつ線を描いた。
「いいんじゃないかな。どうでもいい相手だと、理解されようもないと、彼女がそう思ったのなら、キミを傷つけることで、自らの境界線を示そうとはしなかっただろう。
キミが分からされたのは、そういうことだと……少なくともそういうことでもあると、私は思うよ」
「ですが……」
「きっと線を引くことも、やりながら覚えていくことだから。
だから、キミはそれでいい。彼女にとって、それでよかった。
もちろんキミが辛すぎるなら、その限りではないけれどね」
左手を下に重ねられた指の隙間から、かすかに白金が光を弾く。
ハルは私をまっすぐに見つめ、微笑んで言った。
「――
私は笑って、礼を言った。
ハルの言葉の真意を知るのは――もう少し先のこと。
新章「深海を纏う」ハルの記録をお届けしました。
相変わらずつかさはツカサと記録される人たちに振り回され、かろうじてついていっている感じですが、お読みいただいているみなさまに感謝を。
次回は8/10(日)、特設艦娘たちの戦いを見届けた自衛官の記録をお届けする予定です。