暖かい目で見守っていただけると幸いです。
濡れたアスファルトに、血のにおいが混じるのを彼は知っていた。
それは高校の帰り道、いつもの交差点、信号が点滅し始めた時だった。
ふと目を下に落とし、スマホを取り出した瞬間、世界は砕けた。
耳を劈くようなクラクション。視界の端に現れた大型トラック。
その運転席の男と目が合ったような気がした。口が何かを叫んでいた。
次の瞬間、彼の身体は空を飛んでいた。
痛い、という感覚よりも、なぜ、という言葉が先にあった。
人生のエンドロールにはあまりに滑稽な幕引きだった。
「こんなのってないだろ」
その悔しさも、苦しさも、すべてが無言で押し流されていった。
肺に血が逆流し、呼吸はできず、目が霞み、心音は遠ざかっていった。
そして、全てが静寂に包まれた。
だが、終わりではなかった。
彼は、“目覚めて”しまったのだ。
最初に感じたのは、重い瞼と、柔らかな感触だった。
まるで綿の中に沈んだような不思議な浮遊感。
そして――
「……お目覚めですか、リリア様?」
まるで誰かが他人の名前を呼ぶような声。
そこから始まったのは、自分のものではない人生。
鏡に映ったのは、透き通るように白い肌、金の髪、そして青い瞳の美しい少女。
そう、それが彼の新たな肉体――
貴族、エルデン伯爵家の娘、リリア・エルデンだった。
生き返った、などという言葉では済まない。
完全に別の存在として、“転生”していたのだ。
最初のうちは、戸惑いと混乱の中にいた。
女の身体も、貴族という身分も、何もかもが不慣れだった。
それでも、暖かな家庭の中で、美しい姉と過ごす日々が、少しずつ彼女の心を馴染ませていった。
クララ・エルデン。
リリアの姉。四つ年上で、優しく聡明で、まるで太陽のような存在だった。
クララと一緒に過ごした日々は、確かに楽しかった。
一緒に花を摘み、紅茶を飲み、夜には絵本を読み聞かせてくれた。
「あなたは私のたからものよ」
そう言って頭を撫でてくれた、温かな手の感触がまだ残っていた。
だが、その幸せは、突然終わりを告げた。
ある日、出先からの帰路、リリアの乗る馬車が賊に襲撃されたのだ。
目的は金ではなく、“商品”。
リリアは袋に詰められ、攫われた。
そこから始まったのは、拷問と凌辱の日々だった。
焼けた鉄で皮膚を焼かれ、舌を噛み切ろうとすれば歯を折られた。
何度も何度も身体を“使われ”、そのたびに魂は削り取られていった。
左目はある夜、ナイフで抉られた。眼球が砕ける感触と痛み、嗚咽しか出なかった。
目を失っても、男たちは手を止めなかった。
使い物にならなくなれば、次は別の“使い方”をされるだけだった。
自分は人ではなく、道具で、商品で、物以下の存在なのだと、繰り返し教えられた。
助けが来たのは、それから十数日後だった。
その間に、リリアの中にあった“何か”は壊れていた。
言葉を忘れ、感情を捨て、ただ痛みに身を任せていた。
救出され、屋敷に戻ってきたとき、彼女はようやく泣けた。
クララ姉さまが、きっと迎えてくれると、信じていたから。
だが、家族の反応は違った。
「穢れた娘を、これ以上屋敷に置いておけると思うのか」
「名前を呼ぶな、クララ」
「二度とあの子に近づいてはいけません」
父も、母も、リリアを見る目はまるでゴミを見るようだった。
姉であるクララは――ただ、黙って目を伏せていた。
それは、リリアにとって、何よりも残酷だった。
彼女は部屋に閉じこもるようになった。
食事は使用人が黙って扉の前に置くだけ。
誰も話しかけないし、視線も合わせない。
まるで屋敷の中に、存在しない物のように扱われた。
眼帯をつけた左目の痛みは、今でも時折うずく。
鏡を見るたび、傷跡と、それでもなお“美しすぎる”顔が憎らしかった。
その顔のせいで、あんな目に遭った。
それなのに、未だに男に魅力を与えてしまうこの容貌が、気持ち悪かった。
鏡を割った。
陶器の破片で手首をなぞった。
薄く血が滲み、鈍い痛みが走る。
だが、それでも“今、生きている”と感じられた。
「……クララ姉さま、なんで……どうして私を、見てくれなかったの……」
誰もいない部屋の中で、リリアは小さく独り言を漏らした。
涙が一筋、頬を伝った。
その声を、扉の外で聞いていた影がいたことを、彼女は知らなかった。
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扉の外で、足音を潜めていたクララは、震える手で胸元を掴んでいた。
どうして、もっと早く――
あの時、家族の言葉に逆らってでも、リリアに声をかけていれば。
あの瞳が、血の涙を流すような痛みを抱えていることに、なぜ気づけなかったのだろう。
彼女は、妹を守るべき姉だった。
だが、その役目を果たせなかった。
今さら後悔したところで、あの子の中に刻まれた地獄は、消せはしない。
だけど、それでも。
「……話したい……会いたい……」
その声は、誰に届くこともなく、廊下に消えた。
翌朝、屋敷に一台の馬車が到着した。
王立リスティア魔導学院――
貴族子女を中心に、魔術の素養を見出された者が集う、名門中の名門。
学院の使者は簡素な礼をとりつつ、手短に用件を伝えた。
リリア・エルデンに、入学資格が与えられたというのだ。
エルデン家の当主である父は、迷うことなく承諾した。
「好都合だ」とでも言いたげな表情で。
屋敷の誰もが、リリアがいなくなることに安堵していた。
その異物が、屋敷から去ることを喜んでいた。
クララは、その中で唯一、顔を強張らせていた。
このまま別れれば、もう二度とリリアとは話せない。
それは分かっていた。
でも、足が動かなかった。
リリアに向かって「姉として会いたかった」などと言う資格が、自分にあるとは思えなかった。
リリアは、学院用に仕立てられた黒いドレスに身を包み、淡々と荷をまとめた。
誰の助けも借りず、誰にも目を合わせず、静かに部屋を後にする。
廊下を歩いていると、ふと背後から足音がした。
振り返ると、そこに立っていたのは――クララだった。
姉の顔には、迷いと後悔と、ほんのわずかな決意が混ざっていた。
「リリア……」
名前を呼ばれても、リリアは反応しなかった。
表情を変えずに歩き続けようとする。
クララはその腕を取ろうとするが、すんでのところで手を引っ込めた。
その代わり、低く、祈るような声で呟いた。
「……また、いつか……会えるよね……?」
リリアは立ち止まった。
背を向けたまま、何も言わずに。
ただ、ほんの一瞬だけ。
その右目の縁に、かすかに光るものが浮かんでいた――
それが涙だったのかどうか、クララには分からなかった。
リリアは振り返らずに、屋敷の門をくぐり抜けていった。
遠ざかるその背に、クララは手を伸ばしかけて――そして下ろした。
「……ごめんね……リリア……」
誰にも聞こえない、小さな声だった。
学院行きの馬車の中、リリアは窓の外をぼんやりと眺めていた。
どこまでも広がる田園風景。
暖かな春の光。
そして、ようやく手に入れた“居場所ではない場所”。
あの屋敷よりは、マシだろうか。
あるいは、また違った地獄が待っているのか。
彼女はもう、何も期待していなかった。
どこで生きようが、心は壊れたままだ。
それでも――
「……今度こそ、誰にも触れさせない」
その小さな誓いは、心の奥底に冷たく沈んでいった。
そして、彼女の物語は、再び動き出す――