あの学院の門をくぐってから、一日が経った。
リリアは、未だにその変化に順応できずにいた。
目覚めるたびに聞こえる鳥のさえずりや、窓から差し込む柔らかな陽光。
心を締めつけるほどの静けさと平穏。それらは、つい昨日まで彼女が身を置いていた地獄とは、あまりにもかけ離れていた。
学院の名は――王立リスティア魔導学院。
王都でも有数の名門で、貴族の子弟だけでなく、地方の魔法才能者たちも集められる格式の高い教育機関だ。
リリアの入学は、周囲の予想を裏切るものだった。
なにせエルデン家の“落ちこぼれ令嬢”として、王都でも噂の的だった少女が、突如学院の一室に現れたのだから。
もっとも、当の本人であるリリアにとっては、そんな他人の視線など二の次だった。
何より、部屋が静かだった。
誰も怒鳴らない。
誰も彼女を傷つけない。
誰も、泣き叫ぶことを強いない。
「……はぁ……」
溜め息と共に、リリアは自分の寝台に腰を下ろした。
窓の外では、制服に身を包んだ生徒たちが、楽しげに笑い合っている。
声の波が、閉じた窓越しに響いてくる。
彼女には、その輪の中に入る勇気がなかった。
この学院には、知り合いなど誰もいない。
いや、いたところで――どうせまた裏切られるに違いない。
期待すればするほど、裏切られたときの痛みは深い。
だから、最初から心を閉ざしておくに限る。
けれど、そんなリリアの静かな日常は、思いも寄らぬかたちで破られることになる。
「おーい、リリア・エルデン? 入るわよ」
扉をノックする声もそこそこに、ずいと部屋へ入ってきたのは、鮮やかな金髪をポニーテールに結った少女だった。
整った顔立ちと涼しげな眼差し、そして何よりも自信に満ちたその佇まいは、貴族というより剣士のような印象を与える。
「……誰?」
リリアは咄嗟に体を引いた。反射的に身構える自分に気づき、内心で苦笑する。
「あ、悪い悪い。怖がらせるつもりはなかったの。自己紹介、まだだったわね」
少女は軽く頭をかきながら、にっと笑う。
「私、アメリア・ヴァンシュタイン。リスティア学院の二年生よ。今日からあんたのルームメイト兼案内役を仰せつかりました。よろしくね、リリア」
その口調は、貴族らしからぬ砕けたもので。
けれど、どこか不思議な安心感を与える響きがあった。
リリアは少しだけ目を瞬かせてから、ようやく頷く。
「……よろしく、お願いします」
「あ、敬語じゃなくていいから。年も近いし、同室なんだし。ね?」
アメリアは気さくに笑ってそう言いながら、自分の荷物をぽんと隅に置いた。
「この部屋、もともと一人部屋だったらしいけど、最近生徒数が増えてきたから二人部屋に戻したんだってさ。で、私が先にいたもんだから、今度からは新入りの面倒を見ろってさ」
「……そう、なんですね」
リリアは相槌を打ちながら、じっとアメリアの様子を観察していた。
見た目は明るくて強そう。
けれど、彼女の瞳の奥に、どこか似たような影を見た気がした。
「ま、そういうわけで。今日は学院の案内でもしてあげる。これから通うんだし、慣れておかないと困るでしょ?」
「……でも、私、人と話すの、あまり……」
「気にしない気にしない。喋らなくたって、歩くだけでもいいじゃない。無理強いはしないけど、外の空気、吸っておいた方がいいわよ」
そう言って、アメリアは手を差し伸べてきた。
それは、不意に差し込んだ陽だまりのようだった。
リリアは、躊躇いながらも、その手に指先を重ねる。
――怖くない、と言えるほど、もう自分は強くないけれど。
それでも、心のどこかで、ほんの少しだけ救われたいと願っていた。
◇ ◇ ◇
学院の中庭は、ちょうど春の光に包まれていた。
白い石畳が広がり、噴水の水音が涼しげに響いている。芝の上には本を読む生徒たちや、魔法の訓練をしている者たちがいた。
皆が、どこか眩しく見えた。
リリアは、隣を歩くアメリアの歩幅に合わせながら、言われるまま中庭をぐるりと一周していた。
何度も足元を見ては、視線を上げるのをためらってしまう。
「……ほら、あそこが図書塔。魔法書が収められてる塔のひとつ。最上階の閲覧室は午後になると日差しがちょうど良くておすすめ」
アメリアが指差したのは、灰色の塔だった。見た目は古びているが、その雰囲気がまた学院の歴史を感じさせた。
「魔法、使える?」
「……多少は、」
「そっか。授業、最初は大変かもだけど、まあ何とかなるよ。私も最初は呪文の詠唱すらまともにできなかったし。……って、あんまり慰めにならないか」
そう言って、アメリアは肩をすくめた。
リリアは小さく笑いそうになって――だが、喉元でそれを呑み込んだ。
笑ってはいけない気がした。
こういう時間に、慣れていない。
「……あの、アメリアさん」
「“さん”はやめなさい。“アメリア”でいいの」
「……アメリア。なんで、そんなに優しくしてくれるの?」
問いかけた瞬間、リリアの喉がひりついた。
自分で言葉にしながら、また突き放されるのではないかという恐怖が込み上げる。
アメリアは少し歩を止めて、振り返る。
「そうだね……うーん、直感?」
「直感?」
「うん。あんたが泣きそうな顔してたから。ああ、これは誰かがそばにいた方がいいって、そう思っただけ」
「……泣いてない」
「泣いてなくても、泣きそうだった。だから」
その言葉は、まっすぐで。
嘘も遠慮も、ない。
リリアは、咄嗟に言い返せなかった。
(この人は――本当に、ただの優しさで……?)
疑いと感謝が、胸の中でぐるぐると渦を巻く。
でも、今だけは信じてもいいのかもしれない。そう思ってしまう自分が怖い。
その日の午後、学院の授業が正式に始まった。
リリア・エルデンは、アメリアと同じ寮棟に暮らしながら、別の学年――一年生のクラスに所属することになった。
教師の紹介と共に教室に入ったリリアは、無数の視線にさらされた。
「エルデン家の娘だ」
「例の事件の後……?」
「なんであんな子が?」
小声の噂が、否応なく耳に届く。
リリアはうつむき、目を閉じる。
――耐えろ。いつものことだ。もう慣れている。
しかし、そう言い聞かせても、手のひらには汗が滲んでいた。
過去の声が、耳元で囁くように蘇る。
「無能の分際で、貴族面するな」
「きゃはは、また泣いてるよ」
「どうせ誰にも必要とされないくせに」
自分の存在が否定され続けた、あの暗い日々。
家族に売られ、牢に囚われ、身体を弄ばれたあの時間――。
喉の奥が焼けるように熱くなる。吐き気が込み上げる。
だが、そんなとき――
「リリア・エルデン。どうぞあちらの席へ」
担任の教師が、柔らかい声で彼女を呼んだ。
その一声が、かろうじて彼女の意識を現実へ引き戻した。
震える足で席に着いたリリアは、ただひたすら授業の内容をノートに書き写し続けた。
魔法理論も、歴史も、全部が上の空だったが、手だけは動かした。
手を止めたら、心まで止まってしまいそうで。
そんな彼女に、誰も話しかけてはこなかった。
放課後、教室を出ると、廊下の向こうにアメリアの姿が見えた。
リリアはふと足を止める。
呼びかけようとしたその瞬間――アメリアが、他の生徒たちと笑って話しているのが見えた。
「そっか……あの子も、あっちの人間なんだ……」
独り言のように呟いたその声は、自分でも驚くほど冷えていた。
そのままリリアは踵を返し、誰にも見られぬように寮へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
夜。
リリアはベッドの上で、天井を見上げていた。
窓の外では、月が青白い光を差し込んでいる。
寮の部屋は静かだった。隣のベッドでは、アメリアが規則正しい寝息を立てている。
昼間、彼女に話しかけようとして――やめた。
自分なんかが、その笑顔に触れていいとは思えなかった。
アメリアが優しいのは、きっと“役目”だからだ。案内役という名の、義務。
そう自分に言い聞かせる。
期待するな、慣れるな、信じるな――そう、何度も、何度も。
(けれど、やっぱり……)
リリアは、こみ上げる感情を噛み殺すように、唇を噛んだ。
ずっと耐えてきた。
助けも、希望も、ない世界で。
それでも、生き延びてきた。
でも――それが何の意味を持つのかは、分からなかった。
ふと、右手が動く。無意識のうちに、脇腹へ触れていた。
そこには、いまだうっすらと残る、あの時の傷痕。
あの地下室で、身動きもできずに泣いていた夜を思い出す。
リリアは、声も出さずに息を詰めた。
泣いてはいけない。ここは安全な場所かもしれない。でも、油断すれば、また――。
(あの時のように)
喉が詰まり、熱いものが頬を伝う。
知らないうちに、涙がこぼれていた。
月の光が、彼女の横顔を白く照らす。
「……私なんて、いなければよかったのに……」
呟いた言葉は、空気に溶けて消えていく。
誰にも届かない願い。
けれど、それでも口にせずにはいられなかった。
そのとき、隣のベッドが、かすかに軋んだ。
「……リリア?」
寝返りの音。アメリアの声。
リリアは反射的に背を向ける。
涙を拭い、声を押し殺して言う。
「……ごめん、起こしちゃって」
「ううん、ちょっと寒かっただけ。……大丈夫?」
その一言に、リリアは答えられなかった。
――やっぱり、この人は優しい。
優しすぎて、怖い。
自分が汚れてしまったことを、もしこの人が知ったら、同じようにしてくれるだろうか。
それとも――。
「……ごめんなさい」
それだけを言って、リリアは毛布を引き上げる。
もうこれ以上は、何も話せなかった。
やがて再び、部屋は静寂に包まれる。
夜は、長かった。
まるで、永遠に終わらない夢のように。
けれど朝は、それでもやってくる。
リリアの学院生活が、静かに幕を開けた――。