薄曇りの空が、石畳の上にぼんやりと影を落としていた。午後の授業が終わり、学院の広場を行き交う生徒たちは、軽い足取りでそれぞれの寮へと戻っていく。その中で、リリアの姿はどこか浮いて見えた。
深い藍色の制服に身を包み、腰まで伸びた銀髪を風に揺らしながら、リリアは一人、講堂の陰に佇んでいた。視線の先には誰もいない。ただ、ゆるやかな風と、遠くで響く笑い声だけが、彼女を現実につなぎとめていた。
――この場所は、わたしには似合わない。
そんな思いが、心の底で渦を巻いていた。
学院に来てから数日。周囲の生徒たちは徐々に仲を深めていくのに、リリアは誰とも言葉を交わさなかった。教室では常に一番後ろの席に座り、必要最低限の受け答えしかせず、授業が終われば真っ直ぐに自室へ戻った。
それでも、彼女の周囲にわずかに差し伸べられた手があった。
アメリア・ヴァンシュタイン。
同じ寮の先輩であり、学院でただ一人、リリアの心に触れようとしてくれる存在だった。
「……リリア。ここにいたんだね」
その声に振り向くと、アメリアが手を振って近づいてきた。陽に透ける金髪がきらりと光り、翠の瞳が心配げに細められる。
「また一人でいるのかと思って。講堂の裏って、なんだか寂しくて……」
リリアはほんの一瞬だけ目を伏せ、それからかすかに微笑んだ。
「……すみません。空気が静かだったから、つい」
「ふふ、リリアらしいね。でもあまり長く外にいると、冷えるよ」
「……はい」
短いやり取りの中でさえ、リリアの言葉はどこかぎこちない。けれどアメリアは、そんな様子を咎めることはなかった。ただ静かに彼女の隣に並び、肩が触れない距離を保ったまま座った。
二人の間に沈黙が落ちる。しかしそれは、重苦しいものではなく、ひとときの平穏のような空気だった。
「今日の魔導理論、難しかったね」
「……はい。講義の内容、ほとんど頭に入りませんでした」
「でも、ちゃんとノート取ってた。偉いと思うよ」
「それは……アメリアに怒られたくなかったから、です」
リリアがそう呟くと、アメリアはわずかに目を見開き、それからふっと笑った。
「怒らないよ。私はただ、リリアに諦めてほしくないだけ」
その言葉に、リリアの胸が一瞬だけ、きゅっと痛んだ。
諦めてほしくない――それは、自分に期待をかけてくれているということ。だが、リリアはそれを素直に受け取ることができなかった。アメリアが優しいのはわかる。けれど、その優しさの先にあるのは、いつか失われるものだと、心のどこかで思っていた。
もし、この人が本当の自分を知ったら――
そう考えた瞬間、リリアの顔から血の気が引いた。過去の記憶が脳裏に浮かぶ。あの暗い部屋、冷たい床、嘲笑と暴力、そして「女」として扱われることへの嫌悪と絶望。
「リリア?」
アメリアの声に、はっと我に返る。
「……ごめんなさい、少し、ぼんやりしてました」
「無理しなくていい。でも、なにかあったら……言ってね。話したくなければ、それでもいい。私は、リリアの隣にいるから」
その言葉に、リリアは目を見張った。今まで、誰もそんなふうに言ってくれたことはなかった。
リリアは、感情の渦の中で言葉を探した。
「……アメリアは、どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」
「……それは、リリアのことが、放っておけないから」
即答だった。その声音には嘘がなかった。
けれど、それは「好き」とは違う。まだ、言葉にできない感情。ただ、気になって、気にかけてしまう――それだけの、けれど確かな想い。
リリアはふと空を見上げた。雲の切れ間から、ほんのわずかに青が覗いていた。
「……ありがとうございます。アメリアがいてくれて、よかった」
それが、今のリリアにできる精一杯の想いだった。
この世界で初めて出会った「優しさ」が、彼女の心に小さな灯をともしていた。
◇ ◇ ◇
アメリアは、窓辺に腰かけ、カップの中でほのかに香る紅茶を見つめていた。雨の朝。石畳にしみこむ雨音が、静けさの中にじんわりと染み込んでいく。隣のベッドでは、リリアがまだ静かに眠っていた。
あの夜――震えるようにアメリアに寄り添ってきたリリアの温もりが、まだ指先に残っている。けれどそのぬくもりの奥には、冷たい鉄のような影が潜んでいた。触れることをためらわせるような、重たい何かが。
(リリア……あなたはいったい、どんな人生を歩んできたの?)
言葉にはならない思いが、心の奥にわだかまっていた。
その日、アメリアは学院の図書館で一冊の本を探していた。新入生特例として、リリアが受ける予定の魔導理論の補講資料だった。彼女が授業にうまくなじめていないことは明らかだったし、せめて勉強の助けになればと思ったのだ。
けれど、資料を手に入れて寮に戻ると、部屋の中は静まり返っていた。リリアの姿はない。
「……外に?」
部屋に残されたのは、畳まれたままの制服と、朝食に手をつけた痕跡すらない机。
(また、何も言わずに出ていったの?)
アメリアの胸に、小さな棘が刺さる。けれどそれは怒りではなく、焦りに似た感情だった。
彼女はすぐにマントを羽織り、学院の中庭や回廊を探し回った。
リリアを見つけたのは、学院の裏手にある小さな温室の前だった。古くからあるそれは、今ではほとんど使われておらず、窓は曇り、蔓草が壁を這っていた。
「……どうしてここに?」
アメリアの問いに、リリアは振り返らなかった。ただ、ガラスの向こうに咲く花を見つめたまま、小さく口を開いた。
「ここ、誰も来ないから……落ち着くの」
「でも、心配するよ。せめて、一言……」
「……ごめんなさい」
申し訳なさそうに顔を伏せたリリアは、どこか影をまとっていた。
「……アメリア。あの、変なこと言っていい?」
「変でもいいよ。言ってごらん」
「わたし……たぶん、ちゃんと人と接したことが、ほとんどないんだと思う」
ぽつりと落ちるその言葉に、アメリアは心が締めつけられるような感覚を覚えた。
「話すのも、笑うのも……どうしたらいいか、わからない。触れられるのも怖い。優しくされると……それだけで、苦しい」
「苦しい?」
「……期待しちゃうから」
リリアの瞳は、どこまでも深く、脆く、沈み込んでいく湖のようだった。誰にも救えないものを、ずっと隠し続けてきたような――そんな瞳。
(期待して、そして……裏切られてきたんだ)
アメリアは、その横顔をそっと見つめたまま、そばに座った。
「それでも、私はあなたの隣にいたいと思ってるよ」
リリアが驚いたようにこちらを向く。その視線に真正面から応えながら、アメリアは言葉を続けた。
「あなたが何も言わなくても、何も語れなくても。それでも、一緒にいたいって思うんだ」
リリアの唇が、わずかに震えた。
けれど、彼女は何も言わず、ただ視線を逸らした。
その沈黙が、アメリアにとってはなによりの答えだった。
リリアの表情はほとんど動かず、感情の奥に幕がかかっているようだった。それでも、その指先だけが、少し震えていた。
「……優しくしないでください」
か細い声だった。けれど、それははっきりとした拒絶ではなかった。
「優しくされたら……崩れてしまいそうで、怖いんです」
アメリアは一瞬、息を呑んだ。リリアの瞳に浮かぶかすかな涙の光が、雨に濡れたガラス越しの陽光に揺れていた。
「崩れていいんだよ、リリア」
「……でも、崩れたら、もう戻れなくなる気がする」
「戻らなくてもいいよ。新しく、始めたらいい」
リリアは俯き、肩をすくめるように震えた。
「……どうしてそんなことが言えるんですか?」
「あなたが、大切だから」
はっと、リリアがこちらを見た。その瞳には驚きと、微かな怯えが浮かんでいた。
アメリアは、それ以上何も言わなかった。ただ、彼女の隣に座り、雨音の中で静かに過ごした。
しばらくして、リリアがぽつりと呟いた。
「前の家で、誰かにそんなふうに言われたことなんてなかった」
その声は、壊れたガラスのように脆く、触れれば切れそうだった。
「名前で呼ばれたことも、撫でられたことも、誰かに『大切』なんて思われたことも」
アメリアはそっと、自分のマントを広げ、その中にリリアの肩を包んだ。
リリアは抵抗しなかった。けれど、触れられた部分だけ、かすかに強張っていた。
「アメリアは……優しすぎます」
「そう?」
「はい。だから……ずるい」
その言葉の意味を問い返すことはしなかった。ただ、アメリアはそのまま寄り添い続けた。
**
寮に戻った夜、アメリアはベッドに横たわるリリアをちらりと見た。微かな寝息を立てているが、表情は苦しげだった。時折、眉がひそめられ、震える唇が何かを呟く。
悪夢を見ているのかもしれない。
アメリアはそっと毛布を整え、声をかけるのをやめた。
(また……あの子は、眠れても心が休まってない)
そのことが、胸に小さな痛みとして残った。
◇ ◇
翌日。学院の廊下を歩くリリアの姿は、相変わらず孤独だった。廊下ですれ違う生徒たちが、彼女を振り返り、ひそひそと何かを言う。けれどリリアは無表情で歩き、周囲の声をすべて拒むように振る舞っていた。
授業では、指定された席に座るものの、誰とも目を合わせようとしない。筆記も最小限。問いかけにもあまり応じない。
教師たちの目も冷たくなっていった。
「補足説明は後日ありますが、、エルデン嬢、聞いていますか?」
「……はい」
ぎりぎり聞こえるかどうかの返事。教師はため息をつき、次の説明に移った。
アメリアはその様子を遠くから見ていた。違う学年の教室でありながら、気になって仕方がなかった。だから、自習のふりをして窓の向こうから覗いていたのだ。
(誰も……あの子に手を差し伸べない)
その姿が、自分の記憶の中にある過去の自分と重なる。
完璧な家柄と成績を求められ、心を殺して優等生を演じていた日々。
でも――。
(リリアは演じてなんかいない。ただ……もう、傷つくのが怖いだけなんだ)
そして、それを理解してあげられるのは、同じように傷を知っている自分しかいない――そう思った。
◇ ◇
夜。寮の部屋に戻ってきたリリアは、無言でベッドに潜り込んだ。夕食にも顔を出していない。アメリアが用意した軽食も、手をつけていなかった。
アメリアは、そっとその傍に座った。
「……ごはん、食べないの?」
「……いりません」
「少しでいいから、口にしよう?」
「……わたしのことなんて、放っておいてください」
その言葉は、突き放すようでいて、弱々しい音だった。
アメリアはしばらく黙ってから、ゆっくりと告げた。
「それはできないよ。だって、君は――私の、大切なルームメイトだから」
リリアの肩がわずかに揺れた。
それから、しばらくして、蚊の鳴くような声で彼女が言った。
「……大切って、言わないでください」
「どうして?」
「それに、慣れたら……あなたに頼りすぎてしまうから…」
アメリアの胸が、きゅっと締めつけられた。
(私は、この子を一人にはしない…)
どんなに怖がられても、どんなに拒絶されても――この手は、離さない。
◇ ◇
そしてその夜、アメリアが寝静まった後。
リリアは、カーテンの向こうで一人、月を見上げていた。手には、アメリアがこっそり机の上に置いていた小さな菓子――焼き菓子と、手書きのメモがあった。
「今日は、頑張ったね。お疲れさま」
たった一行のその言葉が、胸に突き刺さるようだった。
リリアはほんの少しだけ目を伏せ、指先でアメリアの袖をそっとつまむ。言葉にはできない、けれど離したくない気持ちが、そこに宿っていた。
誰かに、そばにいてほしいなんて――思わないはずだったのに。