心閉ざした伯爵令嬢は魔法学院で光を探す   作:ひもたろう

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今回少し長めです


触れられた傷、触れられた心

学院生活にも、わずかな慣れを感じ始めていた。

朝の食堂でパンとスープを口に運びながら、リリアは無意識に壁際の席を選んでいた。人の目が少ない場所。誰にも見られない、声をかけられない、そんな小さな安息地。

 

「……リリア、またそんな隅っこで食べてるの?」

声をかけてきたのは、アメリアだった。金色の巻き髪が朝の光を受けて揺れる。彼女は手にした皿を持ったまま、リリアの向かいの席に腰を下ろす。

 

「……別に、気にならないから」

リリアはスープに視線を落としたまま、囁くように返した。

 

アメリアは返事をせず、ただ穏やかに微笑んだ。その笑顔には押しつけがましさがなく、そっと寄り添うような優しさが滲んでいた。

 

「食べたら、今日は一緒に図書館行かない? 前に調べたいって言ってた魔導薬草の本、棚にあったわよ」

 

リリアは一瞬だけ顔を上げたが、すぐに目を伏せた。

優しさは時に、刃より鋭い。こんなふうに触れられるたびに、過去の痛みが疼く。

 

自分は“穢れた”存在だという意識が、心に深く根を張っていた。過去の傷が癒えることはない。たとえ優しくされても、それを信じていいのかすら分からない。

 

「……うん、あとで行く」

 

ようやくそう返すと、アメリアはふっと微笑んで頷いた。

 

それだけで、リリアの心には、奇妙な重さが残った。

 

◇ ◇

 

その日の午後は、実技棟の裏手にある温室で薬草学の特別補習が行われていた。リリアは新入生特例として、上級生の補習に混じって参加していたが、他の生徒とは距離を置かれていた。

 

リリアがその場にいるだけで、周囲の空気が微かに緊張するのを感じる。

 

「ねえ、あれ……例の噂の子でしょ?」

「誰も話しかけないって、決まってるらしいよ」

 

そんなひそひそ声が、温室の隅々から漂ってくる。

聞こえないふりをしても、耳は勝手に拾ってしまう。

 

アメリアは教師の補佐としてその場にいた。リリアとは距離を保ちつつも、目線の端で常に様子を窺っていた。

 

(やっぱり、つらそう……)

 

アメリアには、リリアが抱えているものの重さが少しずつ分かり始めていた。どこか自分を罰するような立ち居振る舞い、他人との接触を拒む沈黙の癖、夜中にうなされていたあの姿。

 

けれど、それでも彼女は言葉をかけることができない。

リリアの心の扉は、ほんの少しだけ開いたまま、また固く閉ざされてしまうような――そんな脆さがあった。

 

◇ ◇

 

ユリウス・ヴォルクライン。

 

リリアがその名を知ったのは、学院に来て間もない頃だった。貴族の家柄に詳しくないリリアですら耳にしたことのある、北方の名門・ヴォルクライン公爵家の次男。学内でもその名は有名で、品行方正という評判とは程遠い。

 

「またユリウス様が女泣かせたらしいわよ。今度は上級生に手を出したって……」

 

「でも誰も文句言えないのよ。だってヴォルクライン家だもの」

 

廊下の陰や寮の食堂で、ささやかれる声はいつもどこか怯えていた。高慢で、傲慢で、気に入らなければ平民でも貴族でも関係なく侮蔑する――そんな人物だと、誰もが暗黙の了解として認識していた。

 

だが、教員も他の生徒も、彼に指をさして批判することはなかった。ヴォルクライン家の威光のもと、その蛮行は“見なかったこと”にされる。

 

リリアもまた、その空気に巻き込まれるまでは――他人事だと思っていた。

 

◇ ◇

 

授業が終わる頃、アメリアは教師に頼まれて備品の整理に残った。リリアも遅れて帰ることになり、温室の出口が混み合う中、一人きりで裏手の小道を通って寮舎に戻ろうとした。

 

そのときだった。

 

「……リリア、だよね?」

 

突然の声にリリアが顔を上げると、そこにいたのは整った顔立ちの青年――ユリウス・フォン・ヴォルクラインだった。淡い金髪に翡翠色の瞳。整った微笑を浮かべ、完璧な貴族の所作で彼女に一礼する。

 

「あなたは……」

 

「同じ学院の者だよ。君を見かけるたびに声をかけたいと思っていたが、どうにも君はいつも近寄りがたくてね。今日はようやく、少し勇気を出してみたというわけだ」

 

微笑みながら、ユリウスはリリアの横に立つ。彼の動きはどこまでも紳士的だった。距離感も、声色も、貴族社会において“完璧な口説き文句”を放つ者のもの。

 

「君はまるで氷の薔薇のようだ。触れることさえ許されない気高さ。だが、その中に隠された優しさに……誰もが惹かれてしまうだろう」

 

「……そう」

 

リリアは、そっけない返事で視線を目を逸らした

 

ユリウスの口角がわずかにひきつったが、それを悟らせまいとさらに言葉を続ける。

 

「実は、君に渡したいものがあるんだ。些細なものだけど、受け取ってもらえるだろうか」

 

そう言って懐から取り出したのは、小さな銀細工のブローチだった。白百合を模した意匠が施されている。

 

「君のような人にこそ、ふさわしいと思ってね」

 

「……そういうものは、受け取れません」

 

リリアは淡々と、しかしはっきりと断った。

 

「お気持ちは嬉しいけれど、私はそういうつもりはありません」

 

ユリウスの瞳が一瞬、光を失った。

 

「……僕のことが、嫌いかい?」

 

「あなたのことをよく知りません。ただ、それだけです」

 

「なら、知ってほしい。僕は君に、本気だ」

 

「本気かどうかは関係ありません。私は、誰かに心を開けるような人間じゃない」

 

リリアの言葉は静かだった。しかし、その静けさの中には、強い拒絶の意思があった。

 

ユリウスの顔から、ようやく仮面のような笑みが崩れた。

 

「……そうか。片目の女は気高いわけだ」

 

リリアの瞳がぴくりと揺れた。

 

「可哀想に。誰かに優しくされることに慣れていないと、こんな風にしか反応できないんだな」

 

その声には、先ほどまでの紳士的な調子はなく、皮肉と嘲りがにじんでいた。

 

そして、空気が変わった。

ユリウスの瞳が、じわじわと獣のような色に染まっていく。

 

「――でも、そんな風に突っぱねてばかりいても、君は誰にも選ばれないよ」

 

言葉と共に、彼の手がじわりとリリアの肩へと伸びる。

 

リリアは逃げようとしたが、すでに彼は彼女の行く手を塞いでいた。

 

「待って。まだ話は――」

 

「やめてください」

 

その瞬間、リリアの声にはっきりとした怒気が混じった。

 

「これ以上近づかないで。今すぐ離れてください」

 

だがユリウスは、嗤うような表情で言った。

 

「拒まれるほど、燃えるってものだよ。そういうことも知らないのか?」

 

 

彼の手が制服の胸元にかかった瞬間、リリアは反射的に暴れた。

だが体格差は歴然で、すぐに押さえつけられ、ボタンが弾けた。

 

空気が冷たくなった。

 

(まただ――)

 

頭の奥で、鈍い痛みと共に、過去の記憶が蘇る。

焼けた鉄の匂い。剥がされる衣服。力を込めた手。

暗闇の中、何度も繰り返された悪夢。

 

「いや……いやっ……やめてっ!」

 

声が震え、涙が滲んだ。

 

そうしてユリウスの手が無理やりリリアの制服の襟元を引き裂いた瞬間、露わになったのは、少女の白い肌ではなく、幾筋もの生々しい傷跡だった。

 

鎖骨の下、肋骨のあたり、背中にかけて、火傷のような痕や刃物で裂かれた線――治りきらずに残った皮膚の歪みが、まるで罪の証のようにそこに刻まれていた。

 

「……は?」

 

ユリウスが手を止めた。

 

「……なんだよ、これ。お前、まさか……こんなに汚れてんのか?」

 

軽蔑と嘲りを隠さない声で、リリアの身体を見下ろす。

 

「せっかく顔はいいのにな。中身は随分と……遊び人だったんだな? それとも趣味の悪い相手にでも可愛がられてたのか?」

 

リリアの唇が震える。視線を逸らし、声も出ない。

 

「はっ……片目だけじゃなく、身体まで傷モノじゃねぇか。いや、これは当たり所が悪かったな、まさかこんなに“使い古し”とは思わなかったぜ」

 

彼の口元には、薄ら笑いさえ浮かんでいた。

 

しかしその時、何かが風を裂いた。

 

「リリアッ!!」

 

鋭い叫びと共に、何かが飛び込んできた。

 

ユリウスの体が、勢いよくリリアから引き剥がされる。

その間に立ちふさがったのは、アメリア・ヴァンシュタインだった。

 

 

「……あんた、何してるの?」

 

アメリアの声は低く、鋭かった。普段の優しげな響きは影もなく、その目に宿った怒りは、冷たい炎のようにユリウスを射抜いた。

 

「な、なんだよ……関係ないだろ、お前には……!」

 

ユリウスは歯をむき出しにして睨み返したが、その声にはわずかな動揺が混じっていた。

アメリアの身に纏う魔力の気配――それは、訓練された魔術師だけが放てる威圧だった。

 

「関係ない? リリアは、私の大事な同室の子よ。学院に何しに来たかも分からないような下等な男に、指一本触れさせると思う?」

 

その言葉に、ユリウスは顔を引きつらせた。

そして、何かを吐き捨てるように言った。

 

「……ったく、ムカつくんだよ。こんな奴の味方してさ。どうせ家からも捨て――」

 

バチンッ。

 

乾いた音が響いた。

アメリアの平手が、ユリウスの頬を正確に打ち抜いた音だった。

 

「黙りなさい。あなたの口から、それ以上醜い言葉が出る前に、学院に報告させてもらうわ」

 

その冷たい声に、ユリウスは小さく呻いて後ずさった。

周囲にはいつの間にか、生徒や教師が何人か集まり始めていた。

騒ぎの中心にあるリリアの姿を見て、誰もが何かを察した表情になる。

 

「……ふざけんな……なんで、この俺が……!」

 

ユリウスは悪態を吐き捨ててその場から逃げ出した。

だが、その足取りには、もはや勝者の余裕などなかった。

 

◇ ◇

 

学院内は、事件から一夜明けてもなお、ざわついていた。

 

貴族の家に生まれた者が、己の力を傘に着て好き勝手をする例は、学院といえど決して少なくはなかった。だが、今回は違った。

 

リリア・エルデン――名門エルデン伯爵家の娘が、傷つけられたのだ。しかも犯行は、王国でも五指に入る名門、ヴォルクライン家の嫡男によるものでありながら、学院内で、暴力を伴う強引な手段が用いられたこと、そしてそれを現役の生徒――アメリア・ヴァンシュタインが目撃したことが、決定的だった。

 

学院は事態を重く見た。表沙汰になれば、王立リスティア魔導学院の名に泥を塗ることになる。学院は即日、ユリウス・フォン・ヴォルクラインに対し、退学処分を通達した。

 

表向きは「不適切な振る舞いにより学業継続が困難となったため」とぼかされていたが、事情を知る教員や貴族子弟たちは、真相をすぐに察した。

 

そして何より、ユリウスの父であるヴォルクライン侯爵自身が、抗議どころか処分に対して一切の異議を唱えず、逆に「不始末を起こした息子への当然の報いである」とだけ言い残して、学院への寄付と謝罪文を送ったことで、彼の“切り捨て”が確定した。

 

学院内の空気は、急速に落ち着きを取り戻した。

 

だが――リリアの中で、刻まれた傷が癒えることはなかった。

 

◇ ◇

 

 

アメリアの温もりが、まだ腕の中に残っていた。

リリアは静かにベッドの上で身を丸め、乾きかけた涙の跡を指先でなぞる。

 

(怖かった……でも……)

 

ユリウスに身体を押さえつけられた時、過去のすべてが蘇った。息が詰まるほどの恐怖。動けない絶望。叫んでも届かない虚しさ。

でも、アメリアは――彼女は、助けてくれた。

 

違う。

助けてくれた、だけじゃない。

 

(私を……“見てくれた”)

 

醜い過去も、傷だらけの身体も、片目の無い顔も。

普通なら、嫌悪の視線を向けて当然のはずの、こんな私を。

アメリアはただ「大丈夫」と言って、震える私を抱きしめた。

 

誰もが避けたこの身体を、当たり前のように抱いてくれた。

 

それが、どれだけ嬉しかったか――

 

(アメリア……)

 

夜が更け、部屋にアメリアが戻ってくると、リリアはベッドの端から静かに声をかけた。

 

「アメリア……少しだけ、いい?」

 

「うん、もちろん」

 

椅子に座ろうとしたアメリアの手を、リリアは掴んだ。そのまま、ぐいっと自分のベッドに引き寄せる。

 

「え、ちょっ……リリア?」

 

「お願い……今夜だけでいいから、そばにいて……横に、来て……」

 

アメリアは戸惑いながらも、リリアの目に浮かぶ涙と熱に気圧され、静かに頷いた。ベッドに腰を下ろすと、リリアはその胸に顔を埋めた。

 

「……ありがとう、アメリア。怖かった……でも、あなたが来てくれて、本当に……本当に嬉しかった……」

 

震える声と共に、寝間着の布地を濡らしていく。アメリアはそっとリリアの髪を撫でた。

 

「もう、大丈夫。私はここにいるよ。リリアは、何も悪くないから……」

 

「違うの……」

 

リリアの手が、アメリアの背に回る。指先が、ぞくっとするほどに、ゆっくりと撫で上げられた。

 

「悪いの。私は、穢れてるの。汚れて、醜くて、でも――」

 

アメリアの耳元に、囁くような吐息。

 

「……それでも、“私”として見てくれたの、あなただけだった……」

 

リリアは顔を上げ、そのままアメリアの頬に唇を近づけた。

 

「私、アメリアにだったら……汚いところも、全部見せてもいいって……そう思ったの」

 

唇が、頬を、顎をなぞるように滑る。

その熱は、震えるほどに切実で、どこか歪んでいて――そして、真剣だった。

 

「お願い……触れて。私が“ここ”にいるって、証明して……」

 

アメリアの身体が一瞬、強張る。

でも、リリアは止まらない。まるで祈るように、願うように、その胸に顔を擦り寄せる。

 

「他の人に見られるのは、もう嫌。でも、アメリアだけはいいの。アメリアだけは……私のすべてを、見てくれたから……」

 

「リリア……それは――」

 

「ねえ、嫌?」

 

その声は、泣きそうなほどに切なくて、しかし欲望を隠そうともしない。

 

「お願い、私を見て……認めて……ねえ、アメリアだけが、私の世界なの」

 

アメリアは、何も言えなかった。

ただリリアの小さな肩を抱きしめ、その壊れそうな熱を受け止めていた。

 

リリアは、目を閉じて微笑んだ。

 

(アメリアだけが、私のすべて。……この人さえいれば、他には何もいらない)

 

それは愛というより、執着だった。

けれど、今のリリアにとって、それが生きる理由だった。

 

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