アヤメとナグサは比翼連理   作:あばなたらたやた

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三話

 雪原は白く、果てしなく広がっていた。空は灰色の幕を垂らし、風は刃のように肌を裂いた。御稜ナグサはそのただ中に立ち、膝を折り、凍てつく地面に両手をついていた。彼女の息は白く、震え、まるで魂が吐き出されるかのように乱れていた。

 

「なんで!」

 

 ナグサの声は、雪原を切り裂く絶叫だった。拳が地面を叩き、雪と氷が砕け散った。

 

「なんで、こんな目に! なんで、いつも、いつも、いつも!」

 

 言葉は途切れ、嗚咽に変わった。彼女の手はすでに赤黒く染まり、しもやけで腫れ上がっていた。血が雪に滴り、まるで小さな花のように広がった。

 彼女は自分を罵った。

 

「バカ! 弱い! 何もできないくせに!」

 

 声は荒々しく、しかしどこか脆く、まるで壊れそうなガラスを叩く音のようだった。拳は止まらず、地面を殴り続けた。痛みは遠く、ただ胸の内側で燃える憎悪だけが彼女を突き動かした。

 

「貴方なんか、生きてる価値ない!  消えてしまえ!」

 

 雪原は静かだった。ナグサの叫びだけがこだまし、やがて風に掻き消された。彼女はとうとう力尽き、地面に額をつけた。髪は雪にまみれ、涙は凍りつき、頬に白い跡を残した。

 

「なんで」

 

 今度は囁きだった。

 

「なんで、こんな……」

 

 遠く、雪原の端に黒い影が揺れた。ナグサは気づかなかった。彼女の目は閉じられ、ただ自分の内側に沈んでいった。血塗れの手は、なおも震えていた。

 

 雪原は果てしなく白く、どこまでも広がっていた。灰色の空は重く垂れ込め、風は鋭い刃となってナグサの頬を切りつけた。彼女は膝を折り、凍りついた地面に両手をつき、血と涙で汚れた顔を上げた。

 

「アヤメ……アヤメ……! どうして! どうして!! あああっ! ああ!!」

 

 その叫びは、雪原を震わせ、しかしすぐに冷たい風に掻き消された。ナグサの声は、まるで彼女自身の存在を否定するかのように、虚しく響いた。

 涙は止まらなかった。頬を伝い、顎から滴り、雪に落ちては瞬時に凍りついた。彼女の手はしもやけで赤黒く腫れ上がり、地面を叩き続けた痛みで血が滲んでいた。拳は雪と氷を砕き、赤い染みが広がるたびに、ナグサの心もまた砕け散るようだった。

 

 ナグサはゆっくりと立ち上がった。膝はまだ震え、足元は雪に沈みそうだった。彼女の手には、百蓮と呼ばれた銃が握られていた。

 アヤメが遺した忘れ形見。百花繚乱紛争調停委員会の委員長の証。その冷たい金属の感触が、ナグサの掌に重くのしかかった。銃はただの道具ではない。アヤメの意志そのものだった。彼女の笑顔、彼女の強さ、彼女のすべてが、この百蓮に宿っているかのようだった。

 

(私が、委員長? アヤメがいなくなったら私が。無理だ……嫌だ。どうしよう。私はアヤメがいないと何もできない女なのに)

 

 ナグサの頭の中で、百花繚乱の仲間たちの顔が次々と浮かんだ。彼女たちの鋭い視線。失望に満ちた目。冷たく突き刺さる言葉。

 

「ナグサ、貴方じゃダメ」「アヤメの代わりになんてなれない」「貴方には荷が重すぎる」

 

 想像するだけで、ナグサの胸は締め付けられ、息が詰まった。彼女は自分がその場に立たされる姿を思い描いた。仲間たちの前に立ち、百蓮を手に持つ自分を。だが、その姿はあまりにも頼りなく、まるで風に揺れる枯れ草のようだった。

 

「怖い……怖い……怖いよ」

 

 ナグサの声は小さく、震え、雪原の風にかき消された。百蓮を握る手は力なく、銃口が雪に沈みそうだった。彼女は目を閉じ、アヤメの笑顔を思い出した。優しく、強く、すべてを包み込むような笑顔。あの笑顔がもう見られない。ナグサの心は、凍てつく雪原よりも冷たく、暗く、沈んでいった。

 

 彼女は百蓮を胸に抱きしめた。銃の冷たさが、彼女の体温を奪うようだった。だが、その冷たさの中に、アヤメの声が聞こえる気がした。

 

「ナグサ、立って。私の分まで、生きて」と。

 

 彼女はもう一度、雪原を見渡した。白い荒野はどこまでも無情で、ただ静寂だけが支配していた。遠く、雪原の端に黒い影が揺れた。ナグサは気づかなかった。彼女の目は、百蓮に注がれていた。アヤメの遺志を、彼女の重みを、感じながら、ナグサは一歩を踏み出した。雪が靴の下で軋み、彼女の心もまた軋んだ。進むべき道は見えず、ただ恐怖と喪失が彼女を飲み込もうとしていた。

 

「アヤメ……教えてよ」

 

 ナグサは呟いた。

 

「どうやって、こんな重さを背負えばいい? どうやって、みんなを失望させずにいられる?」

 

 答えはなかった。雪原は黙し、風だけが彼女の髪を乱した。ナグサは百蓮を握り直し、震える唇を引き結んだ。彼女の目は、涙で濡れていたが、どこか遠くを見据えていた。そこには、アヤメがいたかもしれない。あるいは、ナグサ自身がまだ知らない、別の自分が。

 

 ■

 

 黄昏の向こう側。

 そこからアヤメはナグサを見つめていた。凍てつく風が彼女の髪を揺らし、灰色の空の下で、ナグサの血と涙にまみれた姿が小さく、しかし痛々しく映った。百蓮を握りしめ、叫び、震えるナグサ。アヤメの心は、かつての自分と重なるその姿に、ざわめいた。

 すべてをナグサに押し付けた。あの重い役割、百花繚乱紛争調停委員会の委員長という呪われた証を。百蓮を渡し、アヤメは自由になれるはずだった。

 

 灼熱の砂漠を走り続けた日々、笑顔で品行方正を装い、己を殺して人を助け続けたあの苦しみから、ようやく解放されるはずだった。ナグサがその重さを引き受けてくれるなら、アヤメの心は軽くなるはずだった。なのに、なぜか。胸の奥に、どす黒い、嫌な重さが沈殿していた。

 

(楽になるはずだった。なのに、なんでこんな気持ちが…)

 

 アヤメの目は、ナグサの震える手に注がれていた。百蓮が、かつて彼女自身の掌を冷たく焼いた感触が、蘇る。あの銃はただの道具ではない。アヤメの理想も、責任も、偽りの笑顔も、すべて詰め込まれた呪いだった。

 

 人々の「流石はアヤメ委員長」という賞賛、ニタニタと面倒事を押し付けてくる顔、「お前ならできる」と無責任に期待する声。それらすべてが、百蓮の重さに凝縮されていた。そして今、ナグサがその重さを握っている。

 

(ナグサ、ごめん…でも、アンタなら…)

 

 アヤメはそう思おうとした。ナグサなら、きっと耐えられる。彼女は強い。弱い自分を演じられるくらいに強かだ。

 

 自分とは違う。だが、その思いはすぐに揺らいだ。ナグサの叫び声、「怖い…怖いよ」と震える声が、アヤメの心を刺した。かつての自分が、夜ごと枕を涙で濡らしながら呟いた言葉と、あまりにも似ていた。「助ける。助ける。助ける」と呪文のように繰り返し、仮面の下で疲弊し、眠れぬ夜を過ごしたあの自分と。

 

(私は逃げたの? ナグサに押し付けて、楽になりたかっただけなの?)

 

 アヤメの胸に、罪悪感とも後悔ともつかない重さが広がった。ナグサにすべてを託すことで、彼女は自分の苦しみを手放せるはずだった。だが、ナグサの涙を見ていると、まるで自分の痛みを鏡で見ているようだった。

 

 彼女は目を閉じた。あの渇き果てた砂漠のような日々がフラッシュバックする。笑顔で手を差し伸べ、内心で「猿め」と吐き捨てたあの瞬間。トリガーがロックされた百蓮を握り、自分の無力さを突きつけられたあの瞬間。そして、誰も知らない、彼女の苦しみの味。

 

(ナグサに押し付けたのは、自由じゃなかった。私の地獄だ)

 

 アヤメの心は、雪原の冷たさよりも重く沈んだ。

 みんなを救いたい、守りたいという思いがあったはずなのに、彼女は結局、自分の重荷を押し付けただけだったのではないか

 

 楽になるはずだったのに、なぜかこの嫌な重さは消えない。ナグサの慟哭が、アヤメの罪を突きつけるようだった。

 

 雪原の彼方で、アヤメの影は揺れていた。ナグサはまだ気づかない。百蓮を握り、凍てつく地面に膝をつき、泣き叫ぶナグサを、アヤメはただ見つめていた。

 

 彼女の目は、涙ではない何かで濡れていた。解放されたはずの心に、なおもまとわりつく、どす黒い重さ。それは、ナグサを想う愛と、自分を許せない罪が、絡み合ったものだった。

 

「今までの苦しみを、みんなにも味合わせたい?」

 

 もう一人のアヤメが問うた。声は冷たく、まるでナグサの持つ百蓮の感触のようだった。

 

 アヤメは目を伏せた。

 灼熱の砂漠のような毎日を走り続けた日々。笑顔で品行方正を装い、己を殺して人を助け続けたあの時間。ニタニタと面倒事を押し付けてくる者たちの顔。

 「猿め」と心の中で吐き捨てたあの瞬間。

 

 苦しみは、彼女の骨まで染みついていた。だが、それを他人に押し付けることは、彼女の望みではなかった。「いいえ」と、彼女は静かに答えた。

 

「じゃあ、みんなを幸せにしたい?」

 

 もう一人のアヤメの声は、わずかに嘲るように響いた。幸せ。あの言葉は、アヤメにとって遠い幻だった。百花繚乱の仲間たち、ナグサ、すべての人々を幸せにするために、彼女は仮面をかぶり続けた。

 だが、その仮面の下で、彼女自身は幸せだったのか?

 

  眠れぬ夜、トリガーがロックされた百蓮を握り、自分の無力さに打ちひしがれたあの瞬間、幸せなどどこにもなかった。

 

 「いいえ」と、アヤメは首を振った。幸せを与えることなど、彼女にはできなかった。彼女が知っているのは、責任と痛みだけだった。

 もう一人のアヤメは、雪原の風に髪を揺らしながら、微笑んだ。

 

「みんなを苦しませつつ、守りたい?」

 

 アヤメの胸が締め付けられた。この問いだけが、彼女の心の奥底に突き刺さった。ナグサの涙、百蓮を握る震える手、仲間たちの期待と失望。それらすべてを背負わせ、彼女は逃げたかった。

 

 だが、同時に、彼女は彼らを守りたかった。百花繚乱の仲間たちを、怪異の脅威から、己の弱さから、守りたかった。たとえそれが、彼らに苦しみを押し付けることになっても。

 

 「はい」と、アヤメは呟いた。声は小さく、雪に吸い込まれた。

 もう一人のアヤメは、目を細めた。

 

「なら、みんなの願いに則って、見守る存在になる。いいね?」

 

 アヤメは息をのんだ。見守る存在。それは、彼女がナグサに百蓮を押し付けた瞬間から、すでに選んでいた道だったのかもしれない。

 彼女はもう、乾いた砂漠を走ることはない。だが、雪原の果てから、ナグサや仲間たちを見守り続ける。

 それが、彼女の罪と愛の形だった。苦しみを押し付け、守るという矛盾を抱えたまま、彼女はそこに立つ。

 

 

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