「嘘だっ!!」
屋上にこだまする胡桃の悲痛な叫び。やがてそれは虚空へと吸い込まれていった。
「ところがどっこい夢じゃありません……! これがその証拠です」
羽香里が手にしていたのは作者の語彙力では表現できないほど扇情的なタイトルの小説だった。
「これが静先輩の机の上にあったなんて……!」
「人の物勝手に持ってきちゃダメゔー!!」
「そのままにはしておけなくて渡そうとしたんですが、今夢留さんと一緒に執筆中みたいなんですよ。屋上に来るまで待たないとビックリしちゃうでしょう。清楚なお嬢様キャラの私が図書室にえっちな本を持っていったら……」
「えっ……」
「え?」
知与が心底信じられなそうな様子で見つめたのに対し、羽香里はあっけらかんと不思議そうにしていた。
「……置いたままにするには結構目立つ表紙だしね……。……愛々も机に近付いたら消えちゃったし……」
「恋太郎が探してるけどすぐには見つからなさそうよ。……それにしても」
「3.14159265358979323846——」
「バグりすぎでしょ……」
凪乃は解釈違いのあまり円周率を延々と紡いでおり、数がキラキラの目で見続けていた。
「気持ちが分からないわけじゃないですが、静さんだって高校生なんですから、官能的なものだって読みますよ」
「なんてことを言うんだ妹! そんなわけないだろ……ッ」
「静さんをなんだと思ってるんですか……」
『冬夜の雫』の同好の士として胡桃が思っているほどピュアというわけではないことを妹は知っていたが、あまりの剣幕に空気を読んでいた。
「ただまあ、ここまで直接的なタイトルだと意外ではありますね。検索かけてみましたが、R15指定が入っているみたいですし」
その妹からしても物語の中で副次的に耽美な雰囲気が含まれるものならともかく、女体を直接イメージさせる作品を静が手に取りそうには思えなかった。
「ダメよ……年齢制限を守らないなんて……っ。絶対に……っ。ダメなんだから……っ」
「いや静さんああ見えて高一ですから十五歳ですよ!?」
「…………なんだ。そうでしたね」
「生徒指導の先生が何を残念がってるんですか!?」
「むしろ皆しっかりしすぎだよな〜。あたひの若い頃なんかはお酒を子供にお試しで飲ませたりしたし、そこら辺はゆる〜くでいいじゃん!」
「倫理の先生が何を勧めてるんですか!」
妹は積極的に年齢制限を破らせようとしてくる教師二人に戦慄しつつ、別の意味で身体が震えている友人二人を宥めにいった。
「ゔー……ッ! 教室でそんなもの読んじゃダメゔー……!」
「まあまあ。もしかしたらタイトルに反して内容はそこまでえっちなものじゃないかもしれないですし……」
「匿名が蔓延るこの時代、どんな風に名乗られたとしても額縁通りに受け取るべきではない——とも言えるね」
「自虐ネタにゃん……?」
「二人は今良いことを言ったっ……! 静先輩がそんなものを読むわけがないんだ! そんな……ふしだらなっ……!」
「蘭那さんみたいなことを……」
「確認してくれ妹っ!」
「ああ。胡桃さんは十四歳ですからね。それは構いませんが……」
(どうあれ静さんがこのタイトルの本を手に取った事実は変わらないような……)
中学生からは見えないように妹が読み進めていくと、静がどんな本を読んでいるのかと高校生を中心にわらわらと集まって後ろから覗いていた。
「やりますね静さん。このむふふな表現で恋太郎君を落とすつもりですね」
「あ、あんたじゃないんだから、こんなこと言わないでしょっ」
「あーしマジバチクソ照れてんよぉー」
「こ、これはさすがの妹も恥ずかしいですね」
彼女達の反応でタイトルに恥じない内容であることが判明し、胡桃は膝から崩れ落ちた。
「……終わった……何もかも……」
「真っ白に燃え尽きるほどショックでしたの!?」
「いいなぁ。キツそうで」
「胡桃サンだって生きてるんだど……!」
打ちひしがれる胡桃とは対照的に見る見るうちに血色が良くなり、
「んもう。静ちゃんったらいけない子ね。ママがお仕置きしなきゃ。んーちゅっちゅ」
「羽々里様。およだれ様が」
「お母様……ッ」
羽々里がアニメ化に伴って供給された静ちゃんグッズに猛烈なキスを浴びせる。えっちな小説を読むよりよっぽどな痴態を晒す母親に羽香里が苦虫を噛み潰したような表情をしていると、百八が吹っ切れたような表情で肩に手を置いた。
「まあまあ。それよりあたし達の"仲間"が増えたんだからさ」
「……! そうですよね。仲間がいるよってやつですよね……!」
「親が親なら子も子……ツインテールのように一対の関係なのね」
「まったくよ。恥ずかしいったらありゃしないわ」
「そんなこと言って唐音さんもチラチラと興味深そうにしてたじゃないですか」
「はあっ!? べ、別に興味なんてないんだからねっ!」
「本当ですか〜? 院田・えろえろ・むっつりスケベ・唐音さん♪」
「ちょ、ちょっと! 見せびらかしてくんじゃないわよっ!」
(仲間……? 見せびらかす……?)
「はっ……!」
——その時凪乃に電流走る……!
「もしかしたら読書仲間が好本静に読ませようと置いた可能性が考えられる……! となると……端須蓮葉! この本から好本静の匂いがしないのでは?」
「うーん……。しますね」
「かはっ」
「すわ〜♡」
「血反吐を吐くレベルでショックだったんでい!?」
彼女は吐き出したエラーのせいで気付くことができなかった。当然するべきだったもう一つの確認を。
「まあ机の上に置いてあったみたいですから、そのせいかもしれませんね。しかし! 名探偵として内容を読んで絶対に推理してみせます! ……んん? 文字が多くて……ぐぅ」
「……しまった! なぜ私は置いた可能性のある人物を聞かずに、好本静の確認を……!?」
「なーに。今からでも遅くないだろ。先輩のアタイに任せ……ん?」
「ぐーっ!」
「ぎゃああああ」
「先ちゃん!?」
「オー。寧夢ガールはスリープガーディアンデース」
夢の世界に旅立ち、幸せそうな寝顔を晒す蓮葉を起こす真似を許すような寧夢ではなかった。盛大に転がる姿に既視感を覚えたエイラが受け止めると、千優が皆から見えないように背を向けて涙ぐむ先を治療した。
「まあ本人のものじゃないとしたら、静にこんな本を渡すなんて奇人としか思えないし、ファミリーの誰かなんじゃないの?」
「だとしたらお灸を据えねばな。公の場でこのような辱めなど、私なら耐えられぬ」
「すげー説得力なのだ」
「どういう意味だそれは。しかし静に破廉恥な本を共有しそうな人物というと……」
「ゔー」
「さっきから知与さんのマークが厳しめなんですが」
「普段の行いのせいでしょ」
「……でも羽香里は……アタシ達と一緒にいたよね……?」
「まあ。自演ではないことは確かね」
「あ、あーしじゃないよぉー? こんな字の多い本読めないってぇー」
「多分誰もあー子とは思ってないぞ。それより静の読書仲間といえば季鞠じゃないのか?」
「あー……」
季鞠が槍玉に挙げられると、大勢の妙に納得した表情が向けられた。
「ち、違いますよ! そんな……っ。教師が生徒にこんな本を勧めるなんて……ダメなんだから……っ」
「動機はないとも言えるし、あるとも言えるね」
季鞠が弁解しながらも色気のある照れ顔を晒し、あまつさえ皆にダメなことをしたと疑いをかけられる快感で
「それは違うよ!」
「うさちゃんさん……!」
しかしうさが真剣な表情で庇うように割って入ると、季鞠のバーサーカー化が止まった。
「季鞠先生はこういう本に興奮するんじゃなくて、禁断の関係が破られていくようなものに興奮するんだよ!」
「うさちゃんさん……!?」
「そっか……悪いな季鞠。ルールを破るのが快感なだけなのに……」
「あっ。もう……ダメっ」
「でゅふふ。季鞠ちゃんこっちにいらっしゃい……」
友人に事実を陳列され、ファミリーに性的趣向を把握され、身体中に電気が走った季鞠が腰を抜かして羽々里の手に落ちた。
「まあそれはそれとして——」
「放っておいていいのかい?」
「もう手遅れなのだ。季鞠じゃないなら、他の読書仲間といえば夢留だけど……」
「違うでしょ。メルヘンと正反対だし」
「だよなー」
続いて夢留が槍玉に挙げられたが、満場一致で無罪だった。
「季鞠の時と違って皆あっさり納得したのう……」
「普段の行いのせいでしょ」
「唐音さっきからツッコミ楽してるのだ」
「筆頭候補が何言ってるのよ」
「疑問なのじゃが、もしこの中にいるなら皆良い子じゃから名乗り出るんじゃないかい?」
「確かにそうね……」
「……! きちか良い子……?」
「よしよし。良い子じゃよ」
「楠莉のおばあちゃん取るなーっ!」
とろとろになった騎士華がヤクさんの膝を枕に頭を撫でられて幼児退行し、すぐ近くで見ていた唐音は今更えっちな小説を読んでいるくらい瑣末なことに思えてきた。
(でもそれが静ってのはやっぱりね……)
「名乗りでないってことはここにいないファミリーってこと?」
「静さんのものでないとするならですけどね。えーと今いないのは……?」
「人数が多すぎて何が何だか分からないど……!」
「バカみたいに増えすぎた弊害!! 唸ったり寝たり幼児化したりバーサーカーだったりで点呼も取れないし、人数把握するだけで一苦労じゃない」
阿鼻叫喚の地獄絵図と化した屋上に絶望感が漂う中、数がぽつりと漏らした。
「なんか今日32なんだよな……」
「彼女人数チェッカー!」
あー子にちぱちぱと手を叩いて褒められて数が気を良くしていると、羽香里はファミリーの謀担当として状況を整理していた。
「彼女は三十七人ですから来ていないのは五人。うち来ていない理由に触れられたのは静さんと夢留さん。それに恋太郎君が捜索中の愛々さん。あと二人は……?」
(二人……?)
二人と言っても候補を絞るのは簡単なことではなかったが、ずっと感じていた違和感の正体に気付いた胡桃が色を取り戻して復活した。
「紅葉と蘭那だ! これだけ知与が唸ってるのに蘭那が一度もふしだらって言わないわけがない……!」
「ボクがキツいって言わないようなものだもんね」
「無駄にイケボで入ってくんな」
「キッツ……♡」
「そんなことより紅葉だ! あいつならやりかねない!」
「お、落ち着くのじゃ胡桃。騎士華も怖がっておるよ」
「ばぶーッ!!」
「ヤクさん……。そりゃ紅葉に悪気があったとは思えないけど、でも静先輩にこんなの見せたら教育に良くないよ!」
「わしは紅葉がしたとは思っておらんよ」
「えっ?」
「よく思い出してみるのじゃ。ここでした会話の全てをのう」
空腹時のようにイライラが募っていた胡桃もヤクに諭されて平静を取り戻していった。そして大泣きしていた騎士華もあやすように優しく揺らされて泣き疲れた子供のように落ち着いていった。
「……そうか! あたしと同学年なんだから紅葉も十四歳!」
「胡桃は紅葉が年齢制限を破るような悪い子じゃと思うかい?」
「それは……」
胡桃はフードの裾をギュッと握ると、目を逸らした先でバーサーカーと化していた二人からすぐに視線を外し、前に向き直った。
「思わない、かな」
「うんうん。わしもそう思うよ」
「ヤクさん……その、ありがとう」
「いいんじゃよ。ほれ、こっちにおいで」
「い、いや撫でるのは別に……」
「良い子には飴ちゃんをあげようねえ」
「おばあ様!!」
「楠莉のおばあちゃんなのだーっ!」
ヤクさんの慕われぶりに楠莉の駄々っ子が加速していく最中、ファミリーのほとんどは冷や汗が浮かんでいた。
「……高一以上で……」
「今ここにいない彼女といえば……」
「お待たせ皆! 愛々ちゃん見つかったよ」
「お、お騒がせしました……」
「……愛々……?」
「愛々さん……?」
疑惑が最高潮に高まった瞬間だった。タイミング悪く愛々が屋上にやってきてしまい、気まずい空気が漂ってしまう。
「えーと……何かあった?」
「は、羽香里。伝えなさいよ」
「わ、私にだって恥じらいがあるんですよ」
「……! その本は……」
「ああ。その……お返ししますね」
「ええっ!? てっきり羽香里さんが置いたものだと……」
「……! ……愛々じゃない……ってことだよね……!」
「こういう本は読む前に恥ずかしくて消えちゃいますし……」
(消えなかったら読むのかな……)
「当然ですわ! 私は信じておりましたのよ!!」
「それは無理があるよ美々美ちゃん!」
だがそんな空気も愛々の反応ですぐに和らいだ。
「なんで皆私が置いたと思うんでしょうか……?」
「自覚がないなら胸に手を当てて考えてみなさいよ」
「うーん……確かにお胸はどすけべかもしれませんが、それは愛々さんも同じかそれ以上ですし……」
「は、羽香里さん!?」
「ああ。気分を悪くしたらすみません。私よりもセクシーなのでつい……」
「わ、私なんかそんな……!」
「そうですよ。以前も言いましたが愛々さんの身体はすけべなどではないのです」
「えっ」
すると彼らの少し後ろから紅葉が蘭那に注意されながらやってきていた。
「紅葉……!? あなたそのような気遣いが……!」
「愛々さんのお胸はとてつもなく大きくて下乳の曲線が美しくふわふわの——」
「ふしだら!!」
「まあとにかく素晴らしい揉み心地なだけということです。……おや? なぜここに渡した本があるのですか?」
「なっ! 結局紅葉のなのか!?」
「ん〜??」
流れでカミングアウトされたファミリーのほとんどは情緒が追いついていなかったが、情報をインプットして再起動した凪乃が素早く詰めた。
「なぜ好本静にこのような真似を? 返答次第では目潰しが飛ぶ可能性がある」
「な、凪乃! 落ち着いて……!」
人類に反逆するAIのごとく人間不信に陥って暴走する凪乃を恋太郎が宥めていると、当の本人はどこ吹く風だった。
「どうやら大事になっているみたいですが、どうしてでしょう?」
「さっきから言っているでしょう! ブックカバーもつけずにこのようにふしだらな本を見えるように置いては、あらぬ勘違いを生むと……!」
「いいえこの本はふしだらなどではないのです。女体の柔らかさを余すことなく伝えている素晴らしいものなのです」
「ああ……」
仮に紅葉が犯人だとすればそんなところだろう、と推測していた胡桃はなんとも言えない表情を浮かべた。
「あなたにとってはそうでも、受け取る側がそう思うとは限らないでしょう!」
「そういうものですか……」
紅葉自身はこの本に一切の照れを覚えなかったが、恋太郎が本の表紙を見て慌てて目を伏せたのを見ると、顎に手を当てていた。
「『おう。野郎ども待たせたな。主役は遅れてやってくると相場が決まってるんだぜ』」
「一区切りついたので来ましたが、ただ事ではない雰囲気ですね」
するとそこに静と夢留も合流し、これにて恋太郎ファミリーの面々が屋上に出揃った。
「どういう経緯で好本静にこの本を渡すことになったの?」
必然静もその本を目にすることになり顔を赤らめると、同様に頬を染めた夢留に目を覆われた。
「素晴らしい本があると伝えたら、静さんも読みたいと」
「好本静は内容を知らずに渡されたということ?」
「ええ。そうです」
「……そういうことなら」
事情を聞いた凪乃も解釈違いから解放されると、円周率の続きに期待の眼差しを向ける数に付き合うことになった。
「い、いや。まずいだろ紅葉。中学生のあたし達がR15の本を読むのは……」
「ああ、いえ。紅葉は誕生日が四月八日ですからもう十五歳ですよ」
「胡桃さんより大人なのです」
「そ、そうじゃったのか……」
(ヤクさん!! いや、あたしも納得したから……)
見落としていた可能性を突き付けられたヤクはまるで壺の見極めに失敗したかのごとく、羞恥で湯気が出そうなほど顔を真っ赤にして口を結んでいた。
「し、仕方ないよ……ほら! ヤクさんが加入した時はあたし達に誕生日無かったし!」
「あたしが入った時に急にできたってこと!? 怖い……怖いよおっ!」
「ご安心ください」
「芽衣……!」
「季節は春より前に進みませんので、ここから年齢が変化することはございません」
「きゃーッッ!!」
「エイラちゃん!?」
ものすごい勢いで転がり出すエイラを先が受け止めようとしたが吹き飛ばされ恋太郎が飛びついてキャッチし、代わりに芽衣が虹色の瞳を見開いて受け止めていた。
「"こうして物語は幕を閉じたのだった"」
「それはとても
こうして事件は解決し、物語は幕を閉じたかに思えた。
「"しかし物語には一部の者しか知らない続きがあった"」
放課後になり、静は紅葉の家にお邪魔していた。
「『申し訳ない』。"予め宝箱の中身を知っていた"『にも関わらず』」
(今書いてる小説にリアリティが欲しくて、私の方からお願いしたのに……)
「いえいえ。紅葉が本を置いたのは事実ですので」
「『お気遣い感謝する』。『お礼に汝の望みを一つ叶えよう』」
「うひょー」
季節は相も変わらずの春。誕生日は永遠とも思える遥か遠く先だが、静は紅葉にほっぺを揉まれながら本を読み進め、少し大人な知識を得ていったのだった。