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現実逃避という言葉がある。
特に説明する必要もなく、見たまんまと言うか、読んで字の如くと言うか、目の前に広がる残酷な現実を許容出来ず、目を逸らすか逃げ出してしまう事だ。
カズマはこの言葉を嫌という程知っている。というか、そのカズマ自身が現実逃避を行った人間その人であり、それによって引きこもり生活がスタートしたのだ。
現実逃避とは決して悪ではない。カズマはそう断言出来る。何処かの誰かが言っていた事だが、現実は直視し過ぎると失明するのだ。適度に目を逸らしてやり過ごすのが得策な事もある。
だからこそ。
「……」
「その、なに? いやまぁ、ほら。まだ2つ目だから。そう落ち込むなって。な?」
目の前の現実を受け入れなければならないというのが、何とも残酷だった。
もうさっさと目を逸らしてやりたい。こんなにも人の事―――神様である―――を可哀想だと思ったのは、生まれて初めての事だ。
目の前には完全に意気消沈してフードを被って座り込む女神。傍から見れば女神でもなんでもなく、現実に絶望して今にも死にそうにしている都会の女子高生かOLに見えなくもない。
何故だか見ていて心が痛む。あまりにも可哀想過ぎて。ここまで不憫だと、もはや可愛いと思うのも失礼だろうか。
「……」
「八百屋の人も別に怒ってた訳じゃないじゃん? どっちかと言うと困惑っていうか、別の方向でのクレーム殺到だったと言うか……」
ギルドでの店員バイトをクビとなり八百屋のバイトへ移った二人だが、残念ながら結果はまたもやクビであった。
水から分岐して天候・豊穣・生命を司る女神アクア。メインである水の権能に比べれば、他の権能は出力が大幅に低下している。
水の権能が3であるとすれば、その他の権能は0.5%と言えるかどうかの出力だ。
が、この場合は水の権能が嫌に働いてしまった所為で、豊穣の権能に加算が入ってしまったのだ。
結果、手に持った野菜が神聖化―――とまでは行かなかったものの、普通の野菜とは比べ物にならない程の鮮度と旨味を引き出す羽目となり、もうこの野菜以外食べれないじゃねぇか! という謎のクレームが殺到したのである。
「………ぐすっ」
「ウッソだろお前!? いやいやちょっと待とうぜアクアさん落ち着けって! 悪くない悪くない! アクア悪くないから!」
思ったよりメンタルが脆い女神だった。普段がアレなだけに意外である。
いや、逆に言えば普段がダウナーだからこそ、こういった所のメンタルが脆いのかもしれない。或いは、すぐ泣きそうになる所だけはそのまま、とも言える。
大見得切ってサポートすると宣言したのに、いざ降りてみると足を引っ張ってばかりだ。彼女からすれば大恥も良いところだし、何より仲間に対してこうもハッキリと迷惑を掛けてしまっていることを自覚すれば、申し訳なさが大きくなるのも無理はないだろう。
「だってほら、もうこれに関しちゃ仕方ないじゃん! 自分の意思で捨てられるもんじゃないんだろ、神格って? それに八百屋の人も気にしてなかったしさ!」
「…そうかしら」
「そうそう! クレームはクレームでも良過ぎるからこそのクレームだったし! 結果的に買った人の肌は綺麗になってるし子供も野菜食べれる様になったしでハッピーエンドだから! アクアが気にする事ないって!」
「…」
ほんの少しだけ上げた顔で、必死に慰めるカズマを見詰める。
目尻には涙が溜まっている。まさか本当に涙しているとは思わず、カズマはさらに焦りが出てきた。
でもそれはそれとして可愛いとも思う。さっきからギャップが凄まじいのだ、この女神は。
ダウナー系パーカー女子って良いよね(作者)。
「…ありがとう、カズマ。また情けない所を見せちゃったわね」
涙を拭い、誤魔化す様に笑う。
読心とかが出来なくて本当に助かった。不謹慎ながら、そんな笑顔が突き刺さったことを知られた暁には軽蔑の眼差しが飛んでくること間違いなしである。
とは言え、元気付けられたのなら良かったと、カズマも安堵の息を零した。
「いいよ、別に。でも意外だな、アクアってめっちゃメンタル強いかと思ってた」
「まぁ…弱い方ではあると思うわ。これまでに挫折とか、苦労とか、人間が経験するそういうのを経験した事がないのもあると思う」
「へぇー。やっぱ神界だとそこも違うもんなのか」
死者の間ではOLみたいな感じだと言っていたが、あくまでも喩えであって実際は違うのかもしれない。
人間であるカズマにとっては、神界なんて未知そのものだ。何せ神々の世界である、想像のしようもない。
ただまぁ、彼女の神様に対する価値観を見るに、ろくでもないという視点があるのは確かだ。正直、カズマには分からない視点ではあるが。
「神界は縦社会よ。古くから存在して歴史に関わってきた神程偉い。如何に信仰されているか、或いは威光を示したか。前者ならヤハウェ様、後者ならゼウス様ね。例外としてアザ=トース様とヨグ=ソトース様が居るけど」
「知ってるの一人しか居ねぇ…」
「ヤハウェ様は文字通り全知全能の神よ。七日間で世界を創り出した神様…というより、聖書に出てくる神様って言えば分かるかしら?」
キリスト教、ユダヤ教の聖書において『主』と崇められる唯一神。
「あー……あれヤハウェって言うのか。知らなかった。他は?」
「一言で言えば……
「字面だけでヤバさが伝わってくるんですけど???」
「アザ=トース様とヨグ=ソトース様はヤハウェ様と同等の立場にある神様よ。クトゥルフ神話って聞いたことない?」
「あー……確か、TRPGでよく聞くやつだよな」
「そう。その最高神と副王」
思い出す様に話していれば、どんどんとアクアの顔色が悪くなっていく。
外なる神の王と副王。あれらは別格だ。『全能』の可能性を秘めたアクアでさえ、かの神々からすれば赤子にすらなり得ない。
「クトゥルフ神話において、その世界におけるあらゆる全ての事象、存在はアザ=トース様が見る夢だと言われているわ。そして、制限をもたらす数学や論理、時間と空間さえも超越した、全にして一、一にして全なる者―――それがヨグ=ソトース様よ」
「オッケ、とりあえずマジでヤバいって事だけは分かったわ」
「それくらいの認識で良いわ。下手に思考を巡らせると覗かれるもの」
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ―――ドイツの哲学者にして
ヨグ=ソトースの性質はまさしくコレだ。かの神は全にして一であり、一にして全。門にして鍵であり、鍵にして門。
過去、現在、未来におけるありとあらゆる事象と存在、概念すらもヨグ=ソトースの認識の一つでしかない。
下手にヨグ=ソトースについて思考を巡らせれば、かの神の視点が僅かに傾くだろう。それだけで、人間はおろかそこらの神すらも呆気なく終わりを迎える。
とにかくヤバい。それだけを理解して、カズマはぶんぶんと頭を振ってこの話題を消し去った。もう思い出す事もないことを祈ろう。
「で……次のバイト、どうする?」
「…正直、もうあたし達は一緒にバイトしない方が良いと思うのよね。別々でそれぞれにあったバイトをする方が効率的な気がするわ」
「えー…って言いたいけど、俺も薄々そう思ってたりするんだよなぁ…」
このままでは稼げるものも稼げないままだ。何も稼げず野垂れ死に、なんて洒落にならん。それだけは何としてでも避けなければならない。
とは言え、正直な話―――アクアと一緒にアルバイトを続けていれば、それもマジな話になってくるだろう。
ポンコツとかそういうのではなく、単純に力が有り余るが故の苦労だ。悪気が一切無いのも相まって、責める事なんて出来る訳もない。
「仮にそうするとして、アクアはどうするんだ? 力仕事とか出来んの?」
「まぁ、一応」
「出来んのかよ」
「
理由があまりにもバイオレンスだった。どうにも女神の台詞とは思えない。
神界では異端的な立場にあるアクアだ、誰かに絡まれる事自体は決して珍しい事ではない。だが、その中でも一際目立つし一際うざく絡んでくる神が居る。
『あっれ〜? これはこれはダウナー系女神ことアクア様ではございやせんかー! いやーこんな所で会うなんて奇遇だねぇ、いや運命かナ! 相変わらず無愛想ですなー、ほらもっと
千の貌を持つ外なる神。北欧神話のロキをも上回る神々のトリックスターにしてメッセンジャー。神にも人にも動物にも現象にも伝承にもなる無貌の神だ。
それがよく突っかかってくるものだから、さしものアクアも我慢は出来ない。天候神の権能でバフ重ね掛けからのブローでノックアウトである。
「言ってる事とルビが物騒極まりねぇんだけど? え、じゃあ何? そんな華奢なスタイルしてんのにそこらの奴より強いの? だとしたら俺出番なくね?」
「……そんなことないわよ」
「おい目を逸らすな! よく考えたら確かにそうかも…みたいな顔すんな!? もうそうなってくるとサポートっつーかもはや介護だよね!?」
いかん、思ったより自分の立場が危うい! カズマはまたもや焦りが出てきた。
「せ、戦闘の際は別よ。多分あたしはアークプリーストになるだろうし、そうなると剣とかは持てないもの。近接戦闘はカズマの仕事になるわ」
「嬉しい様で嬉しくない……てかそうだ、まず職業とかそういうの分からないと話にならねぇじゃん」
「その為にバイトが必要」
「最初に戻るって訳か…マジで別行動? 土地勘ないぞ俺」
「……はぁ、このままじゃどうにもならないわね。暫く歩きましょう、気を紛らわせる程度だけど」
悪足掻きの様に、二人は歩き出す。
本当にどうしたものか。このままでは袋小路も良い所だ。バイトでお金を稼ぐ以外の方法が決して無い訳ではないが、その手段は決して現実的なものではない。
その一つは、アクアにとっても取りたくないものだ。
「なぁ、アクア。怒るかもしれないのを承知の上で提案していいか?」
「……良いわよ」
「お前の信者から借りる」
「却下」
「ですよねぇ…」
分かり切った答えに、カズマはがくりと肩を落とす。
彼女の事だ、信者を利用する様な事はしたくないだろう。そんな事はカズマだって分かっていた。だが、彼にはそれくらいしか考えが浮かばなかったのだ。
「まぁ、いきなり『私が貴方達の神様です』なんて言っても信じてもらえないか」
「一概にそうとは言えないわ。
「彼? 当てがあるのか?」
「まぁ、そうね……一応、当てではあるわ。けど、あたしは嫌よ。絶対に」
「そんなっすか…」
「あの子は頼れないわ。……今後何があったとしても」
(なんか重い事情がありそうだな……)
「それに今頃は
「今なんつった???」
女神の信仰者にあってはならない言葉が出てきた気がする。信者がそれで良いのか? そんでもってそれを許容しちゃって良いものなのか?
他でもない主神が認めちゃってるのも、それはそれで如何なものか。カズマは訝しんだ。
「ちょっと特殊な子なのよ。頼りになるのは間違いないんだけど」
「今の発言からどう頼りになるのかカズマさん分からない」
「本当に頼りになるのよ。アクセルの住民達は殆ど相談相手に彼を選ぶくらいだもの」
「尚更訳分からん…飲酒と喫煙する信者が人気ってどういう事だよ」
「何なら神父よ」
「マジなんでだよ!?」
だが、この物語で彼が介入する事はない。この物語の主役はあくまでも本来とは違う彼女とその仲間達であって、彼ではない。
ただまぁ、何かが変わっているのに気付くと少しだけ楽しめるかもしれない。その程度の認識でいてくれると幸いだ。
まぁ、閑話休題。
歩いて暫く。少し日も下がり始めた頃の事だった。
「ふんっ……はぁ」
踏ん張る様な声がした。道の右側の溝、汚れた色の水が流れるそこで、一人の老人が作業をしていた。
随分と苦しそうな顔をしている。汚れを集めて運ぼうとしているのだろうが、かなり高齢の老人にはキツイ仕事だろう。
「…カズマ、ちょっと行ってくるわ」
「え? 行くって何処に」
「少し待ってて。すぐ戻るから」
短く答え、アクアは動き出した。少し早足で歩いて溝まで行くと、躊躇いなくそこへと降りた。
「おや、こんにちは」
「こんにちは、お爺さん。今、お仕事中かしら?」
「お仕事、と言う程のもんでもないよぉ。ボランティアさ。ほら、ここは汚れが溜まるからね。誰かが掃除しないと」
「なら、あたしも手伝うわ」
「え? いやいや、大丈夫だよ! 気持ちは嬉しいけど、こんなべっぴんさん汚す訳にはいかないからねぇ」
アクアがそう言えば、老人は一瞬ぽかんと呆けた顔を浮かべて、すぐに笑って首を横に振った。
若い子は誰もやりたがらない仕事だ。老人から見れば、神であるアクアもまだ若い子供と言った所だろう。
それもこんなに綺麗な娘に、肌や服を汚してしまう仕事をさせるのは憚られるのは、至極当然である。
だが、アクアはそんな事など知った事ではないと断言した。
「気にしなくていいわ。お爺さん一人でそのペースだと、日が暮れちゃうわ。いいから、手伝わせて」
「うーん……なら、お言葉に甘えさせてもらうとするよ。ありがとね、お嬢さん」
「お礼なんていいわ。あたしが勝手にやろうとしてるだけだもの」
無愛想な物言いに、老人は笑顔のままだった。
それからは、特別大した事もなかった。
水の女神たるアクアにしてみれば、水の浄化などそれこそ赤子の手を捻るに等しい作業。もはや水に触れる事もなく、精霊達に呼び掛けて汚れも含めて綺麗な水へと浄化させる。
たったそれだけの事。アークプリーストでもそう簡単に出来る事ではないそれに、老人は小さな拍手を捧げた。
「すごいねぇ、お嬢さん! 年甲斐もなく驚いちゃったよ」
「大した事じゃないわ、これくらい」
「そんな謙遜せずに。あんなに汚れてたのに、一瞬で綺麗するなんて、簡単じゃないよ。まるで―――」
まるで、水の女神様みたいだ。
「……」
それは。
それは―――そうだろう。
だって、実際に水の女神なのだから。
人ではない。魔でもない。精霊でもない。
自然現象すらも超越した存在。人類によって産み出されながら、いつしか人類を創造した事となった存在―――神そのものなのだから。
だから、老人の何気ない言葉が深く突き刺さる。
結局の所、神は神。例え力が落ちたとしても、己が存在を否定する事など出来たものではない。
「…そうかしら」
困った様な笑みで、それを誤魔化す。
老人相手に不機嫌を取る、なんて常識のない行動はしない。これくらいなら、普通に我慢出来る。隠す程度なら。
「……いやぁ、本当にありがとうね! お陰で助かったよ。そうだ! これ、貰っていって」
そう言うと、老人は懐から二枚の金貨を取り出した。
「もう古いものだけど、換金すればそれなりになる筈だよ」
「…気持ちはありがたいけど、貰えないわ。さっきも言ったでしょ? あたしが勝手にやった事よ」
「優しい子だねぇ。けど、こっちも譲れないよ」
先程までと同じ穏やかな顔だが、老人のその目には絶対に譲らないという意思があった。
これまでに何度も、その決意を揺るがせることなく推し進めてきた様な―――そんな気迫をすら感じた。
「理由がどうあれ、働きには相応の対価をあげるもの。お嬢さんのお陰で、ここの水が綺麗になったんだ。儂だけじゃなく、アクセルの皆の力にもなってくれた。だから、これはその気持ちだよ」
「……」
「それに、こんな老い先短いおじいちゃんが持ってても仕方ないしねぇ。お嬢さん、その格好を見るに遠くから来たんでしょ? 向こうに居る子はお連れさんで、似た様な格好をしてる。表情を見るに、何か悩んでる風だ。老耄の妄想だけど、お嬢さん達は路銀が尽きて困ってる―――違うかい?」
「…お爺さん、もしかして冒険者だったりするのかしら?」
鋭い。正確には違うが、状況としては殆ど合っている。
アクアとカズマの格好、カズマの表情を見るだけでそこまでの考えに至るのか。どうにも老人らしさを感じず、アクアは少し驚いた。
「はっはっは、もうとっくに引退しちゃったけどねぇ。まぁ、そういう訳だから貰ってくれるとおじいちゃんは嬉しいねぇ」
「…はぁ。分かったわよ。ありがとう、お爺さん。助かるわ」
「いいよいいよ、元々助けてもらったのはこっちだからねぇ。ほら、お連れさんの所に行ってあげなさい」
「えぇ、そうさせてもらうわ」
踵を返し、カズマの方へと戻って行く姿を暫く見詰めると、カズマが頭を下げた様子が見えた。
律儀な子だねぇ、と老人は手を振って返す。
これが足掛かりになってくれれば、嬉しいかな―――老人はそう思いながら、二人の冒険者を見送り、帰路を辿ったのだった。
序章の方で、世界線繋がりについてはちょこっと言及していたりしてますので、良ければ探してみてね。