もう十年以上前になるが、俺が小学校三年の夏、母方の祖母が住む村に一月ほど預けられたことがある。
場所は本当に山の奥で、最寄りのバス停からさらに車で三十分。コンビニも信号もない、まるで時間が止まったような集落だった。
俺は都会育ちで、最初はこの田舎生活が新鮮で楽しかった。昼間は虫取りや川遊び、夜は縁側でスイカ。
祖母は厳しいが優しく、俺に地元の「決まりごと」をいくつか教えてくれた。
その中に、ひとつだけ変なルールがあった。
> 「夜に名前を呼ばれても、返事をしてはいけないよ」
最初、冗談かと思った。
「なんで?」と聞くと、祖母は真顔で、
「返したら、帰ってこられんようになる」
と言った。
その口ぶりがあまりに真剣で、子供心に笑えなかったのを覚えている。
ある晩のことだった。
夜中、ふと目が覚めて、なんとなく縁側の障子の向こうに目を向けた。
真っ暗な中、外から“声”がした。
「……たかし……」
俺の名前だった。
風に紛れるような、小さな女の声。
はじめは夢か幻聴だと思った。でも、二度、三度と同じ声が続く。
「たかし……いるんでしょ……」
体が凍るように固まった。
返事をしたらいけない。祖母の言葉が脳裏で何度も再生される。
布団をかぶり、耳をふさいで朝を待った。
翌朝、近所の子・ケンタの家が騒がしくなっていた。
朝起きたら、布団もそのままで、本人だけいなくなっていたらしい。
村中が山に入って捜索したが、何の手がかりもなかった。
足跡も、持ち物も、何ひとつ。
昼間、こっそり祖母に聞いた。
「ケンタ、あの声に返事したの?」と。
祖母はしばらく黙っていたが、ぽつりと、
「……あの子、前の日に“名前を呼ばれた”って言うてたんよ」
と答えた。
怖くなった俺は、それ以降、夜が来るのが怖くなった。
実際、その晩もまた声は来た。
「たかし……どうして返してくれないの……」
聞こえないふりをして、息を殺して、ずっと耐えた。
祖母はその間、何も言わなかった。ただ一度、朝食の時にだけ言った。
「えらかったね。返さなんだら、大丈夫よ」
それ以降、声はぱったりとやんだ。
俺はその夏が終わってからも、あの村のことを話すことはなかった。
高校生になる頃には、あれも子供の妄想だったかもしれないと思い始めていた。
だが、数年後――祖母が亡くなり、葬式のために久々に村を訪れたときのこと。
夜、仏間で寝かされた俺は、あの懐かしい縁側の気配を感じていた。
あの頃のまま、変わらず軋む木の床、かすかに湿気を含んだ風。
そして、ふと、耳元に息がかかるような声がした。
「……たかし……やっと、来たね」
反射的に喉まで返事がこみ上げた。
が、間一髪で息を止めた。目を閉じ、声を封じ込めた。
朝まで、布団の中で震えながら過ごした。
翌朝、寺の住職が「今晩は仏間に泊まるのはやめなさい」と言った。
「この家は代々“呼ばれやすい”家系だから」と。
帰り際、住職がぽつりと教えてくれた。
「“名前を返す”ってのは、あちらの世界に“居場所”を教えることなんです。
だから返した者は、魂の一部を、もう向こうに持っていかれる」
俺はそれから、自分の名前を呼ばれても、すぐに返事をしない癖がついた。
夜、見知らぬ番号から電話が来ても出ない。
誰かが俺を呼ぶ声に、まず一拍置くようになった。
返してしまったら、もう帰ってこられないかもしれないから。
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いまも、時々夢であの声が聞こえる。
けれど、俺は絶対に、返さない。
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最後まで読んでくれてありがとうございます。
こんな駄文ですが、これからもよろしくお願いします。
次回もお楽しみに。