月隠奇縁譚 〜魂祭りのマレビト、故郷に戻りて縁を復する〜   作:mimick

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第12話 祓 8/7(土)

 時節は夏の盛り。如何に緑深い山に位置する八杜神社とて地球環境の変化を免れる術はない。

 

 社に続く階段の前。一の鳥居には手水舎があり、枯れることのない水源から引かれた湧水は冷たく、コポコポと流れ出続けて清澄を保っている。

 

 一の鳥居を潜った先には古く苔むした長い石段。階段に添うようにして林立する緑の木立から抜ける神秘的な木漏れ日。石段の途中には二の鳥居を挟み、更に頂上の本殿のある境内の入り口には三の鳥居が立てられている。

 

 鳥居とは現世と神域との境界を示す象徴。その境界を潜るたびに、現世からは離れ、神の世界に近づいてゆくことになる。

 

 ──その石段を急ぎ足で登り、鳥居を潜り抜けることに何の感慨も抱いていないその人物は結衣が先ほど脅しつけた人物であり、此度の霊障相談の依頼人である女性の夫であった。

 

 怒りと焦りを眼に宿した男性が汗を流し、息を切らせて石段を登り切ったその場所──境内の中央。そこには四本の柱を立てて縄で結び、紙垂が垂れ下げられた囲いの結界が作られており、その中に男性の妻の姿があった。

 

 息を荒げて石段を登って来ていたので、男性が登り切る前からもうすぐ夫が到着することに気づいていたのだろう。結界の中にいる女性は夫の姿を認めると呑気にも手を振っていた。

 

 気が抜けるような、一瞬の安堵感。

 

「ようこそ、お越しくださいました。先ほどは電話口で失礼いたしました、私が神楽木と申します」

「アンタがあの電話の……! 妻は連れ帰らせて貰うっ! 金は払うからもう関わらないでくれっ!」

 

 結界の外。女性の側にいた結衣が頭を下げ、静々とした態度で男性を出迎えた。一方、依頼人の夫である男性は結衣の姿を認めるや否や、その形相を険しくする。

 

「それは構いません。ただ、祓徐はしておいた方がよいと思いますよ」

「フツジョ? 何を言っているんだ?」

「お祓いのことです」

「そんなものっ……!」

 

 しかし、結衣はそんな男性の様子も意に介さず視線を外し、柏手を一つ打つ。

 

 ──パンッ

 

 その音を切っ掛けとして、蝉の鳴き声が一斉に止んだ。風が止み、無音に近い状態へと変貌する。現実が現実ではないような違和感。しかし、ジリジリと肌を焼く陽射しに変わりは無い筈であったが、まだ昼頃だというのに周囲は夕方のように日の赤みが強くなっているように感じられた。

 

「うっ……」

 

 それから頭の奥から響くような、酷い耳鳴りが男性を襲った。

 

「な、なんだ……?」

「隠れているつもりですか? ですが、逃がしません。ここの神社は相殿。相殿神は賽の神の性質を持っているのです」

「何を言って──」

 

 爽やかな緑の香りを含んだ一迅の風が巫女のいる方角からゴウッと猛然と吹き抜け──唐突に襲われた身体に圧し掛かる重さに耐えかねるようにして、男性は膝から頽れた。

 

「うぐっ! ……なん、だ、これ……」

 

 目の前で男性が地面に膝を突くも、結衣は男性に視線を向けることもしない。

 

「アンタ……の仕業か……これは……」

「そうと言えばそうなのですが……自身の背後を見てみるとその理由がわかると思いますよ」

 

「な、なん……っ……!」

 

 巫女にそう言われ、苦しみながらも背後を振り返ると男性は息を呑んだ。

 

 そこには頭が奇妙に膨れており、目を持たない、突っ張った皮膚のせいかニヤついているように見える異形がいた。その異形は丁度男性の首に縄の輪を掛けており、犬のリードのように縄の反対側を保持していた。その身を包む真っ黒なスーツはボロボロであり、言葉では表現し難いどす黒く悍ましいものが発露されている。

 

「縊鬼と言います」

 

 それは、伝承や民間信仰に見られる概念であり、人に取り憑いて首を括らせる悪霊や妖怪と呼ばれるもの。

 

 中国の昔話には、冥界の人口を一定に保つために、死者が転生するためには、自分に代わる新しい死者が現れる必要があるという考えがあったという。そのため、死者は自らの転生を早めるために、積極的に生者の死を招こうとするという逸話がある。

 

 特に、首吊り自殺をした亡者は『縊鬼』と呼ばれる存在となり、紐や縄を持ちながらその影を見せ、生前に自分が経験したのと同じ方法で他人を死に追いやろうとするのだという。

 

「ひぃっ……たっ、たすけ……!」

 

 正体の露見した縊鬼が未練がましく男の首にかけていた縄を絞めようとして、男性が声にならない悲鳴を上げた。

 

 その異形の心など態々結衣が視るまでもなかった。悪意の塊。終わりのない苦しみに苛立ち、常に誰か他の存在に苦しみを押し付けようとしている。そして、その押し付けた苦しみに生者が藻掻く様を見て、自身の無聊を慰めている。そんな精神性だ。

 

「ダメだろ。本来、常世にいる筈の存在が無闇に人に危害加えたら」

「!」

「そらっ!」

 

 そんな緊迫した雰囲気を緊張感のない声と共にブチ壊したのは、フィジカルギフテッドとも言える屈強な肉体を持った存在──辰巳であった。辰巳は首に掛けられていた異形の霊体の一部であろう縄を力任せに引き千切ると、スーツ姿の縊鬼の腕を掴んで軽々と投げ飛ばす。

 

「いきますよ。ちょっと奥さんと大人しくしててくださいね」

「えっ、あっ、ありがっ……ぐわっ」

 

 そのまま、辰巳は男性を担ぎ上げ、依頼人である女性のいる紙垂の垂れ下げられた囲いの中に放り込んだ。

 

「これで良かった?」

「バッチリだよ、石動くん。それじゃあ、次のお仕事をお願い事してもいいかな?」

 

 二人に動揺や驚きはなく、慣れを感じさせる。そして、二人の会話はまるで事前にどのような対応をするか打ち合わせていたかのような言だった。

 

「勿論。見てるだけで終わるんじゃないかってヒヤヒヤしてたよ。今度は何をしたらいい?」

「これから祓の儀式を始めるから、邪魔が来ないように少し抑えて貰いたいかな」

 

 そして──それくらい石動君なら簡単でしょう? と、結衣は微笑む。彼女の視線の先で辰巳は笑みを浮かべて拳を握りしめた。

 

 結衣が行う儀式──これまで修祓の準備ばかりで、辰巳の出番という出番は無かったのだ。流石に準備の手伝いだけでお賃金はいただけないと意気は高い。その眼は普段の彼のものとは異なり、荒々しく血を滾らせギラついているようにさえ見えた。

 

 結衣はそんな辰巳の姿を見て、ゾクゾクと肩を震わせて内心で胸を熱くしたが、表に出すような馬鹿な真似はしない。

 

「わかった。やっぱり直ぐに降伏《こうぶく》はしたらマズイ?」

 

 降伏とは悪霊や怪異を押さえ下すこと。異界で悪鬼悪霊やら怪異の征伐行脚していたらしい辰巳が疑問を呈す。

 

「うん……ちゃんと力を尽くしましたって態度は、その後の疑念を抱かせない為にも必要だから」

「……やり過ぎないように気を付ける」

 

 辰巳の脳裏に浮かんだのは、先の霊符で霊力制御に失敗して結衣に怪我させてしまった場面。当然のことだが、力を込めすぎると威力が大きくなりやすくなる。見物人であり、依頼人でもある夫婦を納得させなければならないとのことで、辰巳は手加減するように事前に結衣から言い含められていたのだった。

 

「あはは……ウチの都合で、ごめんね? 支払いを渋られるのは少し面倒だから。……それじゃあ、一緒に怪異退治といきましょうか」

「あぁ、此方には来させないから安心して祓に専念して欲しい。それじゃあ、ちょっと押さえてくるよ」

「はい、お気をつけて」

 

 そう言って、辰巳はゆっくりと歩み始めた。

 

「ふふ……初めての()()()()……護ってくれる人がいると、こんなにも安心感が違うのね……」

 

 いつもであれば場合によってはもっと大がかりな準備が必要であったし、力のある存在に対しては他に盾やら贄を用意したり、真っ当ではない方法を使う必要もあった。しかし、今回の儀式は結界を設けるだけで殆ど事足りていた。

 

 それはひとえに、前衛に辰巳がいることで結衣が祓に集中出来るからであり、そのことが結衣を高揚させて止まなかったのだ。

 

 結衣の視線の先──そこには徒手空拳の構えで、腰をどっしりと落とし、縊鬼を睨みつけている辰巳の姿があった。

 

 その姿を見て結衣も行動を始める。右手に神楽鈴、左手には舞扇。結衣が手首を返すと、シャン──と鈴の音が空間に広がった。

 

「──祓え給い、清め給え、神かむながら守り給い、幸さきわえ給え」

 

 涼やかで、朗々とした声音で祝詞が響く。唱えるは祓詞。

 

「掛けまくも畏き──」

 

 シャン──と鈴の音が鳴る度に、縊鬼が神域に持ち込んだ穢れが灌がれてゆく。雲間から赤々とした太陽が覗くように、昏く重苦しい空気が晴れる。清浄な空気が神域に広がっていった。

 

 祓詞──それは伊邪那岐大神が死者の国の訪ねた後のこと、御身が穢れ、身を清める為に海水で禊を行ったところ、その場所に祓戸の神々が生まれた。この祓詞は、祓を司る祓戸の神々の物語にあやかり、罪や穢れを清めてくださいという意の祝詞であった。

 

「──恐み恐みも白す」

 

 神楽鈴を鳴らし、舞扇を撫でるように滑らせて舞う。ゆるゆると大きく、しかし靭やかさを合わせるそれは優美。そして、随所に乗せられた清らかな鈴の音の威。音の波。

 

 シャン──

 

 鈴の高い音が水紋のように空間に波をつくり、拡散しては解けてゆく。舞う度に結衣の髪が揺れ、白衣の袖が振られ、その身から放たれる霊力が鈴の音に乗って周囲に伝播してゆく。

 

「み、見えるわ……! ねぇ、私にもオバケが見える……! だから言ったでしょ!? 幽霊はいるんだって!」

「は、はは……そんなバカな……これはドッキリか何かか……」

 

 神域に霊力が満ちた副産物と言うべきか、依頼人の女性達にも結衣と辰巳が相手している存在の姿がハッキリと視認出来ていた。

 

 興奮して騒ぐ女性に対して、あまりの非現実感と常識をぶち壊す光景に夫である男性はただ呆然と口を開けて見入った。

 

 そして、彼女達の視線の先には巫女装束の結衣がおり、その舞に引き込まれるようにして視線が外せなくなる──それほどに巫女の舞の動きは美しく洗練されていた。その動作一つ一つ。優美さと厳かさが調和しており、見る者の意識は舞に惹き付けられてしまう。その祝詞と舞を見ているだけで、ここには無い筈の神楽の音が何処からか聞こえてきそうだった。

 

 それは社務所の中にいる結衣の父や弟子とて例外ではない。神域で舞う巫女の姿は天女のように美しく、一度魅せられてしまえば目を離す事などできる訳が無かった。

 

 シャン──シャン──

 

 結衣の舞は見る者を魅了する。その御業に依頼人の女性に憑いていた霊すらも嘆きを止める。耐え難い死の苦しみすら忘れ、深く感じ入り心を動かす。

 

 目を、耳を、心を惹きつけて止まないその舞に、何を視るかは当人に委ねられるのだろう。ある者は深い悲しみを慰められ、またある者は幼い頃の古い記憶を思い起こす。共通するのは心に強く感じ入るものを呼び起こすというもの。

 

 言ってしまえば、結衣の巫女舞は霊の心を震わせて慰撫し、荒ぶる魂を鎮めるもの。死の間際に意識に焼き付いた苦しみや悲しみ、世の不条理への怒り、理不尽な死への恨みを慰める。負の感情で満ちた魂を浄化する──神の宿る舞だ。

 

 真摯な舞は、心に響く。それは彼らの安寧を願うものであるから。だから、舞に感じ入った霊達は本来有るべき場所に還ってゆく。

 

 シャン──シャン──……

 

 しかしながら、八杜神社という神域にいる悪霊の内のもう一体、縊鬼だけは様子が違っていた。

 

『グウウゥゥ……オ゛ノレェ、ソレヲヤメロ゛ォォ……!』

 

 ボロボロのスーツを身に纏った縊鬼は気分を害した様子で結衣を見やると、唸り声をあげて祓を祈願する舞いを奉納している結衣へと襲い掛かろうとした。縊鬼からすれば、目障りな存在である彼女を優先しなければならない標的と見定めたということなのだろう。

 

「──いやいや。無視すんなよ」

『グガァァッ』

 

 猛然と駆ける縊鬼は、しかし──()()()()()()と先ほどと同じようにグリンッ、と投げ飛ばされた。受け身も取れず地面に転がった当の縊鬼は何が起こったのか分からないという風に困惑しているようだった。

 

「力技でねじ伏せられるのは初めてか? 暴れてもいいけど……無駄な足掻きになるだけだ」

 

 どうやっても、お前はあの巫女さんのとこには辿り着けないからな、と強い口調で言う。これは縊鬼に対する明確な挑発だった。現に縊鬼は、怒りを露わにし辰巳を睨み付けていた。

 

『グゥ……! 赦スマジ……タダノ人間ゴトキガァ……!!』

「ちょっと平和過ぎて調子が可笑しくなりそうだったんだ。相手してくれ」

 

 縊鬼の背から穢れである瘴気が立ち上り、神域の清浄な空間を侵す。そこには憎悪や怨念、怨嗟といった感情がドロドロと渦巻いているように見えた。辰巳はそれを目にしても気負うことなく、ただ腰を落として身構える。

 

 ──先に仕掛けたのは縊鬼だった。自身を支配する恨みや憎しみ、利己的な欲求の赴くまま、ありったけの悪意と暴威を込めて目の前の『邪魔者』にぶつけようと全力で走り出した。

 

 さっき投げ飛ばされたのは、きっと何かの手妻があったにせよ、今度はそうはならないとばかりに。負の感情に支配された力のある悪霊であるが故に知能はあるが知性は薄く、ただドロドロとした悪意のままに穢れきった霊体を突き動かして他者を害さんとする。

 

 それを見た辰巳も不敵な笑みを浮かべ待ち受ける。縊鬼の力は強い。それほどに数多の人を縊死に追い込み、死の瞬間の負の感情を取り込んできたのだから。故に、その身を纏う穢れた瘴気は呪いに等しく、触れた者に魂が侵される苦しみを齎す。

 

 ──しかし、辰巳がそんな縊鬼を恐れる様子を見せることは無い。

 

 縊鬼が辰巳に襲いかかり、その表情を喜悦に歪ませる。生身の人間には瘴気に対する耐性も、抗う方法もない。瘴気に一度でも触れれば魂は侵されて変質し、癒える事のない苦しみを背負う事になる。

 

 ──始めに気力が抜け落ち、思考が鈍くなる。次第に身体が重く感じられるようになり、色々な事を忘れ、思い出せなくなってゆく。それは恋人や伴侶、子どもの誕生日や、大切だった人の顔。古い思い出や、自身の根幹にある想いまで。楽しい記憶も、悲しい記憶も、人生の全てが色褪せる。

 

 いつしか思考は止まり、抗えば抗うほどに無気力となって廃人同然となる。それはまさしく、人を生きる屍に変える呪い。苦しみの果て──その先には孤独な冥い死が待っているのだ。

 

 縊鬼は人間が苦しみながらゆっくりと死に向かってゆくのを見るのが好きだった。生者を死へと誘い、苦悩を齎す──それこそが自身の存在意義であると。苦悩が、苦痛が、溢した涙が、苦悶の呻きだけが縊鬼の満たされない気枯れた《けがれた》魂を癒やすのだ。

 

 だが、今回はそんな悠長に構えているつもりは無い。今すぐに、目の前のその命を刈り取ってやりたかった。

 

 不愉快だったのだ。その舞も、その清浄な鈴の音も。オレの許可なく魂に触れ、愚かにも慰撫しようとしている。そんなものは求めていないのに。自身を癒やすのは冥い死だけであるのに。巫女の祓が、自身の領域を侵犯しているようで不愉快だった。

 

 だからこそ、縊鬼は怒りと焦燥を覚える。今すぐに止めなければならない、と。

 

 ──オ前モ首ヲ縊レ

 

 瘴気を込めた縊鬼の長い腕が辰巳の首に伸ばされる。その手に首を掴まれれば、ジワジワと瘴気が魂を侵食してゆき、生命の輝きは色褪せることになるだろう。

 

 しかし──

 

 辰巳は亡者の如く掴みかかろうと伸ばされた腕を苦もなく躱し、逆に縊鬼の襟元を掴みあげると、その捨て身の勢いを活かしたまま三度地面に叩きつけた。

 

『ガァッア゛ア゛……!』

「ホレ、さっきまでの威勢はどうした」

 

 叩きつけられたまま、恨みのこもった形相で眼前の男に向き直る。しかし、そんな縊鬼の負の感情による威圧は辰巳には全く通じていない。縊鬼を見下ろすその眼は凪のように静かで、かつ戦士の如き冷徹な色を宿しており、視線は縊鬼の姿を捉えて離さなかった。

 

『グウウゥゥ……! ゴ……ノォ、人間ゴトキガァ……今スグ殺シテヤル゛ゥッ……!!』

「おいおい、人を殺すだのと簡単に言うんじゃない」

 

 追撃として放たれた顔面目掛けての下段突き。辰巳の拳が顔面へと突き刺さる。

 

『ア゛ア゛ア゛ッ……! 許サン゛……! 許サン゛……! ユ゛ルサヌ゛ゥウウッ』

「うるせぇ……お前が許さないからなんだって言うんだよ……」

 

 辰巳はそう挑発して見せたが、内心ではあまりの手ごたえの無さに落胆していた。ここには異界の戦場にはあった魂が掻き消されるような危機感もなければ、血が沸き立つような興奮も無い。

 

 始めにあった戦いに対する期待感はいつの間にか消え失せていた。これではただの弱い者いじめだ。サンドバックを叩くのと同じであり、少しは暴れられると期待していたのに消化不良でしかない。取り合えず、黙らせる為にもう一発顔面に拳を叩き込んだ。

 

『ウグゥッ……!』

「おい、もう終わりか? なら、今度は俺からだ」

『ナ……ナニヲ……』

「何って、俺のターンだ。手加減はする。気がねなく身体を動かせる折角の機会なんだ。少しくらいは、力出させてくれ」

 

 そう言って辰巳は拳に軽く霊力を込める。そして、どんどん圧縮しては詰め込んでゆく。軽くとは言いつつもそれは縊鬼から見れば気圧されるように大きく純度の高い霊力であった。それこそ──人から発せられたとは到底認められないほどの。

 

『ナ……ナンダ、ソレハ……バケモノ、カ……ヒィ゛ッ……ヤ゛メッ……!』

「フンッ……!」

 

 そんな軽い言葉とは裏腹に、その動作には兇器を躊躇い無く振り下ろすが如く一切の躊躇も容赦もない。

 

「ァ……ウア゛ア゛アァァアァァァ──」

 

 縊鬼を殴ろうと振り下ろされたそれは、霊体にも効きうる打撃だ。縊鬼が迫りくる拳に感じたのは途方も無い圧力であり、縊鬼は怪異として悪霊として、初めて糧である筈の人間に恐怖を感じて叫び声をあげた。

 

『ゴバア゛ア゛ッ……!』

 

 そして、それが縊鬼を打ち抜いた瞬間──叩きつけられた拳を中心として破壊的な衝撃が縊鬼の精神体に響き貫き……自らが敵う相手ではないと諦めたのだった。

 

 □

 

 存在ごと抹消することを意図したものではなかったとは言え、ただの一打、それだけで悪霊は明らかに戦意を喪失し、大人しく結衣の慰撫を受け入れて有るべき場所へと還っていった。心が折れたのだろう。

 

 他の縊鬼に祟られて亡くなった男性霊といえば、そちらはもっと素直に慰撫を受け入れ、結衣へと感謝するようにして向こうの世界へと渡っていった。最後の表情は苦しみから解放され、安らかなものであった。

 

 それらを見届けると、結衣は依頼人の女性とその夫に向き直る。

 

 その頃にはもう、神域の空気は通常のものに戻っていた。五月蝿いくらいに蝉の鳴き声が木霊し、青い空と遠くに大きな入道雲が見える。額に手で庇を作って空を見上げれば、太陽は頂点を過ぎたあたり。ジリジリと強い陽射しが肌を焼く一番暑い盛りだった。

 

 その変わりようは、先の体験が白昼夢や夢現だったのではないかと、自身の記憶を疑ってしまうほどだ。

 

「お疲れ様でした。これでお祓いは終わりです」

「なんだか想像してたお祓いとは全然違ったけど、凄かったわ……ねぇ?」

「あっ、あぁ……」

 

 興奮気味にそう話す依頼人の女性。そして一貫して呆然と未だ事態を飲み込めていない夫。霊が祓われ消えてゆく瞬間まで目撃したのだ。それはある種の精神的な衝撃を齎していた。強固な価値観に風穴をブチ開けたせいとも言う。

 

「霊障の元は断ちましたので、これで変な事はそうそう起こらないと思われますよ」

「ありがとうございました! 思わず舞に見入っちゃってましたけど、本当に幽霊っていたのねぇ……巫女さんって、すごいのねぇ……」

 

 先程までの雰囲気が嘘だったかのように依頼人は快活に話しかけてくる。その顔には心からの晴れやかなものが浮かんでいた。

 

「こちらこそ、無事に終わって安堵いたしました。縊鬼は本当に危険な悪鬼。そのまま放っておいたのなら、どうなっていたか……」

「……わ、私は現実をどう受け止めたらいいか、まだわからない……ただ、今まで感じていた心のつかえが取れたように感じる……だから……一応、礼は言っておく……ありがとう……」

「ふふ、それはようございました。お二方の生活がこれで益々順風満帆なものとなるように願っております」

「あらまぁ、ありがとうね神楽木さん」

「あぁそれと……今はまだ家全体の運気が下がっています。これから運気は上向くでしょうが、また良くない何かが入り込むことも考えられなくはありません。そのような事は無いに越したことはありませんから」

 

 ですので、これをお持ち下さい、と女性が手渡されたのは八杜神社の神札。神社の宮司が祈祷したものらしく、それに合わせて神社の祭神である神様のことや、神札の取り扱いについて説明していた。所謂、新たな信者を確保するための活動の一環ということだろう。

 

 その様子を傍で見ていた辰巳は商売上手だなぁ……と思ったのだった。

 

 □

 

 そうして、結衣が依頼人夫婦が帰ってゆくのを見送り終えると、結衣は改めて感謝の気持ちを辰巳に伝えた。

 

「石動くんも今日はありがとう」

「いやぁ……神楽木さんなら俺がいなくても、どうとでも出来たでしょ?」

「そんなことないよ、手助けして貰える人がいると安心感が違うもん!」

「そう?」

 

 辰巳は結衣の祓の実力を察して、自分は不要なのではないかと苦笑したが、結衣の言葉は本心だ。足手まといになることもなく、協力し合える人というのはこの業界、本当に貴重なのだから。それを裏付けるように結衣は沢山の感情の入り混じった、はにかむような微笑みを浮かべる。

 

「うん。だから本当にありがとう」

 

 結衣が言うと、辰巳は言葉に詰まりながらも、どういたしましてと返した。結衣の美しい微笑みに、照れ臭くなってポリポリと頬をかく。

 

「まぁでも、これくらいならいつでも力になるよ」

「ふふ……これからも、よろしくね。あっ、そうだ。これ今日のお礼。忘れる前に渡しちゃうね。はい、無駄遣いしないように」

 

 そう言ってお金の入った封筒を手渡す。

 

「はは、無駄遣いは出来ないからなぁ。大事に使うよ」

「ふふ、今回だけ特別に割り増しにしておいたから、大事に使わなきゃね。それとだけど、お財布持ってたら出して貰える?」

「えーっと、どうして?」

「ウチの御守もあげるから、失くさないようにお財布に入れておいて欲しくて。金運、恋愛、仕事、健康、何にでも効くから。肌身離さず持っててね」

「へぇ、神楽木さんが言うなら本当に効果ありそう。それじゃあ、有り難くいただこうかな」

 

 そうして長形40号の封筒を受け取り、財布代わりに使っている巾着袋の中に小さな袋型の御守も一緒に入れると、辰巳は結衣に笑顔を返したのだった。




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