月隠奇縁譚 〜魂祭りのマレビト、故郷に戻りて縁を復する〜   作:mimick

46 / 46
番外 民俗備忘録 異類婚姻(龍)

 

 ──静かだった。

 

 美鶴はいつ眠りに落ちたのかも分からないまま、目を閉じたまま深い闇の中を漂っていた。身体が重力を失っている。上も下も分からない。ただ、ふわふわと揺蕩っているような感覚だけがあった。

 

 全身を包んでいる何かは温かく、息苦しく感じることもない。むしろ心地よいくらいだ。息をする度に肺に水が入ってくる感覚もなく、ただ静かに、柔らかな水流に身を任せている。それはまるで母胎で微睡む赤子のように……

 

 ふと、ゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに青い世界が広がっていた。

 

 透き通った水。揺らめく光。遥か頭上には水面があり、そこから光が幾筋も降り注いでいる。光の帯が水中でゆらゆらと揺れ、まるで生き物のように棚引いていた。

 

 水底は白い砂、奥行きはどこまでも遠く果てが無い。どこか現実感の薄い、美しい光景。

 

「……ここ……」

 

 声を出すと、水中なのに言葉がちゃんと響いた。不思議だった。これは夢なのか、それとも──

 

 そのとき、美鶴の意識の奥で、微かな記憶が蘇った。ここに来たことがある。何度も。いつも同じように水の中を揺蕩って、そして──

 

「──美鶴」

 

 その声が聞こえた瞬間、美鶴の心臓が跳ねた。

 

 知っている。この声を、知っている。ゆっくりと振り向くと、そこには少年がいた。

 

 白銀の髪が、水流のようにに揺れている。月光を吸い込んだような髪は、まるで生きた銀糸のように煌めいていた。そして、その瞳──深い、深い蒼。湖の底よりも深く、空よりも深い色。

 

 美鶴は、その名を口にしていた。

 

「……あお」

 

 自然と、その名が零れた。古くからの友達。夢の中でだけ会える、美鶴の一番の友達。少年──早秋津淵青主は、静かに微笑んだ。

 

「よく来たな」

 

 その声は透き通り、それでいてしっかりと美鶴の耳に柔らかく届いた。アオが手を差し伸べると、美鶴の身体がふわりと引き寄せられる。水の抵抗も何もない。まるで目に見えない糸で繋がれ、手繰られるかのように、二人の距離が縮まる。

 

「ここ……どこ?」

 

 美鶴が問うと、アオは水面を見上げた。水面から射す光が、彼の横顔を照らしている。

 

「忘れたのか? 夢の淵だ」

「ゆめの……ふち?」

「ああ。其方と私が繋がる場所。其方が眠るとき、時々ここに来るだろう」

 

 そうだ覚えている。夢の中でアオと会っていたのだったと。美鶴はぼんやり思い出した。

 

「……思い出したよ」

 

 アオは頷いた。

 

「其方はここに来る度、私と話しているだろうに」

「……そうだったね」

 

 美鶴は周囲を見渡した。青い水、揺らめく光、静寂。どこまでも穏やかで、時間が止まっているような空間。

 

「……今日は其方の身内に心配をかけてしまった」

 

 アオの沈むような声に、美鶴は彼を見た。アオは少しだけ困ったように笑っていた。

 

「私が其方を家から連れ出したせいで、皆が騒いだのだ」

「そうなの?」

「あぁ」

「でも、私何も覚えてないよ?」

「其方は眠っていたからな。まだ子どもだということを忘れていた」

「私、子どもだよ? アオ、変なの」

 

 少年がその言葉に苦笑した。

 

「アオが助けてくれたから。繭子ちゃん、助かったんだよね?」

「……ああ」

「助けてくれて、ありがとうね」

 

 美鶴が微笑むと、少年は目を細めた。その表情には、優しさと、そして──どこか翳りのようなものが混じっている。

 

「礼には及ばぬ。其方が願ったのだ。それに応えただけのこと」

「でも……どうしてアオは私に良くしてくれるの?」

「……それは、美鶴が大事だから」

「大事……友だちだからってこと?」

 

 その言葉に、少年の表情が一瞬だけ揺らいだ。

 

 微かに、本当に微かに、その蒼い瞳に何かが過ぎった。悲しみか、それとも諦めか──美鶴には判別できない、複雑な色。でも、それはすぐに消えた。アオは穏やかに微笑むと、美鶴の頭にそっと手を置く。

 

「──ああ。友だからだ」

 

 その声は優しかった。でも、どこか無理をしているような。美鶴は首を傾げた。何かが引っかかる。でも、それが何なのか分からない。

 

「アオ……?」

「なんでもない」

 

 少年は美鶴の頭を撫でた。白い指先。人ではない美しさ。でも不思議と温かく感じられる。

 

「……少しだけ、其方に見せたいものがある。いいだろうか?」

「見せたいもの……?」

「ああ。其方が──いや、私たちが、どういう存在なのか」

 

 少年はそう言って、手でお椀の形を作る。すると、そこに気泡が生まれた。美鶴がそれを覗くと、気泡の中に微かな光が揺らめいているのが見えた。

 

「……それは?」

「過去だ」

 

 少年の声が、静かに水に溶けた。

 

「其方と私の、遠い昔の記憶」

 

 そして──気泡が、強い光と共に弾けた。

 

 □

 

 反射的に閉じた目をゆっくりと開く──再び目を開けたとき、景色は一変していた。

 

 そこはもう、明るい水の底ではなかった。美鶴は地面に立っていた。足下には柔らかな草。頬を撫でるのは夜風。空を見上げれば、満点の星空に満月が煌々と輝いている。

 

「……ここは……」

 

 周囲を見渡すと、そこは見慣れない草原だった。木々は存在せず、草原の中に池が疎らに存在している。風で葉の擦れる音。遠くで正体不明の鳥が鳴いた。美鶴は気づく事はなかったが、そこは月隠山の湿原を模していた。

 

 そして、目の前には──大きな水鏡の池がある。

 

 静かな水面が、鏡のように月を映している。その畔に、二つの人影が見える。

 

 椅子に座る女性と、側に立つ青年。二人は現代的ではない、随分と古めかしい格好をしていた。

 

 しかし、それよりも──美鶴は女性を見て息を呑んだ。女性は美鶴よりも明らかに年上。二十代だろうか。長い黒髪が風に揺れ、月光に照らされた横顔は──美鶴とよく似ていた。いや、似ているというよりも、それはまるで──

 

「……私と同じ……?」

 

 美鶴が成長すれば、その助成のようになるような……そんな予感がした。その女性の瞳には、今の美鶴にはない深い哀しみが宿っていた。諦念と、それでいて切ない想いを湛えた瞳。そして、その隣に立つ青年は──

 

「……アオ……」

 

 美鶴の知る少年のようだった。そして彼も、今よりも大人びて見える。だけど表情は同じ。姿だけが変わって、中身は全く同じだと感じた。まるで、女性に合わせて姿を変えているように。

 

 美鶴は二人に近づこうとした。でも、足が動かない。まるで自分が映画の観客になったかのように、その場に縛られている。美鶴はただ見ていることしかできなかった。

 

 ──これは、記憶なのだ。池のほとりで、女性と青年が向かい合っている場面の。

 

「……もう、いってしまうのか」

「……うん。もう時間がないみたい。元々長くないって言われてたから……」

 

 青年が震える声で問い、女性は疲労の濃い表情で微笑んだ。青年の拳が、ぎゅっと握られた。

 

「だから、これは死の間際に見る最後の夢」

「まだ、早過ぎるだろう。人としても……もう少し、もう少しだけ共にいられれば……」

「ごめんね」

 

 女性の声が途切れた。彼女は唇を噛み、俯く。美鶴の胸が訳も分からず、ぎゅっと締め付けられた。病──この女性は、もうすぐ死ぬのだ。青年は女性の手を取った。その手に力はない。

 

「……またいつか、巡り会うのかな?」

「巡り会うさ」

「……本当に?」

「あぁ。だって──」

 

 青年は、女性を抱きしめた。強く、強く。まるで離したくないとでも言うように。女性もまた、その胸に顔を埋める。

 

「……何度生まれ変わろうと」

 

 抱きしめたまま、青年が女性に囁いた。

 

「私は、其方を探し出す」

「……うん」

「どれだけ時が流れようと、どれだけ遠く離れようと──必ず見つけ出して縁を手繰ろう」

 

 青年の声音に女性が震えた。その震えは歓喜によるものか、それとも深い執着への恐れによるものか。

 

「でも……辛いでしょ? だから、私のこと、もう忘れてもいいんだよ」

「何を言う」

「私が死んだら、私のことはもう忘れて。そして、幸せになって」

「……馬鹿を言うな。其方を忘れるくらいなら、私は──」

「だめ」

 

 女性は首を横に振った。

 

「あなたは、ずっと生きるんでしょ? 人よりもずっとずっと長く」

「……ああ」

「なら、そろそろ私を忘れなきゃ苦しいだけだよ。同じ、龍の番でも見つけた方があなたのため」

 

 青年は、何も言えなかった。ただ、子どものように唇を噛み締める。その様子を見て女性は、仕方ないといった様子で青年の頬にそっと手を添えた。

 

「……でもね、もしも──もしも番が見つからないまま、生まれ変わった来世の私に会えたなら」

「……」

「その時は、また仲良くしてね」

「……美鶴……」

「恋人じゃなくてもいい。友達でも、知り合いでも。どんな関係でもいいから」

 

 女性──前世の美鶴は微笑んだ。青年は、もう言葉にならなかった。ただ、美鶴を抱きしめる腕に力を込める。そして──

 

 夢の終わりを告げるかのように、美鶴の身体が光となって解けてゆく。

 

「……あ……」

 

 青年が声を上げた。美鶴の身体が、崩れていく。輪郭を失い、まるで風化するように消えかけている。

 

「待て……! 美鶴……!」

 

 青年が叫ぶ。それでも、美鶴の身体の流出は止まらない。光がどんどん溢れ、その姿を消し去ってゆく。美鶴は、最後に微笑んだ。

 

「──私も、龍ならよかったのにね」

 

 そして──光は世界に溶けてゆき……青年の腕の中には、もう何も残っていなかった。

 

「美鶴ッ……!!」

 

 青年の慟哭が、夢の中に響き渡った。月が静かに独り残された青年を照らしている。池の水面が、さざ波ひとつ立てずに、ただ月を映していた。

 

 ──美鶴は気づけば、また明るい水の底に戻っていた。

 

 アオが静かに美鶴を見つめており……美鶴は自分の頬が濡れていることに気づいた。涙だ。でも、夢とはいえ水の中だからか、それが涙なのか、気のせいなのかは分からなかった。

 

「……今のは……」

 

 美鶴の声が震えた。アオは静かに答える。

 

「其方の、前の生だ」

「……前の、生……」

「ああ。其方はあの時死んだ。病だった。そして──生まれ変わった」

 

 美鶴は呆然とアオを見た。

 

「……あの人、私と同じ名前……」

「ああ。其方は何度生まれ変わろうと同じ名を持つ」

「……どうして?」

「分からぬ。だが、魂が名を覚えているのだろう。其方の魂は、いつも『美鶴』として生まれてくる」

「私……前も、アオと出会って……」

「ああ──いや……何度も、だ」

 

 アオは頷き、すぐに訂正した。美鶴の胸が、チクリと痛む。正体不明の痛み。

 

「生まれ変わるたびに、其方は私の元に辿り着く。私は其方を探してしまう。魂は引き合い、必ず出会う」

「……それって……」

「縁、というものだ」

 

 アオの声は、どこまでも静かだった。

 

「私たちの魂は、遙か昔に結ばれた。どれだけ時が流れようと、どれだけ離れようと──結ばれた縁は解けない」

 

 美鶴は、ふと自分の手を見た。小さな子どもの手。でも、この手は何度もアオに触れてきたのだろうか。前の生でも。もっと前の生でも。

 

「……私、何回、生まれ変わったの?」

「……数えきれぬ」

 

 アオは目を伏せた。

 

「十か、二十か。もっと多いかもしれぬ。私ももう覚えてはいない」

「……そんなに……」

 

 美鶴の声が、小さくなった。何度も、何度も。生まれて、死んで、また生まれて。そのたびにアオと出会い、そして──別れてきたのだ。

 

「……アオ、寂しかった?」

 

 その問いに、アオは驚いたよう美鶴を見つめた。

 

「……何故、そう思う?」

「だって……アオは、ずっと生きてるんでしょ? 私が死んでも、アオは生きてる」

「……ああ」

「なら……何度も、私とお別れしてきたんだよね」

 

 アオは何も言わなかった。ただ静かに美鶴を見つめている。美鶴はアオの手を取った。

 

「……ごめんね」

「……何故、其方が謝る」

「だって、アオをひとりにしちゃったから」

 

 その言葉にアオの瞳が僅かに揺れた。

 

「……其方は、いつも優しいな」

「……?」

「何度生まれ変わろうと、其方はいつもそう言う」

 

 アオは小さく笑った。どこか寂しげに。

 

「……独りにして、ごめんね、と」

 

 美鶴の胸が、ずきんと痛んだ。前の自分も、同じことを言ったのだろうか。そして、その度にアオは──何度も、同じ言葉を聞いてきたのだろうか。

 

「……私、前の私のこと、なにもおぼえてない」

 

 美鶴は、俯いた。

 

「アオのことも、アオとどんなことしたかも、全部わすれちゃってる」

「……ああ」

「それなのに……」

 

 美鶴は、アオを見上げた。

 

「アオは、ぜんぶおぼえてるんだよね?」

 

 アオは、静かに頷いた。

 

「……ああ。私は、忘れぬ」

「……つらくない?」

「……」

 

 アオは答えなかった。ただその蒼い瞳は深い湖の底のように沈んでいた。

 

 美鶴の小さな手が、アオの手をぎゅっと握った。少年の冷たい手に温かさが宿る。

 

「……前の私とアオは、どんな関係だったの?」

 

 その問いにアオは少しだけ躊躇った。逡巡し、やがて静かに答えた。

 

「……思い人だった」

「……思い人?」

「ああ。愛し合っていた」

 

 美鶴は目を丸くした。

 

「それって……こ、恋人……?」

「そうだ。其方は私を愛し、私も其方を愛した」

 

 美鶴の頬が、ほんのり赤くなる。恋人──大人の関係。まだ幼い美鶴には、その意味を完全には理解できない。でも、何となく、特別な繋がりだということは分かった。

 

「で、でも、今は友達だよ?」

 

 その言葉に、アオの表情がほんの少しだけ翳った気がした。

 

「ああ。友だ」

「……アオ?」

 

 美鶴は首を傾げた。アオの声がどこか寂しそうに聞こえたから。アオは美鶴の手を握り返した。

 

「……毎回、一から始まるのだ」

「……?」

「其方は生まれ変わるたび、記憶を失う。私のことも、私たちの関係も、何もかも忘れて──ただの『初めて会う他人』として、私の前に現れる」

 

 美鶴はアオの顔を見つめた。その蒼い瞳には深い孤独が滲んでいる。

 

「いつも其方は私を知らず、私だけは其方を知っている。其方は過去を思い出すことは決してなく……はじめで会った時には、平気な顔で友だちになろうと言う」

 

 だから、私は友になった──その言葉に美鶴は少しムッとした。仕方なく友だちになったのだと、そう言われた気がしたから。

 

「……じゃあ、アオはどうしたかったの?」

「……何?」

「私は友達が欲しいって言ったけど……アオは、やっぱりその……恋人とか、そういうのがよかったの?」

 

 その問いに、アオは目を瞬かせた。

 

「……いや、友であることに不満はない。私が美鶴を愛していることには変わりない。それに、どの美鶴もいずれ恋人になるのだから」

「えぇ?」

 

 臆面も無く自信満々に言う少年の言葉に美鶴は唖然とした。なんとも強気な発言に呆れてしまう。

 

「……だが、別れだけは、どうしても慣れぬ」

 

 アオの威圧的にも聞こえる低い声に、美鶴は肩をビクリとさせた。そんな美鶴の様子に気づいたのかアオは水面を見上げて誤魔化した。頭上の水面で光が揺らめいている。

 

「……じゃあアオは……私との別れ、やっぱり寂しかったんだね」

 

 アオは少しだけ目を伏せた。

 

「……ああ、そうだ」

 

 その一言が、どれだけの重みを持っているのか。何度も何度も繰り返してきた別れ。そのたびにアオは独りになる。美鶴の胸が、また痛んだ。

 

「……ごめんね」

「謝らずともよい。其方が悪いわけではない」

「でも……」

 

 美鶴は、ぎゅっとアオの手を握りしめた。

 

「──じゃあ、私、龍になるよ。アオが寂しくないように」

「……な、何?」

「前の私が言ってたよね。私も龍だったら良かったのにって」

 

 アオが驚いたように美鶴を見た。美鶴は真剣な顔でアオを見上げる。

 

「だから、私も龍になればいいんだよ! 龍になれば、ずっと生きられるんでしょ? そしたらお別れしなくても、アオとずっと一緒にいられるようになるもん」

 

 子供らしい、まっすぐな宣言。

 

 アオは目を見開き、そして──ふっと、小さく笑った。それは今まで見たことのないような、泣きそうな笑みだった。

 

「……そう言われたのは初めてだ」

「え?」

「私も龍になれば寂しくないなどと言われたのは初めてだ」

 

 アオの蒼い瞳に、温かな光が宿る。

 

「……初めての展開だ。こんな時はどう答えたらいいのか……そうだ、なら私はこう答えよう──『ならば、共に生きて欲しい』と」

 

 ぎゅっと美鶴を抱きしめた。優しく、でもしっかりと。美鶴の頬が、ぽっと赤くなる。アオの手が、美鶴の後ろ髪を優しく撫でた。

 

「ありがとう、美鶴」

 

 アオの声がさっきまでの寂しげなものから少しだけ明るくなった気がした。美鶴はそのことが嬉しくなった。

 

 その時──ふわり、と体が浮くような感覚がした。

 

「……あれ?」

「夢の終わりが近いのだろう」

「……あお」

「ん?」

「また会える?」

 

 その問いに、アオは頷いた。

 

「あぁ」

「いつ?」

「いつでも」

 

 アオは水面を見上げた。光が強くなっている。

 

「会いたくなったのなら何時でも私の名前を呼ぶといい。其方と私は、そういう縁なのだから」

 

 美鶴の身体が、ふわりと浮き上がった。まるで水面に引き寄せられるように、ゆっくりと上昇していく。

 

「あ……」

 

 抱きとめていた腕が滑り、最後に二人の指先が離れた。

 

「……また、夢の中で」

 

 アオの声が遠くなる。光に包まれる中で、その言葉が最後に聞こえた。美鶴はアオの名を呼ぼうとした。でも声が出ない。光がどんどん強くなり、視界が真っ白に染まっていく。

 

 アオの姿が遠ざかる。水底に立つ少年の姿が、どんどん小さくなっていく。美鶴は必死に手を伸ばした。

 

 ──届かない。

 

 光に包まれる。

 

 意識が、浮上する。

 

 夢が、終わった。

 

 □

 

 美鶴が目を覚ましたのは、朝の光が部屋に差し込む頃だった。

 

 ゆっくりと瞼を開けると、見慣れた天井が見えた。ここは──祖母の家の一室だろう。

 

「……ん……」

 

 身体を起こすと、布団の上に掛けられていた打掛が滑り落ちた。赤い色鮮やかな布地が、朝日を浴びて煌めく。

 

「……これ……」

 

 美鶴は打掛を手に取った。何故か見覚えがある。夢の中で──いや、朧気な記憶、微睡みの中でアオが寒くないようにと自分に掛けてくれたもの。

 

 これだけは夢じゃなかった。本当にあったこと。

 

 美鶴は頬に手を当てた。そこで何かが触れた。指先に感じる冷たい感触。

 

「……なみだ……?」

 

 自分が泣いていたことに今気づいた。頬には涙の跡が残っている。なぜ泣いていたのか、美鶴自身にも分からない。悲しかったのか。嬉しかったのか。寂しかったのか。

 

 ただ──胸の奥には満たされたような、それでいて切ないような……不思議な感情が残っていた。

 

「……アオ……」

 

 小さく呟いた名前が、朝の空気に溶けていく。

 

 美鶴は打掛を胸に抱きしめた。温もりはもうない。でも、確かに隣にアオがいた証。夢の内容を思い出す。明るい水底での会話。そして──

 

「……私、何度もアオに会ってたんだ……」

 

 過去の記憶はない。でも、魂は覚えているということなのか。何度も生まれ変わって、何度もアオと出会って、そして──別れてきた。美鶴とアオが必ず巡り会うという話。

 

「……何度でも引き合う……」

 

 ふと、美鶴は窓の外を見た。朝日が優しく部屋の中を照らしている。新しい一日の始まり。前の自分がどうだったかは分からない。でも、今の自分は──アオとは友達。そう思っている。

 

「……次は、いつ会えるのかな……」

 

 そう呟いて美鶴は小さく首を傾げた。その時──また涙が一粒、頬を伝った。美鶴はそれに気づいて目を瞬かせる。

 

「……なんで、泣いてるんだろ……」

 

 悲しくはない。むしろ、温かい気持ちだ。

 

 でも、涙はポロポロと止まらない。

 

 それが何の涙なのか──

 

 悲しみなのか、安心なのか、予感なのか。

 

 美鶴自身にも、分からなかった。

 

 ただ、確かなことが一つだけあった。

 

 ──また、会える。

 

 それだけで、十分だった。

 

 美鶴は打掛を抱きしめたまま、静かに目を閉じた。

 

 頬を伝う涙が、朝日にきらめいていた。




ストックなくなりました~。3章は一先ずおわり。
次回は少しあくかも。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。