苦手な人は飛ばしてください。
扉は普段よりわずかに重かった。押し開ける瞬間、生じた隙間からひんやりした気が吹き込んできて風のせいと知る。長く続いた残暑の終わりも近いだろうか。
薄暗い正方形の部屋はスチールの無骨な二段ベッドが半分を占めた。圧迫されて残る床には小さな箪笥と、二人で使うには少し小さいちゃぶ台がある。
海に面した正面の窓からは東の空の暗い夕焼けが覗く。そこから吹き込む風が、青みがかった黒の長い髪をそよがせていた。
「おかえりー」
どこか気の抜けた響きと、風に乗る淀んだ甘いにおいが私を迎える。
姉はギプスのない片腕片足だけを使って立ち上がろうとして、私はそれを慌てて制した。荷物を下ろすよりも先に「ねえ、どうだった?」と声が弾む。
「星名提督、どんな人だった?」
「どうって」
目を輝かせて迫る姉の顔は私に自責の念を喚起して止まず、キッチンの暗闇へ逃げ込み誤魔化した。
あの人をどう形容すればいいだろう。鮮烈な演説で見せた熱っぽい様と、その後の軍議で明らかになった狡猾さ。私たち艦娘への強すぎる想いもよく見えたが、目にすることができたのはあくまで余所行きの振る舞い、外や敵への態度だった。
姉が求めているであろうブルネイでの人物像は、まったく掴み切れていない。
「……まあ、良い人だと思う」
それでも、たったひと月で麾下の三人に心から慕われるのだからそうなのだろう。手紙の記述もきっと本当のことだ。
グラスに貯めた水を飲み干す。議場の熱から解き放たれた今、素直に認めることができた。思えばあの時の私の感情の流れはどうかしていた。
「やっぱり! 阿賀野絶対そうだと思ってたんだぁ。うちで一番しっかり者の能代がベタ褒めなんだもん」
ちゃぶ台の向かいに腰を下ろした私の前で、にこにこ顔の姉は嬉しそうに頭を揺らす。魑魅魍魎集う軍議で澱のように積もった毒気が、栓をなくした桶底の水の如く抜けていく。手紙の件もあって数日張り続けていた気がやっと緩んでいく。
「やーはぎ」と自由な腕をぱたぱた仰がせる姉の元へ膝ですり寄ると、その腕が私の首にかかり、ぐっと胸元に捕獲された。骨のかたい感触、汗と肌の匂いが私を包む。照れ隠しの抗議も「えー?」と聞き入れてもらえず、姉はからからと高い声で笑った。
「いいじゃない、こんな嬉しいの久しぶりなんだもん。ほらほら、こちょこちょー」
「やめっ、ちょっ……んもう! 卑怯よ」
私の脇腹を器用に這う五指を手首から捕らえ、胸の中で顔を上げる。暗闇に紛れて見えにくいが、左眉の薄いガーゼに赤い染みが滲んでいた。穏やかな心地が一瞬にして吹き飛び、慌て抜け出して救急箱を手元に寄せる。ガーゼもテープも残りは心もとなかった。
ガーゼ越しに端切れを押し当てて止血する。やっと気づいた姉はふわふわとした調子のまま言った。
「心配性なんだから。これくらい何でもないのに。嬉しすぎてちょっぴり傷が開いただけだってば」
「ガーゼと一緒に血が固まっちゃったら、交換のときに治りかけの部分が引っ張られて全部開いちゃうじゃない」
えー、とか、そっかー、とか言いながら、姉は私のなすがままになる。「かゆいしこっちも取っていい?」と眼帯を爪で掻くので慌ててやめさせた。どれも深刻さを慰める姉なりの気遣いと知っているから、私は曖昧に笑って処置を進めることしかできない。
星名提督のもとでならもっとましな治療を受けられただろうか。入渠施設を満足に使わせてもらえて、滋養のある食事を十分にとって、そうして回復したら、意義ある作戦に能代姉と参加して……。
軍議でのブルネイの艦娘の表情は常に張りつめて険しいものだった。けれどあの瞳の炎こそ紛れもない生の発露だ。以前の川内さんはあんな目をしていなかった。
東の空の紺色は濃くなり、二人だけの部屋は影絵のような色使いの中に沈み込む。
私もブルネイでなら、死なない理由ではなく、生きる意味を見つけられるだろうか。
阿賀野姉と一緒に、あの人のもとで力になれたのなら――。
「矢矧がそんなに言うなんてよっぽどの人だったのね」
あたたかなミルクを想起させる柔らかい笑みだった。言葉に出ていたのが恥ずかしくて慌てて繕おうとするも、彼女は私の頭を撫でて黙らせる。
「いいのいいの、お姉ちゃん全部分かってるから」
痩せた指が私の髪を梳いて、耳、うなじと優しく滑り降りていく。
「ねえ」
「なあに?」
「能代姉は、きっと生きてるわ」
確かめようのない期待を持たせる覚悟と共に口を開いた。痩せた身体が食い込むまで抱き締める。
「証拠もないし、直接聞けてもいないけど……」
「そっかぁ、そんなになんだ」
返事の声音に驚きは、しかし微塵も含まれていなかった。困惑していると今度は向こうからの力が強まる。
「なぁに、矢矧。不思議そうな顔しちゃって。どうしたのかな?」
「だって今朝までずっと、その、能代姉のこと……無理してたじゃない。どうしたって聞きたいのはこっちよ」
「えー? 気になる? 気になっちゃう? それ気になっちゃうんだ?」
甘やかすような態度は一転して、こちらを小馬鹿にする声のトーンと焦らす口ぶりだった。にやにやという意地悪な笑みが暗闇の中にありありと想像できる。ずいぶんと久しぶりの懐かしい調子だった。
しかし感慨に耽るのもつかの間で、「教えてほしいんだ? えーでもなぁ、どうしよっかなぁ?」とかひとりできゃっきゃする様子にデコピンしたい衝動が段々湧き上がってくる。言いたいならさっさと言えばいいのに。
ふふん、と気取った鼻声を出した姉は「実はねぇ」とようやく事情を明かす……と見せかけて、「その前に電気点けよっか」と肩透かしを繰り出す。
耐えかねた私が昔のように叱りつけようとした時、くぐもったベルの音が聞こえた。寮廊下の内線電話だ。ベルはすぐに収まり、ややあってドア越しに艦娘の声が響いた。
「矢矧さん、司令がお呼びです」
「わかった。すぐ行くわ」
汚泥のような現実に引き戻される。私は浮上の長いため息をついた。今さら何の用だろう。
「懇親会の関係じゃない。今日でしょ?」
「ああ、そうかも」
今日の軍議に参加した将官や官僚のいくらかは、ここ横須賀鎮守府に宿泊する。一週間前から内地を楽しむ者もいれば式典当日の今日だけ泊まる者もあり、滞在日数はそれぞれだが、誰にとっても滞在の最後となる今日には懇親会が予定されていた。
口数少なに身支度を整える。料理にはいくらか余りも出るだろう。少しでも姉の傷ついた心と身体を癒す滋養になればいい。そんな思いを込めて私は言った。
「精のつくものを持って帰ってくるから」
けれど、暗闇に沈む姉は何も答えなかった。何かを握りしめるような衣擦れの音が聞こえたきり、耳の痛くなるような静寂が満ちる。
私はようやく失言を悟った。傷つき満足に動くこともできず、妹にはみすぼらしい真似をさせている。その惨めな現実を突きつけてしまったのだ。
「……ありがとう。ごめんね」
心臓を掴まれたようになって身体の動きが止まる。視線を切った姉の暗闇のほうから「ねえ」とか細く聞こえた。
「やっぱり私、帰ってこないほうがよかったかな」
「冗談でもそんなこと言わないで!」
返事はなく、私の激しい息遣いだけが部屋に響く。逃げるように開けた玄関扉から廊下の明かりが差し込んだ。
整えた息で「行ってくる」と振り返ると、眩しそうに右目を細めて微笑む阿賀野姉と目が合った。
「いいのよ、私のことは気にしないで」
「だめ。阿賀野姉、ろくに食べてないでしょう」
二人ともが会話を噛み合わせようとしなかった。
彼女は突然に立ち上がろうとして、私は慌てて懐に飛び込んで身体を支えた。姉は私の手に一枚の紙片を握り込ませ、「矢矧のしたいようにしなさい」とそっと言う。
「私はひとりでも大丈夫。阿賀野、矢矧のお姉ちゃんなのよ。だから気にしないで、ね?」
そのままどれくらい硬直していたか分からない。たぶん私は、上手く笑えたと思う。
「なるべくすぐに戻るから」
手の中の紙をしまい込み、それだけ言って扉を閉じる。
何もかもが色褪せたこの鎮守府で、ずっと二人で生きてきた。
それなのにどうして、私が彼女を見捨てられるだろう。
◇
「今晩、お前も海に出ろ」
扉を後ろ手に閉めた瞬間、そう声がかかった。
広々とした床のすべてに敷き詰められた臙脂の絨毯を踏み、磨き上げられたマホガニーの執務机へ歩み出る。すれ違った来客用のソファの後ろには黒檀の大きな本棚と、過日の将軍たちの肖像があった。
高い天井まで抜ける正面の窓には臙脂のカーテンが悠々と掛かって、机に向かって右脇には大きな軍艦旗が、左脇には中の見えないワインセラーが鎮座している。
机の真横の壁沿いには、黒檀の飾り台に乗せられた巨大な軍艦の模型があった。全長は一メートルもあるだろうか。埃一つなく完璧に磨き上げられたその鋼鉄の城は、まるで今も生きているかのように部屋の全てを睥睨していた。
「艤装の修復完了はまだ先だったと記憶していますが」
革と紙と、葉巻のかさついた匂いがする。天井司令は書類から顔を上げ、オールバックを撫でつけた。
「終わらせた。スービック泊地の復活を前にした今、この機を最大限利用する」
「しかし、当初の予定数で充分では」
「俺が必要だと判断したのだ。口答えする気か?」
「……いえ」
「分かったのならさっさと出撃しろ」
今夜の懇親会は三方の壁が天井までのガラス張りとなったホール『水交の間』で催される。かつて海軍士官の社交場であった水交社の名を持つそのホールは湾に突き出すように築かれており、内側からは鎮守府正面の海をよく見渡せる。
天井司令の言う出撃とは、この会場の護衛を指した。
世界を脅かす絶対の恐怖、深海棲艦。それに対抗できる唯一の存在に厚く守られながら、ガラス一枚隔てた場所で開かれる宴――。
すぐ目の前で、人類最強の戦力が自分たちのためだけに盾となっている。会場の光に照らし出される艦娘の姿がもたらす絶対の安心感と、『自分は守られる側の特別な人間なのだ』という強烈な優越感。それこそが、この夜会が参加者に与える最高の体験であり、究極の快楽だった。
故にここ横須賀の夜会に招かれることは、今の日本において知られざる、しかし最高のステータスとされている。
要するに、私たちを見世物にした悪趣味な遊びだった。
当然、護衛する艦娘の数と質に応じて会の格も上がる。普段は私を出し渋るから、今夜のそれにはよほど力を入れていることがうかがえた。
「重要な機会であればこそ、負傷者を治療し、護衛の艦を増やすのはいかがでしょうか」
「それはお前の同型艦のことを言っているのか」
逡巡もなく見抜かれる。私は震えそうになる唇を堪えて続けた。
「どうか、阿賀野に入渠施設を使わせてください」
「波の柱にすらなれん物に価値はない」
「でしたら、次の出撃後、私の入渠はいりません。代わりに阿賀野を――」
「却下だ。出来損ないの兵器に充てる資材はないと言っている」
深く腰を折ってさらに具申するも、天井司令は「くどい」と一刀両断した。
「限られたリソースは、次の戦果を期待できる有用な戦力のためにのみ使われるべきだ。例えばお前のような」
彼は心底楽しそうに口端を吊り上げて言い放つ。こんなところで評価されても何も嬉しくなかった。
なおも引き下がらない私の様子を疎ましく思ってか、司令は立ち上がって私のすぐ横まで回り込む。
「復帰した暁には必ずや戦力になります。阿賀野は私よりもずっと聡くて強くて優秀なんです。だからどうか――っ!?」
右足に燃えるような痛みが走る。私は床に転がった。すぐ前に踊る革靴に、足の甲を踏み砕かれたのだと知った。
「思い上がるなよ。俺の方が詳しく知っている」
目の前の靴が踵を返す。彼の長い息のあと、地面を這う葉巻の苦い香りが強烈に漂ってきた。
「あのブルネイの艦娘は苛つかせたが、お前もなかなか主人思いじゃないか。少しは気が晴れた」
ようやく痛みがピークを過ぎ、痺れる側に体重をかけないよう立ち上がる。席の天井司令は艦娘にとって屈辱でしかない
ブルネイの眩しさを見たあとだからいつもに増して辛い。議場で私と同じように顔を伏せていた艦娘たちを思う。他の鎮守府の子もこんな扱いを受けているのだろうか。横須賀が特段ひどいならまだ救いはあった。あるいは、ここが一番ましだったら。
しかし結局のところ、どのような仕打ちを受けようが私たちはただ従うことしかできない。こうする以外にこの国を守る術を、私たちは持たない。
提督を持たない艦娘はその力の三割も発揮できず、そして私たちは戦うことしか知らない。艦娘をただの物として扱う彼だが、方々に根回しを行い、折衝を重ね、政治をし、この国を支えているのは紛れもない事実だった。私たちだけでは海も国も守れない。そんなどうしようもない現実を理解してしまっているからこそ耐えるしかない。
反逆などという考えは思い浮かべること自体が愚かだった。この国と、他鎮守府にいる全ての姉妹と仲間が人質に取られている。
仮にこの男への
それでも一線を超えそうになれば、待っているのは『性能試験送り』だ。
いつか聞いたが、人は何かを得る喜び以上に、何かを失うことを恐れるのだという。兵器扱いを受けながら、私も人の心を持っているのだと自嘲した。
降り注ぐ天井司令の理不尽に憤らなかった日はない。彼が阿賀野姉に命じたあの日、いっそ、と歯ぎしりさえした。
けれど『この国が滅びてしまえばいい』だなんて思えない。
なぜならそれは、かつて艦だった全ての私たちがその命を賭して守り抜こうとしたものだから。
誰もが終わりの見えない絶望の中に口を噤み、全ては仕方がないことだと歯を食いしばって耐えている。阿賀野姉のことも、他の子から見れば『仕方がないこと』に過ぎないに違いなかった。
コンコンコン、と几帳面なノックが三度鳴る。司令の許しに次いで扉が開いた。
「新しい泊地の話を聞きました。伯父さま、赴任の幹部にはぜひとも私を」
鼻息荒く乗り込んできたのは長官の姪、天井
「あのブルネイの司令は気に入りませんが、流れが向いた今が好機です。私が打って出ましょう」
「何も見えておらん若造が。貴様が口出しすることではない」
「なぜですか。ブルネイ単独であそこまでできたのです。多方面から戦線に圧力をかければ海域の大規模な奪還は間違いありません。攻勢をかけるべきです」
「お前は過去に学ぶということを知らないのか。それにあれは星名という司令官が異常なだけだ。どうも奴は尋常の提督ではない。今の海で貴様が戦果を挙げることなど不可能だろうよ」
すれ違い様、ぐっ、と喉の鳴るような音が聞こえた。俯く視界に彼女の長い黒髪が映り込む。下ばかり見ている私には知りようもないことだが、気の強そうなあの目元は吊り上がっているのだろうと思った。
「今の言葉で気が変わった。お前にはまだ早い。今日の適役をこなせ」
「適役、ですか」
無意味な一礼をして執務室を後にする。扉が閉まる間際、私たちに対する時の侮蔑にも似た声音が漏れ聞こえてきた。
「給仕でも顔つなぎくらいはできるだろう」
◇
部屋を出るとどっと感情が溢れ出した。ほんの少し歩いて、立っていられず壁にもたれかかる。
私の修復材を代わりに使う、という最後の手段も一切取り合ってもらえなかった。
寮でできる治療には限界がある。手をこまねいている内に姉が海に立てる日が来なくなってしまうかもしれない。それなのに私にはなにもできない。
廊下の絨毯の毛羽立ちに茫然と視線を投げかけるうちに、背中を預けたままずるずると頽れていた。さり、とかすかな音が服の中から鳴る。ポケットの中にあったのは、部屋を出る前に阿賀野姉から渡されたあの紙片だった。
打ちのめされた私は、二つ折りの小さな紙を縋るような気持ちで開く。
以前の手紙で語った私の確信は、今日、揺るぎない事実へと変わりました。
星名提督のもとで、この戦争は終わりを迎えます。
けれど私たちは弱く、提督の覚悟に報いる力は未だありません。超えなければならない壁はあまりに多く、七年の闇はそう易々と祓えない。
今はこの最前線に、志を同じくする仲間がひとりでも多く必要です。
だから、阿賀野姉、矢矧。
この手紙が届いているのなら、もう一度だけ夢を見てみませんか。
戦況を覆すには二人の力が必要です。私はあなたたちと、未来のために戦いたい。
二人の返事を待っています。
震える呼気が唇の隙間を抜けていく。指先に残るざらりとした紙の感触と、もたれる壁の冷たさだけが現実だった。
真面目な能代姉らしい実直な文面だった。紡がれる言葉のひとつひとつがあまりにも温かくて、眩しくて、今私がうずくまっているこの廊下とはまるで別の世界のことのようだ。
やはり、あの霞の頷きは真実だった。
星名提督は本当に、誰も沈めてなどいなかったのだ。
「よかった。ほんとに、よかった……っ」
便箋の染みがまたひとつ増える。阿賀野姉もこうして涙を流したのだろう。
能代姉の字をこれ以上滲ませてはならない。そう思うのに、涙は後から後から溢れて止まらない。
私は膝に顔を埋めた。きっと生まれて初めての、嬉しさによる涙だった。
ひとしきり泣いて落ち着いてから、私は何度も何度も、宝物のように嬉しく読み返した。手紙を通して能代姉に必要だと言われる度に、凍てついていた胸の奥が熱を取り戻し、膨らんで誇りにはち切れそうになった。
ブルネイには光がある。だがここはどうだ。どこまでも続く温度の無い廊下は、この凍土が如き横須賀鎮守府の全てを象徴しているようだった。空間には停滞した時間がただ飽和している。能代姉の手紙は、私たちの本当の居場所はここではないと示していた。
この場所で光を願うことは意味を成さない。座して待つだけでは何も変わらない。それならば、私たちが光の方へ行くしかない。
その時だった。長官室の扉の開く音がして、顔を弾かれて上げる。
私はひとつの覚悟を決めた。
突然開け放たれた扉に小さく肩を跳ねさせた澄実香秘書官を置いて、天井司令の正面へ大股で歩み寄る。温度の無い冷酷な視線を前に、私は決死の覚悟で口を開いた。
「司令。どうか私と阿賀野を、最前線に――ブルネイに行かせてください」
地に付くほど深く頭を下げる。立ち上がる気配があったが返事はない。今しかない沈黙に私は畳みかける。
「閣下らが海軍の風潮を解さぬ星名提督を厭う気持ちはよく分かります。しかしだからこそ、孤立するかの提督に今、司令が誰よりも先に支援すれば、星名提督は天井司令に一生頭が――」
風を切る音がすると同時、視界が強烈に揺れた。後頭部が灼けるように熱くなる。強い打擲だった。
けれど私は倒れない。ぐらりと揺れた身体を体幹で無理やり支え、なおも必死に頭を下げ続ける。
「……お願い、します」
司令の気配が私の横に回る。目の端に黒いものが映った瞬間、右足の甲を激痛が突き抜けた。食いしばった歯の隙間から息が漏れる。先と同じ場所を的確に踏み砕かれていた。
私が右足を庇って力を抜くのを待っていたかのようなタイミングで今度は肩が強烈に押された。吹き飛ばされたようになって成すすべなく床に崩れる。
「お前に意見を求めたことがあったか?」
絨毯に手を突いて見上げた視界に、凶悪な笑顔が映った。
「ただ俺に従え」
指先を強く踏みにじられて声が堪えられない。神経が多く通る箇所だから戦場の傷よりもよほど痛い。
元より成功を確信してなどいなかったが、それでもこの扱いは堪えた。
「なぜ道具が持ち主の手元を離れようとする。この出来損ないが。その口をつぐんで、少しは兵器らしくしたら、どうだっ!」
革靴が一度持ち上がって、勢いの乗った爪先が私の肋骨の下を突いた。身体の内側をむりやり穿るような不快な激痛が、ぐりぐりと私の神経に押し付けられる。私は司令の望み通りに声を失い、唾液でカーペットを濡らした。痛い、気持ち悪い、痛い。
「そんなにここを出たいのなら、阿賀野ともども舞鶴送りにしてやる。よかったな? おい」
激痛も一瞬忘れるほどに血の気が引いた。食い込む足にすがりついて立ち上がろうとする。けれど上手く力が入らない。
「それ、だけは……」
司令はふん、と鼻を強く鳴らし、私の腕を蹴るように振り払った。支えを失って床に倒れ込む。お腹の痛みがずっと引かない。内臓がかき混ぜられて変な位置に留まっているみたいだ。ずっと気持ち悪い。
「二度とその生意気な口を開くなよ。まったく嘆かわしい……。お前たちのような女が、どうして気高き艦の生まれ変わりであるものか」
司令の気配が遠ざかっていく。
かき集めた浅い呼吸の中で、私の心は醜悪なまでの安堵に満たされていた。『性能試験』に送られず済んで良かったと、まだここにいられるのだと、心の底から安堵してしまった。
脳裏に浮かぶ姉の無理な笑顔を、私の弱さが塗りつぶしていく。稚拙な覚悟はあっさりとそれに屈した。
――能代姉、返事を出せなくてごめんなさい。でも、私は大丈夫だから。きっと、阿賀野姉も大丈夫だって言ってくれる。
全ては仕方がないことなのだ。どのような仕打ちを受けようが、私たちはただ従うことしかできない。私たちはそうあるように仕組まれた、兵器なのだから。
だからせめて、星名提督。お願いだから、この長い夜を早く終わらせてください――。
「あ、あの、伯父様。なにも、ここまで……」
「馬鹿が。身の程を弁えない兵器の躾にはこれが一番だ」
「ですが……その、これは伯父様の重宝している戦力なのでしょう」
「例えば調子の悪いテレビは叩いて直す。入渠の必要は生じるが止むを得ん。こんな単純なことに至らぬとはお前も愚鈍だな」
でも、と澄実香秘書官の言い淀む声が聞こえる。
「そんな甘い調子ではすぐ下に見られるぞ。お前は女なのだからな。舐められたら終わりだと何度言えば分かる?」
「は、はい。そうですね……」
霞む視界に映る彼女の、酷く怯えた目つきだけがやけに鮮明だった。
ああ、どうして私たちは――。
次回、mp6
『悶絶長官専属調教師のほもと申します』