「『国を守る』。その言葉だけでは、この戦況は変わらない。中央がそうであるように、現状維持に甘んじるだけだ。私はそれを、正しいとは思わない」
”私たちの提督”が初めて着任した時を、私は一生忘れないだろう。
あの人の後だったから、期待せざるを得なかった。どんなに酷くてもあれが底だろうって皆で話していた。きっちり詰襟を着こなした新しい提督の姿を見て、何かが変わるんじゃないかって思った。
「はっきり言っておく。私が守りたいのは、この国ではない」
そんな希望は一瞬で砕け散った。
あ、もうこの鎮守府終わりだ、って。
国を守る気がないだなんて、職務放棄の宣言に聞こえた。
「私が目指すのは、戦争の終結だ。そして、その先にあるべき、本当の平和。真の護国というのは、そういうことだと考えている」
薄暗い食堂に居並んだ私たちの顔が上がる。埃っぽく淀んだ空気を祓うかのように、力強い語気が浸透していく。
新しい提督は私たちの顔を見渡して言った。
「私は、君たちの存在意義を無くすつもりでいる」
言葉は発されるたび、私たちに期待させたり、それを裏切ったりしてくる。この人は何を伝えたいんだろう。
私の隣では、いっとう聡い時雨姉さんが、提督の言葉に目を見開いて身を震わせていた。
つまりはどういうことだろう。私たちはもう用済みということだろうか。でも、それが護国とどう繋がるの?
「君たちが『艦娘』である必要のない世界。兵器というくびきから解放され、ただ人として生きられる世界。それを、一日も早く実現することこそが、私が自らに課した使命だ」
新しい提督は大真面目に語った。
論理が繋がったわずかな快感と共に、私は鼻で笑いそうになった。私たちがただの人になるなんて、ありえない。
ずっと道具としての扱いを受けてきたし、これからもそうだ。私たちは戦い続けるのだ。そのために生み出されたし、そういう生き方しか知らないのだ。こんな戦況じゃ戦う必要のない世界なんて永遠に来ないから、私たちは永遠に戦い続けるのだ。沈むまで、ずっと。
嘲笑のあとで私は不安になった。提督の使命とやらが上手くいかなかった時、矛先はきっと私たちに向く。提督がお腹から声を出すたび勝手に震える私の身体と、脚の痣が惨めだった。
ちらと周りを見回すと、時雨姉さんのように期待を込めているのが四分の一、残りは私のように冷めた目の子だ。
どうせまともな提督ではないけれど、あんな風に言うからには、せめて普通の人間と同じくらいは寝かせてほしい。優れた指揮も気遣いもいらない。私が提督とやらに求めるのはそれくらいだ。
「海を取り戻す。その一点において、私と君たちの目的は同じはずだ。せいぜい私を利用すればいい。君たちが自由を掴むための、道具として。道が続く限り、私は全力を尽くそう。――これからよろしく頼む」
新しい提督が腰を折る。道具が「利用しろ」と言われるとは、なんだか不思議な心地だった。
しばらく静寂がある。無数の呼吸の音だけが響く中、拍手の音がまばらに上がった。私は手を叩かなかった。
ありがとう、と言葉少なに体を戻した提督は、「早速だが」と工廠へ足早に向かった。火急の要件があるのだろうか。気になった私たちはふらふらと後に続いた。人だかりが一塊となって移動する。
列の後ろのほうだった私が着くころにはいくつかの大発動艇が完成していて、提督は「資源がゼロになっちゃったぞ」とかなんとか言っていた。前のほうの子たちの顔には血の気がない。あ、本当なんですね。私は意識が遠のきそうになった。
「大発動艇を載せられる者はいるか」
「はい」と朝潮さんが手を伸ばす。近くに荒潮さんたち八駆がいることを見て提督が言った。
「出撃準備だ」
茫然とした。えっ、と思った時にはもう航路の説明が始まっていて、朝潮さんたちの目がみるみる光を失っていく。
やっぱり口だけだった。結局あの人と同じ。もう終わりだ。鎮守府も私たちも、適当に使い潰されて終わる。横を見ると、さっきまで息を吹き返していたはずの時雨姉さんの目も濁っていた。
どうせすぐに自分の番が回ってくるとみんな分かっていたから、誰も抗議の声を上げなかったし、誰も代わろうとしなかった。
「ところで、なぜ集まっている。私はまだ仕事がある。君たちは楽にしてくれ」
死が内定した朝潮さんたちの前で言うにはあまりに心ない言葉だった。言い返す気力も湧かず踵を返す。戦いの終わりは、思いのほか早く訪れそうだ。
いざ工廠を出たものの、やることがない。私たちの生には資源集めの出撃とわずかな睡眠の二つしかなかった。周りの子も困惑したように立ち呆けている。
「楽にしてくれ」と言われたけれど、さすがに睡眠をとるのはまずいだろう。私はぼうっとする頭のまま、砂浜へ出た。
真っ白に輝く砂浜に波が寄せては消えていく。赤道近くの日差しは強烈で、私は手でひさしを作った。いつの間にか隣に時雨姉さんが三角座りをしていて、私も同じようにした。こんな時間を過ごすのはいつぶりだろう。
「期待するんじゃなかったよ」
「あんなのに一瞬でも期待するほうがどうかしてます、はい」
自嘲を込めて言うと、姉さんは「まったくだね」と息をついた。こけた頬を風が撫でる。穏やかだった。私たちはそれきり、ずっとそうしていた。
「あ」と姉さんが声を上げる。意識が焦点を結んで、遠くの砂浜の人影を映し出した。
「誰だろう」
影は立ったりかがんだりを繰り返しながら、辺りをうろうろしている。見ていると、その手に枝が増えていくのがわかった。
「集めてるんでしょうか」
「みたいだね。それにあの服、新しい提督じゃないかな」
意味が分からない。あの歳でおままごと? 笑いそうになったけれど、こうして時間を潰している姿をあの人に見られたら大変なことになる。我に返った私は姉さんを揺すり、慌てて場所を変えた。
私たちはそのまま鎮守府のまわりをぶらついた。たまに司令官室へ戻って新たな指令が下りていないか聞きに行ったが、そもそも提督が不在だった。ろくな提督ではないと思っていたけれど、これほどまでだなんて。
困惑のまま時間だけが過ぎていき、元の砂浜に戻るころ、海は夕日に燃えていた。そしてなぜか、砂浜でも焚火が燃えていた。
ふっと視線を感じる。火の傍らの提督だった。反射的に身をすくめて敬礼した。必死で言い訳を考える。周囲の警戒、いや、泊地防衛計画策定のための見回りのほうが――。
「春雨と時雨か。君たちもこっちへおいで。ご飯にしよう」
「はい、いいえ春雨は――はい?」
いっぱいいっぱいで気が回らなかったけれど、焚火の周りには提督だけでなく多くの艦娘が集っていた。どの子も無心でお皿の中身を頬張っている。
「最初はチャーハンのつもりだったんだが、卵が切れてしまったから卵抜きのチャーハン……ナシゴレンもどきだな」
そう言って提督は皿を寄越す。ニンニクとスパイスが混然一体となった、食欲をそそる少し甘い香りが立ち昇った。
もういつ振りかも分からない食事らしい食事だ。礼を言うのももどかしく、私は無心でむさぼった。あっという間に空になり、焚火にかざされた中華鍋を物惜しく見つめる。提督と視線が合い、どきりとした。
『兵器がわがままを言うな!』
ふうッ、と呼気が漏れた。動悸がしてくる。提督に対して要求なんてことをしたらどうなるか、私たちは何度も身をもって教え込まされた。
おかわり。自由にその言葉を口にできたのなら。水以外でお腹をいっぱいにするというのはどういう感覚なんだろう。おかわり。
「おいで」
提督が私を呼んでいた。声に出ていたのだ。ねっとりとした冷や汗が背中じゅうに噴き出す。もはやどうにもならず、断頭台へ歩みを進めた。
「春雨」
「はい」
目を瞑って沙汰を待つ。気配が近付いてくる。その瞬間を察知した全身が勝手に強張った。
ふわ、と両手が軽くなる。打擲を覚悟したがすぐにお皿が戻ってきた。重い。
「どうした? おかわりだぞ」
目を開くと、湯気を立てるいっぱいの焼きめしがあった。
「い、いいんですか」
「いいも悪いも」
はは、と提督は快活に笑った。横から時雨姉さんが皿をおずおず差し出すと、そちらにもたっぷりと焼きめしが盛られた。姉さんも信じられないようで、私たちはお皿を大事に抱えたまま突っ立った。
「いっぱい食べなさい」
その瞬間、よし、と言われた犬のように、私は食らいついた。二杯食べても飽き足らず、相手が上官ということも忘れ、無言で三杯、四杯と皿を突き出して要求した。
翌日の目覚めは、今までになくすっきりしていた。いかに空腹が精神を蝕むかを逆説的に知った私は怖くなる。いつもの生活に逆戻りしたなら耐えられないかもしれない。
鎮守府は早朝から騒々しかった。すれ違った能代さんに話を聞くと、朝潮さんたちがもうすぐ帰投するらしい。
信じられない。
ああいや、と思い直した。朝潮さんたちもやはり、沈むのが怖くてすごすご帰ってきたということだろう。臆病は笑えなかった。彼女は明らかに、すぐ未来の私だった。彼女たちを待つ『しつけ』にひたすら虚しさが募る。
埠頭に集まる艦娘の群れに加わると、やがて黎明の水平線に、薄ぼんやりとした四つの影が見え始めた。本当に第八駆逐隊の四人だ。近づくにつれて大騒ぎが起こった。シルエットがおかしいのだ。曳航される大発動艇の背はこんもりと膨らんで、あれではまるで……。
見計らったように提督が現れる。声は静まり、接岸に向けアプローチする朝潮さんたちへ、代わりの瞠目が向けられた。
「朝潮以下第八駆逐隊、帰投しました……」
燃料、弾薬、鋼材、ボーキサイト。曳航される大発動艇には資源が満載されていた。しかも四人は無傷である。満潮さんと大潮さんは真顔で口を半開きにし、朝潮さんと荒潮さんは言葉を失っている。埠頭の私たちも絶句していた。
「司令官、あなたはいったい……」
やっとの思いと言った様子で朝潮さんが口にする。提督はただ頷き、「君たちの成果だ」と肩を叩いた。いや、あなたのおかしい指示のせいですが……。
「すまんが、しばらくは頼りきりになる。荷を下ろしたら今日一日しっかり休んでくれ」
四人は条件反射で敬礼する。全身に困惑がみなぎっていた。当然だ。私たちだって何がなんだか分からない。
朝潮さんたちはドックへ向かう。私たちは、踵を返す提督の後ろに意味もなく続いた。少しでもこの人のことを知りたいと、きっと艦娘全員が思っていた。
提督はボイラー室に足を踏み入れ、燃料の残量を確認すると、給湯ラインを再始動させた。
「やっと風呂に入れてやれる」
肩をすくめる様子に私たちは反応できなかったので、白けたような雰囲気が漂った。提督は居心地悪そうに頬をかく。
まさかという思いがあった。
「入浴、してもいいのですか……?」
榛名さんが上目遣いでおずおずと切り出す。彼女はこの場にいる私たち全員の代弁者だった。
果たして提督は頷く。あの人の威嚇するような笑みとは違う、底なしの穏やかさだった。
「湯船もあるぞ」
すぐ横から誰かに抱き着かれて、私も抱き締め返した。体臭がにおったが些細なことだった。
「いい人なのかもですね」
久しぶりの湯船でそう零すと、白露姉さんは「どうかなあ」と言った。
「まだ分からないよ。最初は優しくしておこうって魂胆かも。油断しちゃだめだめ」
なんて言いながらも、姉さんの表情は緩みきっている。お風呂がよほど効いたらしい。
叶わぬ思いと知りながら、こんな生活がずっと続けばいいと願ってしまった。