あらすじ:
・提督が海域を解放した。
・本土で表彰と兵器派とのいざこざがあった。
・提督がブルネイに帰ってきた。
・藤田大将に戦力をおねだりしたら、欠陥品の大和が来た。
提督:
星名百々。略してほも君。
艦娘の好感度管理は完璧で、一分のガバもない。
藤田大将:
舞鶴鎮守府の司令官。
兵器派をまとめ上げることで艦娘を守っていた、擁護派の聖人。髪がない。
気持ちが悪い。
香辛料や脂、炊き立ての白米などの雑多な、いわば
浅い口呼吸の私は、食堂から部屋に戻ることを訴えようとして、けれど周りの艦娘たちが「大和さんも一緒に食べよ!」と取り巻いてくる。強く言い返すこともできない。意見するその資格が私にはない。
すぐ隣に並ぶ子が、「超美味しいから楽しみにしててね」と笑いかけてくる。お盆を抱えた私の呼吸は艦娘たちの列の中でどんどん浅くなっていく。
「やあ」
ブルネイの提督の声だった。私はもういっぱいいっぱいで、会釈くらいしかできない。
「今日は野菜あんかけ丼らしい。間宮の料理は絶品なんだ。楽しみだね」
「そ、そうなんですね」
退路が経たれていく。このままでは舞鶴の時の焼き直しだ。いっそう残すわけにはいかなくなったけれど、そもそも私には選択の余地が残されていない。
列が進む。
どうすればいい。どうしよう。
トイレで吐こうにも、吐くだけの量すら食べられない。こっそり机の下に捨てる? きっとすぐにばれる。それに、そんなことしたくない。
前の子が進む。横の子が進む。私も進まざるを得ない。
「どうした。食欲がないのかな?」
心臓が跳ねた。図星だった。
私は顔を振り向け、必死に声を出そうとしたけれど、つっかえたような喘ぎが上がるだけだ。何も口に入れていないうちから食べ物を拒もうとする喉がふさがったようになって、空気すら思うように入っていかない。
列が、また一歩進む。
私はご飯を食べられないし、食べるわけにはいかない。
でも、食べないといけない。
食べたらだめなのに、でも、食べなくちゃ。けど、食べたらだめだから……。でも、絶対に食べないと……。
機械的に身体を動かして進む。何も考えるな、と言い聞かせて。
けれどひと足ごとに匂いが濃密になって、私はついにえずいた。俯く私に突き刺さる無数の視線を想像し、恐怖する。
「大和、こっちへ来なさい」
驚くほど力強い手だった。半ば引きずられるようにして食堂を後にする。
提督が連れ出した先は建物のすぐ脇にある海辺だった。潮の匂いが私の内臓を落ち着かせてくれる。食べ物の匂いがしなくなって、私はようやく息ができるようになった。
舞鶴の海よりも、あそこの海よりも、この海は暗い。目の前に広がる暗黒は、まるで底なしの巨大な虚無が大口を開けている姿だ。
「君は、ご飯を食べられないんだね」
砂浜に腰を下ろした提督が、確信を持ってたずねてくる。
艦娘たちはやり過ごせてもブルネイの提督にはお見通しだったようだ。あるいは事前に藤田提督から連絡が行っていたのだろうか。私は「はい」と静かに頭を下げる。
「不良品で、すみません」
あの世界最大の戦艦・大和型が来ると聞いて、この提督もブルネイの彼女たちもたいそう期待をかけていただろう。やって来たのは私という粗大ごみだ。
夜風が襟元や袖から入り込んで、私の肌をひやりと撫でつける。鳥肌が立った。気温に対する単なる生理現象ではなくて、恐怖だった。
「詳しく聞かせてもらえるかな」
「わかってるんですっ!」
ブルネイの提督の言葉を遮って叫び出していた。私は自分自身に驚く。この期に及んで、まだ生きようとしているのか。
「たっ、食べなきゃって思ってるんですっ! 役に立たなきゃ価値がないのに、でも、私がっ、ご飯食べたら、よくないから」
勝手に言い訳が口から溢れた。大人しく最期の沙汰を待つべきなのに、勝手に泣きじゃくる自分を止められない。私の知る私ではないみたいだ。
「君に価値がない訳はないし、食べるのがいけない訳もない」
「価値がない訳ないって、それは、私が大和だからですか。大和型の一番艦だからですか。ならそれは、間違いです」
噛みしめた下唇が痛んだ。歯が震えるごとに強く食い込んで、私をいっそう惨めにする。
「私は大和じゃない。戦えないから」
提督はどういう訳か私の頭に手を添えて、髪の奥の冷え切った頭皮を溶かそうとするかのように、その手のひらから熱をたっぷりと伝えてくる。
「ここでは誰も君を責めはしない。君の好きにしたらいいんだよ」
初対面なのに、上官なのに、私は自分のみっともない姿を止められない。
「それで、さっきは?」
しゃくりあげて舌がもつれるのに、私の身体は必死で言葉を紡ぐ。まただ。また勝手に。
「皆と一緒に受け取りの列に並んじゃって。ご飯を受け取ったら私、食べなきゃいけなくて、でも食べられないから。配属初日にそっ、そんなことしたら、私、だめだから、私……」
「舞鶴の藤田大将のところではどうしていたのかな」
「藤田提督のところには先月異動になって、いろいろ試したんですが、水分以外は、た、食べられなくて」
私が答え、それきりブルネイの提督は黙り込んだ。
暴力があるわけでも、存在の無視がある訳でもない。いまだかつて体験したことのない嫌な沈黙だった。
ひたすら狂ったように寄せては返すさざ波の音が、私の頭の中で反響して、どんどん干渉して、共振し、大きく、莫大になっていく。莫大な波音。
莫大が、私の頭の中を殴りつけてくる。
うるさい。うるさい。
私は耳をふさいだ。鼓膜を破るような騒音は消えなかった。それは、私の心臓の音だった。
「あの、私、これからどうなるんですか」
そして私はその四文字をついに口にした。自分からそれを引き寄せるような真似だと知りつつも、肌がきしむほどの恐ろしさにもう我慢ができなかった。
「せっかく作った艤装を解体する理由はない。あるいは、まさか君自身を解体するとでも? ただの都市伝説だよ。人の身体を解体したから何だというんだ」
「あ、わ、えと、囮、ですか」
「すまない。少し静かに」
提督は私の頭に手を置いたまま言って黙り込む。明らかな思案の表情だ。
極めて合理的な人だと藤田提督からは聞いている。たったひとつのある目的のためにはあらゆることを厭わないだろう、とも。
いつどのように囮たる私を投入するのが最適か。頭の中では、そんな無数の計算が巡っているに違いなかった。
臆病な私はきっと頷けない。きっとまた勝手に言い訳が出てくる。言うことを聞かせるために私を殴るだろうか。想像も及ばないようなもっと恐ろしいやり方かもしれない。
「うん、よし」と提督は言い、立ち上がった。
「疲れただろう。今日は部屋に戻ってゆっくり休むといい。連れ出して悪かったね」
「……え?」
いいんですか。そう戸惑う私に「当たり前だ」と頷きを返し、ひとりそそくさと建物の方へ消えていく。私はそれを茫然と見送る。
涙の痕が渇く頃、艦娘のはしゃぐ声が砂浜に聞こえてきた。夜風に当たりにきたのだろう。私は身体を引きずるようにして自室へ向かった。
与えられた部屋は、人ひとりがただ起居するには広すぎた。床は畳ではなく安価そうなクリーム色の樹脂で覆われている。玄関の正面奥に窓があり、二階のここからは橙の明かりに照らされる工廠と滑走路の端の灰色がぼんやり見える。備え付けの布団が二組、座卓、座布団、箪笥、座布団、ハンガー四つ。舞鶴の前に照らすなら、布団ひとつに二人寝るから、四人部屋だ。キッチン、トイレ、浴室は共用だった。
持ち込んだ段ボールはひとつだけだ。中から下着類とジャージを取り出し、とりあえず箪笥の中に収める。たったそれだけで明日に向けた支度は終わってしまう。広い、とまた思った。私の身長で大の字に寝そべってもきっとまだ広々と余裕がある。実際に寝転がる意味はないから、ひたすらに時間と身体を持て余してぼうっと窓の外を眺めた。
「大和型戦艦一番艦、大和です! 第一線の主力として持てる火力のすべてを懸け、司令官の期待に粉骨砕身でお応えします!」
そう言って何も知らなかった頃の私の、なんと滑稽だったことだろう。
今や海はその多くを深海棲艦に侵された危機的状況にある。我が物顔で跳梁する外敵を打ち倒し、青い海を、平和な世を取り戻すのだ――。
胸を膨らませ着任した鎮守府が海域攻略に乗り出すことはなかった。
「撃ち過ぎ、ですか」
「貴重な軍需物資たる弾薬を浪費して、なんだその態度は」
「でも駆逐艦のような敵には当てるのが中々難しくて」
「それはお前自身のせいだろうが。練度が足りんのだ」
来る日も来る日も近海哨戒、たまに船団護衛。
海は侵されたといえど本土近海に敵の大型艦影を認めることはなく、我が方と交戦するのは水雷戦隊ばかり。
駆逐や巡洋クラスの僚艦たちが颯爽と敵の数を減らす一方でしかし、小回りの利かない私は逃げ回る敵の小さな体に砲を命中させることがまるで能わない。
副砲が当たらないから、当初の私は主砲を打ち放つことを好んだ。46cm砲は命中せずとも、弾頭が持つ莫大な運動エネルギーによって周囲の海面をえぐり取るように弾き飛ばすから、敵の小さな船体はそれに巻き込まれて大破ないし中破まで追い込むことができる。
鎮守府司令の叱責を受け、私は主砲を封印した。まだ扱い慣れない人間の身体と副砲の扱いを、要求される習熟度にまで高める必要があった。
「もう演習をするな」
「なぜですか。出撃ごとの消費弾薬量はわずかながら減ってきていて……」
「誤差だろう。やるだけ無駄というものだ。どうせ成果は見込めんのだからな」
身体の感覚を自分のものにするために空いた時間で身体を動かし、隙間時間には脳内でイメージトレーニングをして、艤装を操る精度の向上に努める。副砲は二十発に一発は当たるようになった。
同じ時期に新任の艦娘としてやってきた駆逐艦の子は、哨戒任務とたまの演習でめきめき力をつけていく。私はそれを指を咥えて見ていた。
この頃、戦場で言われることが増えた言葉がある。
相手が隙を見せた時だ。特に最後の一隻に止めを刺そうと砲を構えた時が多かった。
「あ、いいです。私がやるんで」
もったいないでしょ、と彼女たちは言う。もっともだった。私は「お願いね」とぎこちなく笑って標的を譲る。
彼女たちは大抵一発で仕留めた。同期のあの子も。
「いい加減、中央に報告できる戦果をあげろ。まったく、こんな愚図が大和とは信じられん。いっそ夢であってほしいものだ」
湯気を立てる大盛りの白米と味噌汁、鰯の南蛮漬けの乗るお盆を私が受け取った直後、食堂に通りがかった司令官が言った。言って聞かせるような大きな声に、広い食堂中の耳目が集まる。
「すみません」
「いいか、食糧も貴重な資源なのだ。分かるな? 道理だ」
司令官は焦らすような速度で歩み寄ってきて、私から南蛮漬けのお皿を取り上げる。後ろに待つ子のお盆へそれを乗せ、改めて私を見て言った。愉快そうな上機嫌の笑みだった。
「働かざる者食うべからず、だ」
すみません、と言って俯く。どこからか、くすくす、と笑い声が聞こえてくる。
実際、司令官の言う通りだと思った。この頃には、ただ海を守る誇りと希望に胸を膨らませていた着任当時の馬鹿な私に比べ現実が見えてきていた。
鎮守府の食事は一日朝晩の二回で、一汁一菜が基本だ。食堂のコップはひどく大きい。水で満腹感を得るためだった。私たちの誰もがそれにたっぷり水を入れて、食事ごと二杯も三杯もおかわりする。
太いシーレーンはほとんど全て寸断されて、食糧は内地での少ない生産に頼らざるを得ない。
国民が必死の思いで育て上げた作物や、危険を冒して出した船の漁獲物を、無駄にはできない。
翌日、私は司令官に今までの振る舞いを謝罪した。まさしくあなたの言う通りだったと。資源は合理的に分配すべきだと。
そして、これからは私の食事の量を控え目にするのはどうかと提案した。
私を視界に入れるだけで鬱陶しそうにする彼だったけれど、何の否定もせず頷いてくれた。私は司令官に認められたのだ。
悲しみも怒りも押し殺した甲斐があった。初めて本当の意味でこの鎮守府の一員になれた気がした。
その日の哨戒で、私はただ弾薬と燃料を浪費して帰ってきた。
厨房の中へ声を掛けようとする私に先んじて「特別メニュー」として差し出されたのは、小鉢に盛られたご飯と、めざし三匹、なにか野菜の切れ端の炒め物、味噌汁だった。
私は食堂の端で皆に背を向け、泣いていることがばれないように急いで食べる。
白い目で見られているのを背中にひしひしと感じた。
こんな恵まれた環境で戦果を挙げられないのも、軍需物資を浪費してしまうのも、他の誰でもない私自身のせい。それが苦しいほど悔しくて、腹立たしかった。
水を流し込み、歯を食いしばって逆流を堪える。
次はもっと、役に立ってみせる。
けれど、その決意が現実の成果をもたらすことは一度としてなかった。
「なぜ僚艦を庇うような真似をした」
「継戦能力の観点から愚考いたしました。艦隊でもっとも頑丈なのは私ですから。それならお役に立てると……」
珍しく大型艦の入った中規模艦隊と交戦し、これを退けた後の報告だった。
我が方にも中破が多く出た。私は囮のように振る舞い、何度か敵の攻撃から庇った。
これだ、と確信していた。私の役目はこれだ、と。
「貴様のあの図体だけ大きい艤装を直すのに、一体どれだけの費用と手間がかかると思っている。大戦艦・大和の艤装が損傷したまま放置してあるなど外聞が悪すぎるだろうが」
でも、違ったのだ。
彼女たちは私の庇い立てがなくても誰も落伍しなかったし、私は余計な真似をしただけだった。
「もういい。お前は海に出るな」
「ですが、それではこの鎮守府の力に……」
「うちを思うならば、大人しくしていろ!」
欠陥品が、と彼は吐き捨てた。
働かざる者食うべからず。
資源は限られている。
「大和の艤装を最優先で入渠させろ。他の奴らは後回しだ。順次、適当に直せ」
「納得できません! なんでこいつなんかのを……」
「やかましい。近々、藤田閣下がこの鎮守府にお見えになるのを忘れたか。かつての帝国海軍の象徴が、煤にまみれた不細工な姿のままではな」
食堂の列に並ぶ私を、誰も彼もが白眼視する。
今日も皆、水を沢山飲んでいる。
お腹が空いているのだ。
すっかり日常になった献立を前に、私は席で呆然と口を半開きにさせていた。
私が海に出なければ、あの子たちの艤装はすぐ直る。私が我慢すれば、皆が少しだけ幸せになれる。
私は何も戦果を挙げられないのだから、だから「食べないこと」だけが、私にできる唯一の艦隊貢献なのだ。
日々備蓄は減っていくし、艦娘たちも疲弊していく。
私が皆の首を絞めている。
私が生きていること自体が、鎮守府にとって良くないのかもしれない。
私は欠陥品だ。だから、食べなくて当然なのだ。だって私は欠陥品だから。
私は二度と配膳の列に加わらなかった。
極度の空腹が訴える激しい腹痛さえも、私にとっての正しい罰だったから、受け入れることができた。
そうしてすっかり塞がった喉が、再び私に牙を剥いている。
これで二度目だ。
「入ってもいいかしら」
声に現実へ引き戻される。ノックに気付けなかった。
慌てて扉を開くと、顔を出したのは正規空母の装いの女性だ。
「加賀型航空母艦の加賀よ。初めまして」
「あ、はい。初めまして! 大和型一番艦の大和です」
「これからよろしく」
「は、はいっ。よろしくお願いいたします」
精いっぱい腰を折る。視界に映る土間で玄関口に立ったままであることを思い出し、慌てて室内へ招く。座卓を挟んで座るも、加賀さんは何も言わない。着任早々何か仕出かしてしまっただろうか。食堂の話が耳に入っていたのならもう誤魔化しの仕様もない。
「えっと……」
沈黙に耐えきれず、無意味な愛想笑いを漏らす。
一文字に唇を引き結んでいる加賀さんは、切れ長の目で私をまっすぐに睨みつけて言った。
「ここには慣れたかしら」
「いえ、今日来たばかりなので」
様子をうかがいながら答える。
私の返答に対し、彼女は黙ったまま目を逸らして、髪を耳にかける仕草をした。元からしっかりかかっていたので空振りに終わっていた。
「あの、加賀さんはどうして私の部屋に?」
たずねると、加賀さんは視線を逸らしたまま「時間があったから」と言った。自嘲するような声のトーンと感じたのは気のせいだろうか。
ところで、と向き直る彼女に背筋を伸ばす。
「夕食に姿が見えなかったけれど、具合でも悪いのかしら」
「食欲がなくて。たぶん、移動の疲れだと思います。お気遣い感謝します」
「そう。ならいいけれど」
必死に笑顔を繕って言う。
舞鶴に保護してもらった際の焼き直しだった。
「本当にあの大和なのか疑わしいものです。はっきり言って屑ですよ。燃費も悪い、使い道もない」
「ほう、それはそれは……。ふむ、私が預かっても構わないだろうか」
そう言って、ニタァ、と邪悪な笑みを浮かべた藤田提督の姿が今でも思い出せる。あの鎮守府司令が思わず後ずさるほどの悪意が込められた笑み。
乗り込んだ車が走り出してすぐに豹変し、「大丈夫か。お腹は空いていないか。痛むところはないか」と別人のように心配してくれたあの人には感謝してもしきれない。
舞鶴では多くの人が温かく迎えてくれた。最初は皆、加賀さんみたいに優しくしてくれたのだ。
初日の夜、用意してくれた歓迎の食事を、私は食べることができなかった。
彼女たちも良かれと思ってのことだった。いつまで経っても固く拒む私へ、何度もスプーンが差し出された。それがついに唇に触れた時、私は腕を押しのけ、椅子をひっくり返し、制止する艦娘も振りほどいて、部屋に逃げ込んだ。
私はひとりになった。
金剛さんと酒匂ちゃんだけがたまに様子を見に来てくれたけれど、私の欠陥が改善されることはなかった。
司令官の期待を裏切り、藤田提督の優しさを裏切り、温かな歓迎の気持ちすらも受け取れない私は、あらゆる意味で不良品だ。
「なにかあれば、私にいつでも言ってちょうだい。力になるわ。皆は忙しいだろうから」
「ありがとうございます」
また明日会いましょう、と加賀さんが立ち上がる。すぐ傍の玄関まで見送り、広すぎる四人部屋には再び痛いほどの沈黙が満ちた。
ここには金剛さんも酒匂ちゃんも、藤田提督もいない。
刺すような腹痛に呻く。
私はこのブルネイで、なにをすればいいのだろう。
◇
「星名だ。少しいいかな」
声に飛び上がって玄関へ走る。扉の先にはきっちり詰襟を着こなしたブルネイの提督の姿があった。二つのお椀と二つの蓋つき容器をお盆に乗せている。
「今日の食堂の余りだ。このままだと廃棄することになるが、もったいないと思ってね。良かったら一緒にどうかな。口に合わなかったとしても処分するだけだから心配しないでいい」
招き入れた提督は座卓にお椀とスプーンを並べる。私のほうには蓋を開けた容器が差し出された。
片方は少し茶けた黄金色をしていて、お肉と野菜を何時間も煮込んだような濃厚な香りが湯気と共に立ち上ってくる。もう片方は真っ白で、こちらからはハーブのような匂いがかすかに香った。
「コンソメスープとじゃがいものポタージュだ」
廃棄してもいいが、もったいないからね。提督は重ねて言った。
私は知っている。今日の献立は野菜あんかけ丼だ。スープもポタージュもなかった。
目の前のこれは間違いなく、私のためだけに特別に用意されたものだ。
これを食べれば、また誰かの命を削ることになる。
いや、これは廃棄だ。私が食べても、誰にもしわ寄せはいかない。
でも明らかに私のために用意されたもので、廃棄なんて提督の優しい嘘に過ぎない。私が食べなくても、これを食べる人がいる。食べるのに相応しい人が他にいる。
それに、私ができる貢献は食べないことだけだから。私が食べちゃいけないから。
「うん、さすがは間宮だな。廃棄するのがもったいない」
コンソメスープをひと口飲んで、提督は口端を緩めた。
提督は決して私を急かそうとしない。ただ同じ空間で美味しそうにスープを飲んでいるだけだ。
提督が立てる食器の音だけが響く。
私が傷つかないように、罪悪感を覚えないように、わざわざ食堂の献立とは違うスープを用意して、「余り物だ」と微笑んでいる。
もしここで私がひと口も手をつけなければ、この人の優しさを、全否定することになる。
私はスプーンを手に取った。冷たくて、重い。
震える手でスープに浸す。くぼみから零れて、三割程度の液体が残ったそれを、私は口に入れた。
味がする。
野菜とお肉の味だ。しょっぱくて、味がある。香ばしい。それに、温かい。
喉が詰まったようになって飲み込めないから、仕方なく舌の上で転がす。まごついているうちにスープは唾液と一緒になって分からなくなっていた。
「スープ飲めたね。温かいね」
そうだ。私は飲み込んでしまった。
罪悪感が突如として沸騰し、粘ついた汗が毛穴をこじ開けて噴出する。
「一緒に食べるとおいしいね」
おいしい?
おいしいって、何だっただろうか。
「そのひと口で充分だよ。よく頑張ってくれたね」
向かいの提督は、本当に嬉しそうにそう言った。
明確なゴールだった。身体の熱がすうっと引いていくことを自覚する。
これ以上食べなくていいんだ。
「残りはいいから、そこで終わりにして構わないよ」
「はい」
言葉に反して、私はスプーンを液体の中に沈めていた。今度は白いポタージュのほうに。
たった十秒の間で、私の気分は信じられないほど楽になっていた。私はもうゴールしている。だからいつやめても構わないのだった。
いつでもやめることができる。だからほんのわずかな量を舌に乗せてみる。やはり、味がした。
しょっぱくて、温かい。
コンソメスープと違って、なにかしゃりしゃりとした細かい粒子のざらつきが舌の上に感じられた。それを認識した瞬間に少しだけえずいてしまう。喉までせり上がったのをきつく堪えると、胸のあたりが大きく波打った。
「怖かっただろうに、スプーンを持とうとしてくれてありがとう」
「いえ」
提督がスプーンを浸し、コンソメスープをすくい取る。鏡の中の像が真似をするみたいに、私もそうした。
また口に含む。温かい。しょっぱい。
「温かいか」
「はい」
「大和がその温かさを知ってくれることが、このスープを作った私や、間宮にとっての救いなんだ。誰かのものを奪ったんじゃない。君が受け取ってくれたから、私と間宮が、そしてこのスープが今、初めて救われたんだ」
「はい」
深呼吸で身体の落ち着きを待って、また食べ進めようとする。
けれど、胃袋のあたりの痙攣はますますひどくなって、身体の底がどんどんせり上がってくる。必死の思いで収めた液体が、みぞおち、胸、喉とどんどんせり上がってくる。
それだけは絶対にだめだ。それだけは、絶対にいけない。
両手で口を覆い、全力で握りつぶす。液体はもう喉を超えて息ができない。
ぴゅる、と手の隙間から情けなく液体が漏れ出た。
ぼたぼたと、薄めた木酢液のような黄褐色の液体がとめどなく垂れる。
提督が作ってくれたのに、優しく褒めてくれたのに、胃袋に留めておくことすらできなかった。
私はそんな優しさすら無駄にする、本当にどうしようもない役立たずだ。
「いいんだ」と提督の声が聞こえる。
何がだ。いい訳がない。私は、こんな。
唐突に視界が暗く狭まって、背中までを何かに包み込まれる。抱き締められていた。
いけない。提督が汚れてしまう。私は必死に押しのけようとしたけれど、やせ細った私の腕と体幹は何の役にも立たなかった。
「いいんだよ、吐いてしまっても。温かいと思った事実は消えない。栄養に身体が喜びすぎて驚いただけだよ。人間の体は機械じゃないんだ、ゆっくり慣らしていけばいい」
私は必死に謝った。謝る以外に私がして差し上げられることは、何もなかった。
「こうして大和と一緒に湯気を眺めていられるだけで、私は幸せだよ」
「ごめん、なさっ、ごめっ、なさい……!」
こんなどうしようもない私を、提督は決して否定しようとしてくれなかった。
「よく頑張ったね」
私は縋りついて泣いた。母親に縋る赤子みたいに泣きじゃくった。不細工な声も憚らず、提督の服が汚れてしまうことも厭わずに。
◇
司令官室に備え付けられているシャワーの冷水を浴びているうち、段々と熱と血の気が引いてくる。
鏡に映る女の顔は赤面を通り越し青ざめていた。鎮守府司令官の思いやりを無碍にし、衣服を吐瀉物で汚した挙句、縋りついて泣きわめきまでした。思い返すまでもなく、私の振る舞いは銃殺ものの失態ではないだろうか。
水浴びを終えてシャワールームを出る。タオルを借りるか迷ったが、部屋や廊下の床を濡らすほうこそ避けるべきと判断してやむを得ず手に取った。
忍び込んでいる訳でもないのに、気分は窃盗犯だった。音を立てぬようひっそりと司令官室を抜け出す。
「もう上がったのか」
飛び上がらなかった自分を褒めてやりたい。廊下の角から現れたのは、髪からしずくを滴らせるブルネイの提督その人だった。大浴場で入浴を済ませてきたようだ。からすの行水という言葉が脳裏に浮かぶ。移動を考慮すればただ水を浴びて出てきただけの私よりもさらに速い。……いや、速すぎやしないか。
強く促されるままに来た道を後ずさりして、結局脱衣所まで後退させられる。居室から持ってきた椅子に私を座らせると、提督は満足気に頷いた。
「そう固くならないでいい。ブルネイの艦娘は優しい子ばかりだから、何も心配することはないよ」
ブラシによって漉かれる髪の間をドライヤーの風がくぐり抜けて、私を温める。
私は首を振って、そうじゃないんです、と示した。今はひたすらに申し訳なかった。あんな醜態を晒した挙句、千金にも値する司令官の時間を奪って髪を乾かさせているだなんて、気が遠くなる。
「何も迷惑じゃないし、何も気にしていないよ。それに私たち、少しは仲良くなれたんじゃないかな。少なくとも何事もなく初日が終わるよりは君のことを知れたと思っている」
提督は風量を緩めて、私がしっかり聞き取れるようはきはきと言った。
むちゃくちゃだと思う。
でも、確かに一理あるとも思う。
私の心の一番柔らかいところを、しかもそれは意図せずむき出しになったものだけど、この人は厭わなかった。
まだ初日だからかもしれない、という警戒は捨てられない。信じさせて逆らえなくしてから都合のいいように扱う鬼畜かもしれない。でもきっとそういう人ではないのではないか、と思えるくらいには、この人を知ることができた。
「だから私は、今日が今日であって良かったと思っている。全部、良かったと思っている」
それ以上の言葉は不要とばかりに、提督は再び風量を増したドライヤーで私の髪を温める。空いたほうの手はしきりに頭を撫でるように動き、それがくすぐったかった。
やがて風と音が止み、ブラシが静かに私の頭皮を撫でる。それすらも終えると「よし」と言って、提督は鏡の中で柔らかく微笑んだ。
「戻って寝るといい。ここのシャワーはいつでも使ってくれて構わないからね」
司令官室の扉の前で頭を下げる私に、提督は「そうだ」と口を開く。
「大和」
「はい」
「ブルネイ泊地へ来てくれてありがとう。また明日。おやすみ」
嬉しいよりも先に、私は怖くなる。
死刑囚は刑の執行前、要望通りのものを食べさせてもらえると聞いたことがある。私は果たしてこの先、いったいどんな過酷な軍務にアサインされるのだろう。
この人の考えていることが分からない。ここは本当に天国のような場所なのか、それとも思った通りに地獄なのか。ずっと宙ぶらりんにされて、希望が見える度に「安心するな、警戒しろ」とそれを殺すことに、少し疲れた。
私はやけくそになって口を開く。今答えが欲しかった。わがままに態度を豹変させて打擲されるならそれでもいいと思った。
「戻りたくありません」
提督の困惑したような表情は初めてだ。けれど瞳にはしっかりと「どういうことなのか教えてほしい」とでも言いたげな光が宿っていて、藤田大将の評を思い出さざるを得なかった。きわめて合理的な人。
「部屋に戻りたくないんです。あそこは、広くて、寂しいので」
「私と一緒に寝たいのか?」
逡巡の末、頷いてみせる。願わくは私にすべての警戒を捨てさせてほしいと思いながら。
心臓がまた音を立てていた。
「ふむ……」
そう言って提督は私室のほうへ引っ込む。司令官室の入り口で沙汰を待って突っ立っていると「おいで」と声があった。許可を得て私室の扉を開く。
殺風景な部屋だった。今も着ている詰襟の替えが何着も下がっている。私物は隅の机にノートパソコンが置かれているくらいで、ほかに見当たらない。
提督は部屋の中心に敷かれている布団に既に潜り込んでいた。枕は二個あった。
あまりにあっけなくて、そして展開が速すぎて、私はなんというか、ちょっと茫然としていた。
すぐ脇をぽんぽんと手で叩いたのでおずおず足を進める。
「いいんですか」
「うん、寝よう。トイレは?」
「大丈夫ですけど……」
「じゃあ寝ようか。ああ、電気を消して」
はあ、とか変な声を出しながら私がスイッチのほうへ寄ろうとすると、居室の外からノックが聞こえる。提督は立ち上がって出て行き、ややあって柔らかな垂れ目の女性と共に戻ってきた。お盆を持っている。
「こんばんは、初めまして。給糧艦の間宮です」
「あっ、どうも。初めまして。大和型戦艦一番艦の大和です」
どうぞ、と自然な風に差し出されたマグカップをつい受け取ってしまう。温められた牛乳の甘い香りがした。きょろきょろと視線を二人に彷徨わせる。間宮さんはにっこり頷いた。提督はあまり表情を変えずにマグカップを傾ける。倣って私もそうすると、口いっぱいに甘さが広がった。独特の重たいような風味が舌に纏わりついて、ずっと口の中が甘い。私は、この甘いのが嬉しい、と思う。味なのに。
「おいしい?」
間宮さんがたずねてくる。わかりません、と答えた。
「じゃあ、好き?」
少し考えて、頷く。この甘いのが、私は好きだ。
三人とも口数少なくホットミルクを飲む。提督は一瞬で飲み干し、いつの間にか私のマグカップも空になっていた。間宮さんは「うんうん」と喉の奥の甲高い声で頷いて、私たちのカップをお盆に回収する。
お腹の奥のほうに溜まった温かいものが段々冷めていく。それに同期するように眠気がやってきて、私はあくびをした。慌てて噛み殺す。
三人で歯磨きを終え、私はひと足先に布団に入った。提督は間宮さんと部屋の入り口でなにか会話を交わしていた。すれ違う瞬間の彼女の瞳は、ほんの一瞬だけわがままな色を宿していた気がする。
彼女を見送った提督が遅れて布団に入ってくる。温かい。ぼんやりした頭で、この温もりから見捨てられないよう二人の距離を小さくする。
「えっ、ほんとにその服で寝てる」
ほんの一瞬沈んでいた意識を、呆れたような囁き声が引き戻す。間宮さんだ。提督の詰襟姿を言っているのだろうか。言われてみれば、あのままだ。
掛け布団が動く。提督を挟んだ反対側に彼女が入って来るのを目を閉じたまま感じながら、私は提督の胴に手を這わせる。
ずっと詰襟をきっちり着こなしている提督も、その下を触ってみると、やわらかいところやかたいところ、ふくらんでいるところやへこんでいるところがあった。
二人の熱をすぐそばに感じながら、私は眠りに落ちる。温かく、穏やかな眠りに。
あたたかい感想とわっふる、活動報告へのコメント、ありがとうございます♥
おかげさまで続きが出ました♥
次回からさっそく攻略に向けて話が動き出します(ほもはせっかち)