「よく無事に帰ってきてくれた」
艦隊は未明に帰投した。窓にはぽつりぽつりと明かりが灯り、鎮守府が目覚め始める時間だ。
こんな時刻の帰投となれば、報告は朝か、あるいは提督が寝過ごしていれば昼にするのが当然だった。
それなのに新しい提督は、僕たちの帰投を知るや否や司令官室に招き入れて、あろうことかねぎらいの言葉までかける。机には書きかけの書類と点きっぱなしのノートパソコンがあった。
「ずっと仕事してた……していたんですか?」
「ああ。ちょっと先回りしてね」
慌てて直した敬語を気にも留めず、提督は紙面をぴらぴらと振ってみせる。
『ブルネイ泊地正面海域の制圧完了に関する作戦報告』。
海域制圧の報告書だ――思わず二度見した。正面海域が制圧下に置けているなんてとても言えない。かろうじて泊地近海の安全を確保できているだけだ。
その書類は、いったいなに? 帰投した僕らの誰もが唖然としていると、提督は立ち上がり、背後の窓へ向かって伸びをした。
「君たちのおかげで、やっと海域攻略に乗り出せそうだよ。ありがとう」
カイーキコーリャク、が何を指しているのか分からなかった。
ともかく、また変なことをするようだ。新しい提督の奇行のせいで鎮守府は話題に事欠かない。
着任初日から資源を使い果たしたり、浜辺でチャーハンを振る舞ったり、素潜りで魚を獲ってきて捌いたり。
鎮守府の隅々をぴかぴかに掃除したり、どこからか敵の資源集積場所の情報を得てきたり。
ボートに乗って海を視察したり、挙句にそのまま民間人を助けたり。
そして――僕たちに感謝したり、人間らしい生活をさせたり。
「海域攻略とは、つまり……海を奪還する、ということですか」
朝潮が言う。僕の頭はまだぼーっとしていた。奪還だとか、現実離れした言葉が聞こえた気がする。ありえない。
「でも、ご主人様、最後に海域解放が行われたのは七年も前で……」
「何が言いたい?」
「……海の奪還なんて、無理です」
提督は振り向き、隈の浮かぶ目元を僕に向けた。
「予定帰投時刻は零時だったね。なぜ遅れた?」
叱責の予感を覚え、たゆたっていた意識が一気に覚醒する。
「それは……」
急かすような視線は、僕が俯くことを許さない。急な動悸で胸のあたりが苦しい。
「目的の海域近くで、敵の哨戒艦隊を探知、して」
「うん。それで? 撃滅したのか?」
「い、いえ」
「なぜだ」
制服の中、わき腹を伝って腰まで滴が流れる。気づけば腋にぐっしょりと汗をかいていた。
「敵物資集積地の警戒は薄く、我が方の略奪は未だに気づかれていないと推測できます」
必死に口を回した。何を口走っているのか自分でも分からなかったけれど、とにかく無言の時間を作ってはいけないと思った。
提督は頷きもせず僕だけを見据えている。
「哨戒艦隊に被害をもたらせば、僕たちの存在と目標が露見すると考えたため、岩礁に隠れてやり過ごす判断を、しました」
「その判断を下したのは誰だ」
提督は足早に歩み寄る。
「み、皆で協議して速やかに決めました」
思わず前腕で頭を覆う。けれど、衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。
「それだ」
腕の隙間から視線を覗かせると、艦隊の皆が控えめに首肯して僕の発言に同意するのが見えた。提督は「それだ」と繰り返す。
「豊富な資源がある。休息に十分な環境がある」
温かい手が僕の腕に触れる。鉛のように固まったそれをゆっくり引きはがした手は、僕の頭の上で止まった。
「そして、優秀な艦娘がいる」
手は、僕の頭を撫でおろすように優しく掃いて降りていく。
僕たちが、優秀?
「海を取り戻せないわけがない」
聞いているだけで奮い立つような語気だった。
「先の判断は君たち自身が下した。君たちには、自分の頭で考え、実行に移し、成功裡に終わらせるだけの能力がある。最後の解放が七年前、結構じゃないか。君たちにはやれる」
奇行にも見えた提督の今までの行動。そのいくつかが、僕の中で、線で繋がっていく。一番遠くにあった可能性。そしてだからこそ、僕たちが諦め、そして
しかし、提督の覇気に割り込む暗い声があった。
「漣が無理って言ったのは、そういうのだけじゃありません。……なんで前任の提督みたいな人しか残ってないか知ってますか。中央が足を引っ張るからですよ」
長いから知ってるんです、と彼女は俯き語った。
本部は派閥の手柄の取り合いで、出る杭は打たれるのが必定だと。鎮守府司令は成果を出した傍から左遷され、あるいは行方不明になって、新たに派遣されるのは、艦隊の指揮に相応しくない能力を持つ人物。彼らは現状維持が精いっぱいで、あるいは望んでそうする者までいる。
彼女の語る実情は、僕の実感としても異論はなかった。
「内地からここに送られてくる資源って、哨戒だけですっからかんになる量でしょう。ここだけじゃないんです。横領されてるんだか中抜きされてるんだか知りませんけど、どこもそういうのが常態化してるんです。はなから勝つ気がないっていうか」
疲れを滲ませ、朝潮が息交じりの言葉を吐く。
「いつから歯車が狂ってしまったんでしょうね」
きっかけは間違いなく七年前だろう。直近の海域解放の直後、勢い任せに行われた大規模作戦と、その大敗。
間を空けず、類を見ない大規模反攻作戦を受けた日本は、海域の大部分を失い、そして有力な司令官の多くも喪われた。以来失敗を極端に恐れるようになった海軍は、残された海を守ること、もっと言えば現状維持に、異様な執着を見せている。
僕にはなんとなく、それが国を想ってのものではないような気がしている。前任者の態度や伝え聞く内地の将官の様子からは、もっと卑しく、刹那的な動機を感じた。
僕たちで風穴を開けてやろう、なんて思ったこともあったっけ。無力感を学習するには、あれから充分すぎる時が流れた。
「だからどれだけ頑張っても、海域解放なんて目を付けられることをしようとしたら、ご主人様も結局……」
誰もその先を否定しなかった。だって、事実だから。
「なら、やっぱり可能じゃないか」
場違いに明るい声が響く。話を聞いていなかったんじゃないかと思って、思わず顔を上げてしまった。
提督は顔色を変えないどころか、むしろ表情を緩めさえしていた。
「要するに、向こうの手を回させなければいいだけの話だろう。やりようは色々ある。世間が無視できないほどの戦果を打ち立てる。派閥の有力な将官を後ろ盾に据える。いっそ、向こうの対応より先に海域をすべて奪還してしまう、なんていうのもね」
「無茶です。それに、艦隊を指揮する司令官に邪魔が入れば、私たちはとても解放どころでは」
提督は朝潮に近づいて、言葉を続けようとする口になにかを突っ込んで黙らせた。彼女は「むぐっ」とつっかえて押し黙る。
「それを心配するのは私の仕事だ。君たちの邪魔はさせない」
机の後ろに回った提督は、手を突き、身を乗り出した。私たち全員を強く睨みつけ言う。
「海を取り戻すぞ」
前任者と同じ職業とは思えなかった。
まっすぐな目を見て知る。この人はその場しのぎを続ける人じゃない。そう感じているのはきっと僕だけじゃないから、部屋には充実した気が満ちていく。
「君たちにはできる。できるのなら、やらねばならない。一刻も早く」
この人は、本気だ。
「そのために今なにか、できることはありますか」
気付けば口をついて出ていた。提督は微笑んで近付き、そして僕の口に硬質なものが突っ込まれる。
「甘いものでも食べて、ゆっくり身体を休めることかな。あと、敬語じゃなくていいよ」
口から引き出したそれは、小さなスプーンだった。横の朝潮が持つものと同じだ。
呆ける残りの八駆と漣の唇にも、提督はスプーンをぶすぶすと刺していく。全員にスプーンを配り終えると、おもむろに司令官室の小型冷蔵庫を開けた。
「さっき間宮と試作したんだ。彼女の特製アイスクリームに、浜辺に自生していたグァバをフランベして添えたデザートだよ。冷たいうちに食べてね」
普段は食堂でスープが注がれる安物のメラミンカップに、真っ白なアイスと、真っ赤でとろとろのソースが収まっている。すくって顔に近づけると、バニラと南国のむせかえるような甘い香りがした。口へ運ぶ。香りと見た目通りの、とっても濃厚で舌がとろける甘酸っぱさ。鼻には、なにか喉が熱くなるような、大人びた刺激的な匂いが抜けていく。
「こんなおいしいの、初めて食べた」
夢見心地で言葉にする。僕の口からは華やかな甘い香りがして、自分のものじゃないみたいだった。
「これまで頑張ってくれたご褒美だよ。もっとも、今日からが本当の闘いだが」
提督は判を持ち、手元の書類に押印した。『ブルネイ泊地正面海域の制圧完了に関する作戦報告』、日付は今日。
なんて乱暴な提督だろう。これで僕たちは、七年ぶりに海域を開放したことになってしまった。
報告には、実が伴わなければならない。
「疲れているところ悪いが、数時間後、海域攻略と関連作戦のブリーフィングを行う。風呂も沸かしてあるから、開始までしっかりと休むように」
アイスをひと口食む。あれほど魅惑的だった味も香りも今やわからない。
「帰って来たばかりでまたすぐ出撃?」
満潮が、ふん、とわざとらしい鼻息を鳴らして言う。上擦る声に提督が答えた。
「望むところ、と顔に書いてあるように見えるが」
「なっ!」
「私に書類を書き直させないでくれよ」
この場にいない皆にも伝えたい。一刻も早く。
「君たちなら、可能だろう?」
僕たちは、海域を奪還するのだ。ブルネイの寂びた鎮守府で汚泥のような生活を送っていた、あの僕たちが。
提督は休めと言った。けれどしばらく、眠れそうにない。
長い夜が明けるのだ。
感想で褒めてもらってやる気が出たので、はやく出ました。