アヒンサー・スレイヤー|絶対に人を屠る魔剣が、虫をも殺さぬ思想 作:寳田 タラバ
アレンは、魚になりたかった。
いや、ちょっと違うな。
魚であった自分が、まちがって人間に生まれてしまっただけだと、本人はいたって本気で思っていた。
“夢は大きく”とか、“人間にはなれないけど”とか、そういう話ではない。
これはアイデンティティの話である。すなわち、間違った包装紙で生まれてきた悲劇。
水。水。水。
地球の70%? それは知らないけど、アレンの中ではほぼ100%だった。
「アレン=水」という方程式は、数学者が泣いて嫌がるくらい強引で、しかも正しかった。
水道からポンと飛び出す一滴にも、彼は恋をした。
アスファルトを強めに叩きつける夕立には、「そのテンションで生きたい」とすら願った。
虫がもがいて残した水たまりの揺らぎには、情緒を見たし、
果物から滴る果汁には、「食べるより見ていたい」と真顔で言った。
胃液? 涙? 血? 汗?
人体から出るあらゆる水分が、彼にとっては詩だった。
たまに変な目で見られたけど、本人はいたって真剣だったので、気にしなかった。たぶん。
姉の涙? もちろん見逃さなかった。
その水面に映った不安も、手に滲んだ血液の温度も、魚だった頃の記憶が反応していた(気がする)。
とにかく、彼にとっての『水』は信仰だった。
水分摂取量はクラスでぶっちぎりのトップ。
風呂に入れば一時間はあたりまえ。
鼻まで浸かって、永遠に水中で暮らせる気がしていた。
そんな彼にとって、「人類は海から陸に上がった」説は、最悪の裏切りだった。
「なに? 海が嫌になったから? 何その自虐? なにそれ進化?」
──アレンは、あらゆる教科書に静かに怒っていた。
この地上の乾いた空気の中で、彼はずっと、間違えられた何かとして生きていた。
でも、そういう少年だったアレンは、雨だけは嫌いだった。
理由はシンプル。服が濡れると冷たいから。
魚だったくせに、陸の都合にはまあまあ忠実だった。
それが変わったのは、母親の一言。
「水も天から降ってくるくらい、あなたのことが好きなのね」
傘をさしながら、濡れた前髪をそっと撫でてくれた。
その瞬間、水はアレンにとって、ただの信仰から、愛に進化した。
それからというもの、彼は豪雨の中を走り回る少年になった。
全身びしょ濡れになっても、空を仰いで笑っていた。
そう、自分を降らせてくれる空に向かって。
────ただし、それも、このときまでは
最初から最後まで、彼の目はぱっちりと開いていた。
これはたぶん事実。もしくは錯覚。たぶん事実であってほしい錯覚。
アレンの身に起きた出来事だけれど、それをリアルに感じるのは難しかった。
劇を見せられている観客のはずが、気づけば椅子ごと舞台に運ばれていた。役者どころか、ただの大道具。
「もし自分が演者だとしたら、この舞台の名前と筋書きを覚えて、台詞を噛まずに言い切らないといけない」
なんて言葉を、父はよく口にした。エリオンの王らしく、重くて硬い教訓をポケットの飴玉みたいに差し出してくる。
そういえばあの人、よくこう言ってた。
「その場にふさわしい振る舞いをしなさい。でなければ、見ている者をがっかりさせる」
じゃあ僕は今、誰をがっかりさせてるんだろう。舞台の神様? 雨雲? 自分自身?
答えの出ない哲学問答を脳裏で転がしながら、周囲に視線を配る。
両手で何かをぎゅうっと握っていた。棒のようなもの。まるで自分の意思で握っているような、握らされているような。どちらでもないような、どちらでもあるような。
そしてアレンは立っていた。ずぶ濡れで。びしょ濡れで。中途半端に濡れるより、かえって派手に濡れてる方が似合うなあ、と変なところで納得していた。
曇り空の下、目は冴えていたけど、体はあくびをしていた。
濡れた服が肌にぴったり貼りついて、まるで「動くな」って命令してるみたいだった。
雨が悪い。全部雨のせい。もしくは、疲れ。
「そう、疲れてるだけだ」
と、自分に言い訳をあげる。プレゼントみたいに包んで。
でも、心のどこかでは、包み紙の中身が不安だって知っていた。
目は動いた。他は動かない。目は頑張っていた。他は反抗期だった。
だんだん怖くなってきた。なので、過去の思考へと逃げ始める。記憶の引き出しを勝手に漁り出す。
「何もできないときこそ、考えろ。頭を回せ」
父の声が脳内スピーカーから再生された。ちょっと音割れ気味に。
ついさっきまで、ここには夏がいた。
いや、いたのは高原か? もしくは、アレンの思い違いか。いずれにせよ、心地よく晴れていて、彼は友人とくだらない話をしていた気がする。どっちが背が伸びたかとか、パンの耳は耳じゃないとか。
足元には、風にゆれる草。よく見るとすごくがんばって立っていた。根性で。
葉っぱの先に乗った露は、ちょっとした自尊心を携えて光っていた。自分が朝露界のセンターですって顔で。
──でも今、その景色はぜんぶ無かった。
ない。ゼロ。幻だったかのように、ぜんぶ。
アレンは、頭の中を棚卸ししながら目を凝らす。
今いる場所が、ほんとうにあの“夏”の続きにあるのか、探そうとする。
もしかして夢か? いや、夢にしては感触がリアルすぎる。感触というか、違和感が。
水を探す。目を皿にして。何もかも忘れてとにかくキラッとしたものを探す。
──見つけた。でもそれは、やや方向性が違った。
曇天の下。
その下で、何かの余燼が、ゆるく、妙に息苦しい光を発していた。
蛍光灯とライターを間違えたような、光のくせに温度のない感じ。
その光に照らされた草花は、前に見たそれとはまるで別物だった。
緑の元気印はどこへやら、赤黒く縮んだ葉っぱたちが、風にペコペコお辞儀をしていた。
控えめに言って、完全に病んでいた。もしくは死んでいた。
草は濡れていた。そこまでは合ってる。だが問題は、何で濡れてるかだった。
水じゃない。いや、水だったとしても、いまこの瞬間のアレンには、信じたくなかった。
美しい記憶と目の前の現実。
その落差に、背中が勝手にゾワっとした。骨が寒くなるというより、背筋に神経を流されたような感覚。
脳が勝手に答え合わせを避けようとする。記憶の再生ボタンを押し直したくなる。
──でも、それでも目は逸らせなかった。
逸らすには、現実があまりにも濃かった。
「僕の身体は、壊れてる?」
問いかけは、誰にも届かず空中をさまよう。返事のない問いに返事をしたのは、背中だった。びっしょりと汗をかいていて、いやに冷たい。
けれど、その真反対にある胸元とお腹まわりは、ぽかぽかと、湯船でも沸かしているように温かい。
何これ。と思ったタイミングで、鼻に刺さるような匂いがぶん殴ってきた。鉄だ。錆びた鉄の匂い。金属バットを脳に突っ込まれた感じ。もう嫌な予感しかしない。
そして、思い出したように思い至る。
ああ、血だ。
血だった。草を濡らしているのも、アレンの身体を「温めて」くれているのも、たぶん血。というか、まごうことなき血液。
何それ。やめてくれないかな。
この瞬間、ようやくアレンは理解する。自分が、わりと普通じゃない状況にいることを。
「ははっ」と笑えたら少し楽だったかもしれないが、口元は乾いてひきつっていた。とりあえず、重たい身体をなんとかしようと試みる。
が、動かない。
いや、正確には、両手が何かを握ったまま、ぜんぜん言うことを聞かない。
「……なにこれ」
声に出すと、ますます恐ろしくなるからやめてほしかったが、もう遅い。
手を開こうとしても、指先は知らんぷり。強張ったまま、ぎゅうぎゅうと何かを掴んでいた。
不自然さが怖さに変わり、怖さが想像力に火をつけた。
──もしも、この血が自分のだったら?
──もしも、これ全部、流れちゃいけない量だったら?
あはは、って笑えるわけがない。
考える前に、全身の感覚が遠ざかる。手足は濁った水の底に沈んでいくようで、心臓だけがやけに元気に生きていた。どこまでも明るく鼓動を打つその様が、逆にホラーだ。
だから、アレンは思い出した。
父の声。
昔からしつこく繰り返されたあれ。
──いいかアレン、何もできないときほど、考えるんだ。頭を使え。
冷静に。落ち着いて。自分自身に命令するように、アレンは口を動かす。
「深呼吸……だ……落ち着け……」
唇は震えていたが、息はなんとか吸えた。ゆっくりと吐いて、鼓動のノックを少しずつ遠ざける。まだいける。まだ思考は死んでいない。
そう言い聞かせて、アレンは目を開けた。視線を、動かない両手へと落とす。
握っていたのは、誰かの手でも、ぬいぐるみでもなかった。
剣の柄だった。しかも、えらくガチなやつ。
視線を追うと、そのガチな剣は地面に向かってではなく、人に向かってまっすぐ、そして遠慮なく、突き刺さっていた。
ズブリと音が聞こえた気がした。現実ではなかったけど、脳内では音が鳴った。
──これはダメなやつだ。
直感が警報を鳴らす中で、剣の刺さりっぷりは容赦がなかった。右下腹部から左肩まで、一直線にぶち抜いていた。器用すぎるにもほどがある。
刃には、どこからどう見ても腸らしきものが絡みついていて、それがまた、やたら芸術的で嫌だった。
「──っ……!」
声にならない息が詰まる。血液が、噴水みたいに弧を描いてアレンに降りかかっていた。
まるで、剣が血をため込んでいたかのように。まるで、アレンを染めるために。
──でも、自分の血じゃない。
そのことに気づいた瞬間、アレンの思考はちょっとした逃避行を始めた。
良かった、じゃあ生きてる。まだ大丈夫、って。
けど、瞼の震えは止まらなかった。血の気が抜け落ちるって、こういうことだったのかと、今さら実感する。
剣は、アレンが持っている。
じゃあ、それで刺されているのは──誰だ?
服装に見覚えは? 顔に記憶は?
視線を上げたとき、答えは残酷なタイミングで現れる。
──憧れていた、彼女だった。
「……嘘だろ……」
ありえない現実に、思考が追いつかない。いや、思考はもう降りた。まるで脳がブレーカー落としたみたいに、ぱちんと真っ白になる。
彼女は、剣に貫かれたまま、ぬいぐるみのようにそこにいた。
なのに──笑っていた。
どうして。なんで。どの面下げて。
アレンは叫びたかった。でも、口が動かなかった。目すら、彼女から逸らせない。まるで魔法だ。悪い意味での。
父の教え? 理性の声? そんなの、今のアレンの耳には届かない。
その代わりに──別の声が、耳の奥を破った。
女の絶叫だった。
いや、耳からじゃない。内側からだった。脳の中から、喉の奥から、全身に反響するように鳴った。
何かが、叫んでいた。
──なぜだ。なぜこんなことに。
その慟哭がアレンの中を引き裂く。喉が焼けつくように痛む。まるで自分が叫んでいるように感じた。
「……夢だ……これは、悪い夢だ……」
現実という檻が壊れていく音がする。アレンは、それに身を委ねる。
考えるのをやめた。見るのをやめた。
やがてすべては、深い、深い闇へと沈んでいった。